災いのもと
窓際のテーブルスペースに、男は座った。
マスターがオーダーを取りに行くと、ビール、とだけ男は言い、手にしていたクラッチバッグの中からタブレットPCを取りだした。
中年の見た目だが、タブレットに向き合うしゃんとした佇まいが、若い。マスターは黙ってその場を立ち去った。
小皿に盛ったナッツとビールを男の元へ運んだ時も、男は黙々とキーパッドを打っていた。ちらっと見えた画面には、数字とグラフが並んでいる。
マスターがカウンターまで戻ると、スツールでウィスキーグラスを傾けていた中田が、
「酒飲みながら仕事とはねぇ」
「中田さんには無理か?」
「ゼロを一つ打ち間違えてみ。酔ってましたじゃ済まへん」
「営業してたら、数字の恐ろしさがイヤとわかるだろうな」
「せやで。あんな真面目な格好しとっても、やり方で失敗したら元も子もないわ」
普段はさして饒舌でもない中田は早口でそぼやいた。声音も大きくなっている。酔っているのだ。マスターはひやりとしながら、ステレオのボリュームを上げた。「ラプソディ・イン・ブルー」が、中田のぼやきをかき消してくれる事を祈った。
「マスター、お代わりちょうだいな」
はいよ、と言い、タリスカーを取り出した。そして横目で男を見た。中田の言葉は聞こえていないようで、黙々とキーパッドを打っている。ほっとひと息漏らすと、中田はニヤリと笑い、
「ここはスタバやないんやで」
「お口にチャックしといてや」
「してもええけど、ゲロりそうになったら助けてや」
「口の中で爆発だけはしてくれるなよ」
「しかし。あかん。酒場で仕事風景など、他人様でも見とうないわ。暗くようわからん、どんな顔してるんや」
「やめとけ、やめとけ」
マスターは中田を制止した。中田は酒を呷った。いつもよりペースが速い。
いつもと様子が違う――悪酔いするかもしれない。
店の隣にはビジネスホテルがある。そこのフロントチーフの顔が、マスターの頭に浮かんだ。酔客はホテルに送り込めばいい。密約じみた掟を、そこのチーフと交わしている。
「なんや、嬉しそうに」
「まぁ飲み過ぎもほどほどにな。明日の仕事に堪えるぞ」
「わかっとる。口説いとるトコがあんねん」
「女の子?」
「嫁にバラバラにされますな」
二十代の頃に結婚した嫁と発泡酒で晩酌をするのが日課や――中田のお決まり文句だ。四十を超えた今、ビール腹を嘆いた嫁に発泡酒をただの炭酸水に切り替えられた――という、
「営業してたら、相手の好き嫌いのリサーチが得意になる。今ならもっと、可愛い嫁さん見つけられたんやないかと思う時も、ふとある」
「魔が差すんやな」
「せやからそういう魔を鎮めるために、ガシガシ営業かけてご新規さんを口説くんや」
「肉欲を勤労に活かす、次世代エネルギーやな」
「エコやろ。といって、魔が差すのも、一年に三回くらいや」
「割に多いんとちゃうか」
自分のところにやって来る、甘美な悪魔。
その捌き方を知らず、色々な意味で散るを知った、男達女達をマスターは思い出していた。
今はその誰もが、もうこの店には来ていない。幸せに、しているだろうか――
空になった中田のグラスを下げ、新しいものに取り替えて酒を注ぎ、差し出した。テーブルスペースの男を見ると、ビールグラスは空になっている。
数日後。午後十時。
店の戸が開いた。地面を滑る冷たい風と共に、あの日の、テーブルスペースの男が入ってきた。
「いらっしゃい」
マスターが言うと、男は片手を上げ、今度は対面テーブル席に腰をかけた。少し遅れて、中田が店に入ってくる。
「どうも」
と、マスター。
中田はマスターと目を合わせると、気まずそうな様子でマスターのもとに寄ってきた。
「これから商談ですわ」
「こんな時間に?」
中田は小さく頷いた。
「中田さん、この席でええですか?」
席に座っていた男が手をあげ、中田を呼ぶ。
偶然か巡り合わせか、いつか語っていた中田の口説き相手は、すでにあの日、ここで酒を飲んでいたらしい。当の中田は、悪態を浴びせていた相手に、今はヘコヘコして向き合っている。
「お口の魔が、差してたんだな・・・・」
あの日を思い、マスターは呟かずにはいられなかった。
