【アニメ】『プラネテス』の件が話題になりましたが、フィクションにおける「リアリティ」問題は難しいものがある
2022年1月29日
現在NHK Eテレにて再放送しているテレビアニメ『プラネテス』について、今週元JAXA職員による作品への指摘が炎上騒動になりました。
『プラネテス』は2003年に放送されたSFアニメであり、宇宙ゴミ「スペースデブリ」を題材にした内容は人気となり、国内でもっとも歴史のあるSF賞の星雲賞において原作漫画(コミック部門)とアニメ(メディア部門)とでダブル受賞するなど、国内SF作品においての名作中の名作。
自分もこの作品を通してデブリという存在を知るきっかけになった貴重な作品。まあ2クール目からはややデブリから離れたストーリーになった印象でしたけど、最終的な結末はとても素晴らしいものだったと記憶しております。
『プラネテス』について知らない方のためにあらすじを紹介(Wikipediaから引用)
“時代は2070年代(2075年以降)。人類は宇宙開発を進め、月面でのヘリウム3の採掘など、資源開発が商業規模で行われている。火星には実験居住施設もあり、木星・土星への有人探査計画も進んでいる。毎日、地上と宇宙とを結ぶ高々度旅客機は軌道上と宇宙とを往復し、宇宙ステーションや月面には多くの人たちが生活し、様々な仕事をしている。しかし、長い宇宙開発の歴史の影で生まれたスペースデブリ(宇宙空間のゴミ。廃棄された人工衛星や、ロケットの残骸など)は軌道上にあふれ、実際にたびたび旅客機と衝突事故を起こすなど、社会問題となっていた。また、地上の貧困・紛争問題は未解決のままで、宇宙開発の恩恵は、先進各国の独占状態にある。このため貧困による僻みや思想的な理由付けによるテロの問題も、また未解決である。主人公のハチマキは宇宙で働くサラリーマン。主な仕事は宇宙のゴミ「デブリ」の回収作業。いつか自分個人の宇宙船を所有することを夢みている。ゴミ拾いは大事な仕事だと自分を納得させつつ、当初の夢と現実の狭間でこのまま現実を受け入れるか、それとも夢を追い求めるか思い悩む。”
そして問題となった元JAXA職員 野田篤司 氏のツイート。
“プラネテス
今まで見ていなかったので、義務的に再放送を3話目まで見ているのだが
何処が面白いんだ、このアニメ
軌道力学的な考察が無茶苦茶なのは、まだ許せるが、主人公だあろう新人、もし私のところに配属されたら、速攻で、不適格者としてクビだ
宇宙特にEVAを甘く見すぎている”
その後、原作者 幸村誠 氏のツイート。
“えー、ちょっとひと言お断りを。
全くもってプラネテスはフィクションでございまして、ウソばっかりでございます。ありもしない宇宙船、ありもしないデブリ、いもしない人物、未来が舞台のボクの空想でございます。
「面白くない」というご感想については、全くボクの力不足で申し訳ございません。”
最終的に、元JAXA職員 野田氏が謝罪し該当ツイートを削除するという顛末となった一連の騒動。Twitterのまとめサービス「Togetter」にまとめられていましたので、そちらのリンクを貼ります。
元JAXA職員「プラネテスの影響で宇宙に対して誤解してる人が多く、実際に宇宙をやっているプロとして迷惑している」→お詫びへ
https://togetter.com/li/1836290
幸村誠先生、「『プラネテス』はフィクションなんですー!わかってー!」と表明。野田篤司氏からお詫びの言葉も
https://togetter.com/li/1836225
さて、今回の騒動でのネット上の反応として、「フィクションなんだから」といったものが多くありました。現に原作者の反応においてもフィクションについて言及されています。
実際にフィクション作品において野暮なツッコミをするケースとして、「リアル」と「リアリティ」をはき違えている、その違いを意識していないことが多いかと思われます。
とはいえ、ではフィクションであれば何をやっても許されるのかと言われれば、素直に賛同できない自分がいます。今回の騒動で「フィクションなんだから」と反応したネットユーザーや原作者の先生のおっしゃることはもっともだと思いますが、同時にフィクションだから許されるガバガバには限度があるとも、個人的には考えています。
だって、フィクションだからといって何でもかんでもトンデモ展開を連発してしまうと、それだけ作品のクオリティが下がるのも当然のことだと思うからです。
たとえば、今期放送中のテレビアニメ『東京24区』とかだと、第一話で都合よくペットが線路に逃げ出し、都合よく飼い主の女の子の脚が線路に挟まるという二重にも三重にもご都合展開をやり、いち視聴者として「そうはならんやろ」と突っ込まざるを得なかったです。第三話でも都合よく竜巻が発生するなど、バカアニメとして見る分にはいいかもしれませんが、作品のリアリティという面で見ると酷いものがあります。
また、なろう水車でお馴染みの『リアデイルの大地にて』の漫画でも、井戸に水車をつけるシーンが読者からの総ツッコミを受け変更したものの、変更後も無茶苦茶で再度総ツッコミされました(そういえばアニメでなろう水車のシーンって放送されたっけ?)。
これら『東京24区』も『リアデイルの大地にて』もあくまでフィクションであるから、こういったガバガバ展開へのツッコミも「フィクションなんだから」と否定されてしまうわけです。ただこの二作品に関しては「フィクションなんだから」と許される程度を超えてしまい見るに堪えないクオリティとなっているのも事実です。
よって、「フィクションなんだから」というのはまったくその通りではあるのですが、ある程度のリアリティを担保しなければならないとも思います。
作者側も「フィクションなんだから」というのを真に受けて何でもかんでも描いてしまうのではなく、受け手側を失望させない程度にリアリティの追求は必要かと思います。
そうそう、これは私事ではあるのですが、昔のことですが異世界ファンタジー作品を投稿した際に、「異世界なんだし日本語通じないだろ」と考えた私は作品のために異世界言語をいちから作り出し意思疎通ができないシーンを序盤で描いたのですが、読者からのコメントで「読みづらい」「作者の自己満足」とたいへん不評で泣く泣く全カットした苦い記憶があります。
作者によるリアリティの追求も、それがフィクションとしての面白さに繋がるわけではないと学びましたね。
作者にとってのリアリティと受け手側が必要としているリアリティは違うということかもしれません。
とはいえ受け手側も、フィクション作品におけるリアリティについてある程度の寛容さも必要かと。というかフィクションに対して寛容であればあるほどそれだけ多くの作品を楽しめるかと思います。
つまりは作者側によるリアリティの追求と、受け手側によるリアリティの寛容さが噛み合ったポイントが、作品にとっての魅力に繋がるのかと思います。またこの嚙み合ったポイントの範囲が広ければそれだけ多くの人気を獲得することに繋がるかと。
今回の『プラネテス』の件についても、そもそも『プラネテス』という作品自体がリアリティの噛み合うポイントが広く多くのファンがついている名作であり、元JAXA職員の考証へのツッコミも、元JAXA職員と作品が噛み合わなかっただけの話。(というか批判を突き詰めると主人公が気に入らないだけなのですがね)
作品と噛み合わないのであれば、別に否定的な感想を述べてもいいけど、無理して作品に付き合う必要もないよね、ということを言いたい。加えて、作者側にとってもどうしても噛み合わない受け手は一定数存在するので、「一理ある」くらいの軽い受け止め方でいいと思います。
フィクション作品におけるリアリティ問題というのはそういうものだと、今回の『プラネテス』の騒動で改めて思いました。
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