私のおうち
中村ハル
大きな団地
自分が棲んでいる住まいが、都市伝説をまとめたアングラ本に載っていたことが、あるだろうか。
私は、ある。
ふらりと立ち寄った大きな書店で、なぜか私は、サブカルコーナーで立ち止まった。嫌いじゃないが、読み始めればきりがないので、普段は敢て見ないようにしている。
ところが、その日に限って、すいと、目が吸い寄せられた。
さほど派手でもなく、今となっては表紙の印象すらないほど、地味な装丁。
隣に並んでいたのは『住んではいけないS県』のような本。その当時は流行していて、その類がたくさんあったのだ。『○○してはいけない××』ブーム。
その一角は、建物や土地に特化して『住んではいけない』系のコーナーを作っていた。それも、土地環境や建築ではなく、アングラやオカルトのジャンルだ。
その本も、きっと、同じような都市伝説をまとめたものだったのだろう。
手に取って、見るともなしにぱらぱらとページを捲る。
私の手が、はたと、止まる。
こんなところで目にするとは、思いもよらぬ。
自分の住んでいた、団地の名が、載っていた。
私が子供の頃から住んでいた団地は、ものすごく規模の大きな建物群だった。
一部の団地好きには有名な建造物のようなので、場所や目立った特徴は敢て伏せておく。
変わった異名も幾つかあるし、それこそ都市伝説になりそうな特徴もいくつもある。でも、検索されたらアウトなので、止めておこう。
近所に住む友人からは「あれは、ノアの箱舟だから。みんなそう言っている」と言われていた。誉めているのではない、たぶん、揶揄されている。
その団地に住んでいて、私が一番困ったことは、内部構造が複雑だということだ。
住戸が並ぶ共有廊下はいたって普通なのだが、建物内に、謎のスペースがたくさんある。
それも、棟ごとに、特徴が違う。
私が住む棟には、ただただ広い空間が6階にあった。
友人の住む棟は10階に、子供が遊ぶための浅いプールのような場所があり、ローラースケートで走り回ったり、縄跳びをしたりした。
はっきりとは覚えていないが、そこに砂場もあったんじゃなかったか。
他にも用途不明のやたらに大きな外階段や、なぜこんなところに、という唐突さで設置されたエレベータなど、方向音痴の私にとって、迷子になるためのトラップがたくさんあった。
事実、住み始めて数年、小学校1年生の時にも、自分の団地でまさかの迷子になる羽目になる。
また、その先に何があるのか分からない、灰色で殺風景な長く、折れ曲がった通路があって、幼い頃は知らない棟へ行くことが、ひどく怖かった。
遊びに行ったことのないフロアや棟には、一体どんなスペースがあったのか。
実のところ、未だに全棟の造りは把握していない。おそらく、全住民がそうなのではなかろうか。
そんな建物が、見逃されるはずが、ない。
案の定、ぺらりと捲った本に書かれていたのは、大きさと複雑な造りゆえに、怪しさを纏う建造物。
曰く、異世界への入り口を抱き込んだ、立ち入り禁止区域。
住民ですらどこにあるのかよくわからない管理人室の灰色の鉄扉は『人が消える開かずの扉』として紹介されていた。
大きすぎるごみ収集所は『物悲しく、夕方に立ち寄るのははばかられる』とか、私が通っていた学校の生徒が、この灰色の扉に吸い込まれ、姿を消して3か月になるそうだ…。そんなわけない。
これらの記事を、私は大変、面白おかしく読んだ。
住んでいた側からすれば「なるほど、あれがそうなるのか」という発見や、「そう見られてるの⁉」という驚き、それに何より「やっぱり怪しいよね」という納得。
幽霊の正体見たり枯れ尾花、ではないけれど、都市伝説に血肉が与えられていく過程が見えて、とても楽しかった。
思わず買おうかと思ったが、ぎりぎりのところで理性が止めた。買えばよかった。理性など、好奇心の前には何の役にも立ちはしない。
だが、ここに書かれていたように、人が消えるのか、といえばそんなのは、ナンセンスだ。
場所が特定されてしまうために、種明かしはできないが、謎のスペースにも理由がある。
聞いてしまえば、なあんだ、と興醒めするくらい真っ当な理由で全てが配置されている。
当たり前だが、普通に何千人という人々が毎日を暮らす、ただただ、複雑な造りの大きな団地なのだ。
時々、見知らぬ白髪のおばあさんがドアスコープいっぱいに顔をくっつけて玄関ドアの前に立っていたり、見知らぬ子どもが何時間もエレベータホールの壁の陰からこちらを覗いていたり。
真夜中に、誰も立っていないのに、延々と扉が叩かれたり、ずーずーと引きずるような足音が、ふっと、途中で消えてなくなったり。
そんなことはしばしばあったが、人が消えたりは、しない。
私のおうち 中村ハル @halnakamura
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