黄金曲輪

 それは、キリだった。

 三年ぶり? いや、四年ぶりかもしれない。

 赤い髪、鋭利なアイメイク、黒のセットアップ――女がスツールに腰を掛けるまで、マスターはそれが、キリだと気が付かなかった。


「久しぶり、マスター」


「お、おう」


 人は予期せぬ変貌を前にすると、言葉が泳いで行き場を失うのか。自分の言葉の震えを、マスターは恥じた。

 記憶のキリは、まだ大学生だった。男に影響されて酒場に通っていた学生に、スレてない、なんて言葉は嘘のように聞こえるが、あの頃のキリは、スレてなかった――その頃の印象が強くて、キリの「久しぶり」を、マスターは認識出来なかった。


「ほんま、久しぶりやん」


「マスターは相変わらず。もう少し驚いてくれるかと思ったのに」


 目指していたものは、パンクアーティスト?

 水色のカラーコンタクトで膨張したキリの瞳が、マスターをじっと見つめている。


「何から話せばええかわからん時は、とりあえず平静を装うんや。覚えとき」


 動揺を隠すため、そしてにわかに抱いている再会の気恥ずかしさを誤魔化すため、マスターは卓上のミニ冷蔵庫からトマトジュースを取り出した。


「レッドアイなんて飲まないよ。一度だって飲んだ事ある?」


 マスターはにやりとして首を振り、


「いいや。君はジントニックや」


「ほんとよ。マスター、見た目で判断する人だった?」


「あまりに変わってたからや」


 キリは笑みを浮かべ、


「笑えばいいよ」


「ゆっくり話を聞いて、それから笑ってやる」


「前置きしとくよ。私は何も、変わってない」


 キリのすらりとした人差し指が、マスターに向けられた。


「ジントニック、作ってよ」


 マスターは頷き、酒棚からジンの瓶を取り出した。


 キリはよく、恋人と店に来ていた。

 カウンターよりソファ席でくつろいでいた事が多く、相手が酒飲みだったのか、ソファの上で寝ころびかけていた男を、たしなめていたキリの姿を思い出す。

 いつだったか、珍しく二人がカウンターに座った時、キリが留学に行くという話をしていた。

 マスターは酒を作りながら、二人の言葉に耳を傾けていた。


 ――行政が補助金を?


 ――うん。申請の期限が月末なんよね。うちも卒業までの単位は間に合っとるから、来週にでも書類揃えようかなって思うてる


 ――就職はどうなるねん


 ――前にも言うたけどさ、文化財修復って、わりに門が狭くてさ。院に進めるお金もないし、うちは大学の留学制度にも遅れたから、もうここしかないねん


 ――決めてるんか


 ――決めてるね


 二人の前にジントニックを置いた時、二人とも俯いていた。その姿を見て、何故この日、二人がカウンターに座ったのか、なんとなくマスターにはわかった気がした。


「――お待たせ」


 キリがカウンターに座るのは、あの日以来だった。珍しい物でも見るような視線を、キリはロンググラスに向けている。


「早速、笑ってしまいそうや」


「なんか、懐かしくない?」


 言って、キリが微笑んだ。見た目にそぐわぬ、子供のような顔をする。


「いただきます」


 味わうように、ゆっくりと――キリの嗜み方を、マスターは見守った。


「美味しいね」


「ありがとう」


 グラスをコースターに戻し、キリは深い息を吐いた。


「もう、廻ってきたか? 酒なら連れにも負けてなかったやろ?」


 マスターは少しだけ、ふっかけた。

 キリの肩がぴくりと浮かんで、


「覚えとるね、マスター」


 またにっこりはにかんだ。


「思い出しとる。君がここに座るんは、あの日以来。そんで、君らを見たんも、あの日が最後やった」


「この前みたいに私は思い出すんやけど」


 キリがまた、グラスを口に運んだ。


「こっちに帰ってきたのはいつや? 確か――」


「ドイツね。こっちに帰ってきたのは、今日」


「今日?」


「この店に帰ってきたのは、って事」


 ちゃかすなよ、とマスターは言い、しかしキリの表情が少しだけ苦みをまとっていた事に気が付くと、


「向こうは合わなかったか?」


「いや――やっぱ無茶やったかなぁ」


「無茶?」


「勉強に行ったんやけどね、やっぱりうまく働き口を探せなくてさ。言葉や生活はよかったけど、甘かったよね」


 一息つくように、キリは酒を飲む。次いで、ふぅ、と吐息を漏らす。


「決めてる、なんてよく言えたなって思うよね」


「彼とは?」


「あれきり。全部うまくいくって、あの頃は思ってたんだろうね。彼の事、考えてなかった」


「あの夜、カウンターを選んだのは君か?」


「うん、そうやけど」


「やっぱり。君も、そんな事を覚えとる」


 言って、マスターは、キリの前に置かれているジンの瓶を手に取った。次いで、冷蔵庫からトニックウォーターを取り出し、新たなグラスを手元に置く。

 キリのグラスは、いつの間にか空っぽだった。


「向こうに行く事と彼の事が頭にあった。だからここに座った。君はなんも、考えてなかった訳じゃないと思うけど」


 二杯目のジントニックをキリへ。キリは微笑んだまま、頭を下げた。その俯く姿が、あの夜のキリと被る――まるで、独りで、大きなモノと対峙しているような――


「――同じ光景に同じ酒。確かに、君は変わってない」


 キリはゆっくり頭を上げ、赤い前髪の隙間からマスターを見た。


「笑っちゃうでしょ」


「挑んできた。そして、何かを見てきて、戻ってきた」


「結果は出てないけどね」


「これからわかるよ」


 キリがグラスを手に取った。じっとグラスの縁を眺めている。店の照明がその曲線上を走り、ゴールドリングが浮かび上がっていた。その「月」を眺めているキリの顔は、どことなく、柔らかい。


「さて、積もる話はまだあるやろ?」


 マスターが言うと、月から顔をあげたキリは、無邪気そうに口を尖らせ、


「例えば?」


 目を丸くして問うてきた。


「その格好はなんや?」


「向こうで知り合った友達の影響やね」


「なるほどなぁ。友達、ね」


「影響されやすいから、私」


「知ってる」


「ね、変わってないでしょ?」


「その意地悪げな視線はどこで覚えた?」


「そんな、意識した事ない。なんでやろ?」


「いや、聞かれても」


「あっ。やっぱ私、変わっちゃったかもね。ね?」


「さぁ、どうだか」


 マスターは曖昧に答えた。キリは前のめりになって笑っている。

 心のどこかでキリに負けた気がして、マスターは苦笑した。


 了

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