――彼らの伝票に、ビールとウィスキーの項目が重なっていく。
もうじき二時間ほど経とうとしている。ずっと話きりだ。どんな話をしているのか、耳を傾けようとしてステレオの音量を下げたりするが、なかなか聞こえてこない。
だが幸いなことに、中田のあの日の悪口が、相手には聞こえていなかったというのは、二人の態度で読み取れた。
商談の始まりから、マスターは様子を伺っていたが、あの日の自分への非難を大人の対応として胸の奥底に閉まっている風も、あの男にはなかったからだ。
それよりもわかりやすい、中田の顔色。酒は好きだが、強くはない。対する男は、しれっとしている。このコントラストが、マスターを身震いさせた。中田は、限界を迎えつつある。
粗相のお供は、エチケット袋だ。カウンターの裏側に忍ばせているそれを準備しておこうと、マスターが腰を曲げた瞬間――
「リサーチ不足でしたわ」
どもるような、中田の声。酒のせいで、声が大きい。
マスターはカウンターから顔を少し覗かせた。中田の正面に座っている商談相手は、うんうんと、頷いている。
「さすがに、家族関係までは、リサーチ出来ませんわ」
「中田さんトコの話し聞いてたら、妙にうらやましゅうてかなわん。家に帰っても、痛風の嫁が怒って酒も飲めん俺からしたら・・・・ね」
「私も酒場で仕事しとるとは珍しいと思うてたんです。そんな事情があるとも知らず、勤勉やなぁと、勝手ながら思うてました」
――ここはスタバやないと皮肉っていた男が、何を言う
マスターはにやりと笑う。
「ほんでまして、こんな時間に仕事の話と聞いたもんで驚きました」
「おもろいでしょう。こういう無茶に付き合ってくれる人がおったらええなと、軽い気持ちで誘ってみたんです。ほんまは今日の日中でも、明日の日中でも良かったんやけどね」
「なかなか、豪胆ですね」
こともなげに中田は言うが、実際は、ひやりとしたに違いない。商談場所をここと指定された中田はまず、あの日の自分の悪態が、相手に聞こえていた事か否かを疑ったはずだ。だからこそ、店に入ってきた時、妙に気まずげにしていたのだ。これから、追及が始まるのではないかと・・・・
「しかし、まさか、中田さんもあの日におったとはね。前日嫁さんと喧嘩して、家に帰るのも癪。業務も残ってたんで、しゃぁなし、残業やと思うてバーで酒など飲みながら仕事してました。おもろい様に捗るのがまた皮肉でしてな」
それを聞いた中田の表情が、ぱっと華やいだ。顔色は青く変色しているように見えたが、爛々と光る瞳の輝きは、澱みなく澄んでいる。
「おもろい偶然です。うちも前日、喧嘩してたんですわ。おかげで、アルコールがよう喉を通りましたわ」
次は、商談相手が花と化した。
中田は、上機嫌に続けた。
あの日の前日、いつもの晩酌に嫁さんが付き合ってくれなかったこと、それをいいことに缶ビールを呑もうとしていたら、横から缶を掻っ攫い、結局、呑ませてはくれなかったこと・・・・
「愛されてますね。缶を掻っ攫ったあと、うちの嫁ならそれを呑み下します。痛風なのにね」
商談相手の愚痴が炸裂したところで、二人の語らいはピークに達し、中田の胃袋も極致へ――マスターは、そっとエチケット袋を差し出した。
そのまた後日、中田が店にやってきた。
悟ったような瞳がマスターを捉えた。
あの日交わした契約書は無効になった――空虚な声音だった。
「ゼロの書き間違いか?」
マスターはあの晩を思い出しながら問うた。
あの日の二人は、旧交を温める同級生のような風すらあった――特に、互いの家庭で夫婦のいざこざがあったことを知ってから。
「判子押すとこ、二人して間違えとった」
契約書のど真ん中に、二つの朱色が浮かんでいたという。
「太陽が二つ昇ってた。どこの神話や。聞いたことないぞ」
「酒を飲みながら仕事をするなと、誰が言ったか俺は覚えてるんやけどね」
「酒やめて、コーヒーにしようかしら。人魚のやつ」
以降、二人は連れ添って店に来るようにはなったのだが。
了
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