砂漠を歩く

 売上の集計をしていた。

 営業時間中だが、もうこの時間になると、やってくる客も知れている――午前3時。来客があったとしても、売上は明日の集計に廻せばいい。

 目の前で泣いている、坂上の代金もそうなるわけだが――マスターはそっと、台帳を綴じ、売上金と共にそれを手提げ金庫に納めた。

 坂上が居る日は、彼の退店を待たず、締め作業をする。


「――はぁ、俺はこれでも、ずーっと考えてたんや。なのに、こんな――」


「また、メールが返ってこないのか」


 坂上はカウンターに上半身を預け、両手で顔を覆っていた。ワイシャツのボタンは二つ外れており、くしゃくしゃに緩んだネクタイが、坂上と同じように、カウンターの上でたるんでいる。その傍らには、スマートフォンが置かれていた。


「こんな時間まで待っても、もうメールなんて来ないぞ」


「わかってますよ。わかってるけど――」


 坂上は顔を上げた。両目は赤くなり、口角は垂れ下がっている。


「わかってるけど、なんや?」


「家に独りでおったら、色々考えちゃうでしょ。そういう時の、こういうお店」


 マスターは大きく息を吐き、


「ここにこうやって遅うまでおっても、明日の仕事もあるやろ?」


「明日は訪問も少ないですから、別にどうってこと・・・・うっ――」


「もうこれ以上、泣くんじゃないよ」


 社会人二年目の男――新卒の時に、坂上はふらっとやってきたが・・・・仕事が辛く、地元に帰りたいと泣きじゃくっていたのも確か、これくらいの時間だった――マスターは坂上のグラスを引き取り、


「もう、お開きや。恋にうつつを抜かすのも、ほどほどにする事やな」


 坂上は、ハッとしたような眼差しをマスターに向けた。潤んだ瞳は、悲しみと怒りが混ざりあっているように見える。

 マスターは、じっと坂上の両眼を捉え、


「社会人やろ。ちゃんと慣れるまでは、明日の事も気にせなあかんぞ。赤らめた顔で、誰が外回り出来るんや」


 坂上は、世間一般から見れば、大人だ。だが、坂上の感性はまだ、世間がいうところ「いわゆる」大人を体現するに至っていない。

 坂上は今、あれもしたいコレもしたいを貫けば、何とかなった学生時代の甘さと、これをしなければならない、という義務の上でバランスをとるのに精一杯だ。

 恋愛相談にはいくらでも乗る。それがカウンターに立つ理由だ――だが、明日の仕事に影響を与えるほど、付き合ってやる事は出来ない。


「待つしかない。仕事しながら、待つ事に慣れていこうや」


「うぅ・・・・」


 坂上は悲しみに負け、涙を流す。

 暗いスマートフォンの画面の中に、その泣き顔がぼんやりと反射していた。


 翌日。午前――酒の納入業者がやってきた。納品場所のキッチン裏の鍵を開け、誘導する。その時、管理してあるツマミの在庫が減っていることに気が付いた。


「――お久しぶりです」


「マスター、元気そうやない」


 「なんてん」の主人、乃木が手捏ねしながら、マスターを出迎えた。

 薬師寺町の平屋通りにある乾物屋。観光客で賑わう商店街の外れにあって、商売気が全く感じられないのは、妙に埃じみた店内のせいか。そこに所狭しと並ぶ、乾物の納まる瓶が醸す、時流に抗う重み。つまり、老舗なのだ。 

 乃木は、マスターが店内に落ち着くまで、じっとその姿を目で追う。

 来客が外に流れていかない事を願う「祈りの目」であり、客を逃さないために無意識的に働く「圧の目」――だがしかし、その視線に「イヤミ」は無い。それは、歴史と外連に溢れたこの町で、長年商い続けてきたからこそ成せる「技」――マスターは、乃木のその所作を愛している。


「ツマミが切れたんですわ。普段よりええもん食べたいと思うたんで、寄らせてもらいました」


「ほんまはマスターのへそくりや。なんでも知っとんのやで」


 乃木は番台の横にある木製の丸椅子を引きずり、そこに腰をおろした。痩せた頬が笑みに歪むと、


「アテにこだわる店やないからな、あんたんところは」


「そうでもないですよ」


 マスターも言いながら、番台に繋がる三和土に腰をおろした。乃木の表情が弛緩したのがわかる。


「こだわる時ゃ、あんたは調理場に立って手作りもするやろ。でも、適当なツマミも必要や。買う側も飲む側も、気負いせんもんが。そんなは正味、ネットで買えばええ。マスターもその口や。うちみたいなとこに来る理由は、あんたがただ、自分で愉しみたいからって事やろ?」


 マスターは、くくく、と笑い、ポケットから三千円抜き取ると、


「いつも通り、珍味とナッツで見繕って下さい」


「はいよ」


 乃木は商品と共に、と称したおまけ――紙袋をマスターに渡した。その袋を開けると、マンゴーやブルーベリーなどのドライフルーツが入っている。


「乃木さん、ええんですか」


「普段、果実系は買わんやろ。たまには食べてみぃや」


「ありがたく」


 言って、おじきをすると、乃木が茶を勧めてきた。


「あんまし、甘えられんですわ」


「俺もガキの頃、飲み屋の手伝いをしてたからわかる。寝とけばええものを、なかなか寝れず、気が付けば朝になって、寝れなくなる・・・・休んでいきなはれ」


 言って乃木は、番台の向こうに消えていった。

 マスターは紙袋を手にしたまま、乃木の帰りを待った。

 ――寝とけばええものを――水商売のジレンマか。

 水商売は時に、最後の客に気持ちが引っ張られる。

 それら客との話に、自分自身の中で折り合いがつかない時、明かりの落ちた店内は、途端に空虚な箱となる。

 酒の入った客は、酔いに任せ、泣き、笑い、怒る。だがいずれも最後は、必ず帰っていき、店には、自分だけとなる。

 仕事を終えた充足感も無い。おいそれと眠れない。最後の客との会話が、頭の中で反芻される。

 誰も向き合ってくれる相手のいない空間で、客と交わした会話を思い起こし、納得や後悔を抱き、時に自問自答しながら、ひたすら、無意識に――あれで良かったのかと――昨夜、泣き上戸のいなくなった店内で、マスターは最後のツマミを平らげていた。


「――ほら、飲めや」


 戻ってきた乃木が、湯呑を渡してきた。


「こんな時しか食べんもんってものこそ、案外うまいもんやで」


 マスターは頭を下げ、茶を啜った。渋みとまろ味が、舌の上を撫でていく――恋にうつつを抜かすな――自分の放った台詞が、一瞬だけ頭に浮かんだ。


「休みとか取ってんのか?」


 乃木が軒先に視線を据えたまま言った。マスターはその横顔を見つめ、


「特に決めてないですね。気分で開けたり閉めたりなんで」


「自分の城の特権やね」


「乃木さんもでしょ」


 乃木は視線をずらさない。マスターもそれを追うように、軒先を眺めた。

 繁華街から流れてくる観光客が、楽しげに過ぎ去ってゆく。時たま、外国人が店の中に視線をやり、物珍しげにカメラを向けてくる。

 乃木はそのたびに、ピースを作って微笑んだ。


「うまいですね。ブルーベリー」


「ちぃとでも、その味がわかる人を増やしたいもんやで」


「今度から、買わせてもらいます」


「そういう意味で言うたんやない」


「いや、ほんまに」


 乃木は立ち上がり、店内にある瓶の蓋を開けた。マスターが食べたのと同じブルーベリーが入っており、それを透明のタッパーにいくつか落とし、軒先へ向かった。


「まいど、お客さん、少し食べていきまへんか」


 通りを歩く客に呼びかけている。

 マスターはその後ろ姿を眺めながら、最後の茶を喉に通した。


 ――坂上が、三日ぶりにやってきた。

 カウンターについて、二時間。そろそろ、酒が廻ってくる時間だった。

 マスターは、乃木から買った乾物の納められた「へそくり棚」に視線をやった。

 精算の準備に取り掛かる。坂上のグラスの中身は、氷がほとんど溶け、ウィスキーが薄まっている。もう、あれ以上、飲む事はないだろう。


「ねぇ、マスター」


 俯いていた坂上が、のっそり首を持ち上げてマスターを呼びかけた。

 まどろんだ口調だが、両眼はしっかり据わっている。首元を見ると、シャツのボタンは一つしか開いていない。ネクタイも、少し緩められた程度だ。


「聞いてもえぇですか」


「なんや?」


「俺、いつも、ここで泣いてたでしょ」


「気が付いたか?」


 坂上はゆっくり頷いた。


「特にこの前は・・・・朝、顔の腫れが酷くてね」


「会社で怒られたか・・・・」


「まぁ、そんなとこ。でも、今日は、なぜか涙が出んくてね」


「メールが返ってきた――」


 マスターは言いかけ、


「――そんな感じやないな」


 顔をそらさぬ坂上の表情に、言葉を言い換えた。


「別れたいなんて、素直に言われると、妙に気持ちえぇもんですわ」


 坂上は視線を手元に戻し、薄くなったグラスの中身を一口舐めた。そして、グラスの中に、呆けたような言葉を投げかけた。


「仕事、頑張るかなぁ・・・・」


 マスターは、精算の手を止めた。そして、「へそくり棚」から、乃木から調達してきたツマミを皿に盛った。


「今日は、一緒に食べてから帰るか」


 空虚な箱に、なりうる夜か――そこを歩く、今日は、二人。


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オータムナイト 西野圭 @sawakei

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