ひとり

 隣のビジネスホテルから、三人が流れてきた。ほとんどが、二、三杯しか呑んでいない。客の少ない日なのでありがたい事だが、その内訳はビールとソフトドリンクに占められる。呑めないのであれば、食べてくれるだろうと思ったが、儚い望み。一品料理どころか、ツマミすら摘まぬまま三人は帰っていった。一括勘定で、カードを切った。


 マスターは、彼らの使ったグラスを洗い、ステレオのスイッチを切った。シェリル・リンの残響を感じながら、店外に出る。


 店は繁華街とビジネス街に挟まれていた。人の流れのない夜は、朧な明かりだけが店を彩る。その明かりというのも、月であったり星であったりすれば風情はあるだろうが、そうしたものは、街路灯の明かりが否定する。


 マスターは、店と歩道を繋ぐ階段に腰をかけた。橙色に染まったアスファルトは、陰りを帯びた一帯とのコントラストをより強めている。

 吐き出された紫煙は、煢然たる浮島に漂う雲になって、夜空に浮かんでいく。マスターがそれを目で追っていくと、


「よう」


 浮かびゆく雲の向こうにいたのは、松原徹だった。隣のビジネスホテルのフロント主任をしている。


「俺が送った客はどうやった」


「暇な日の小遣いやね」


「たいそうな口利きや」


 酒を飲むため、繁華街まで歩くのを面倒がる客も多い。そうした客に松原は、隣接する酒場を紹介する。逆に酔い潰れた客を、マスターが松原のホテルへ案内する事もある。


「あがりか?」


「もうじき日が変わるがな。それまでには帰りたいね」


「誰もいない家に急ぐのか?」


 松原は鼻で笑い、


「寝るだけや。それで充分や」


「燃費の良い生活やね」


 街路の灯りが、松原の笑顔を照らす。橙色はそこでもやはり、コントラストを生み出していた。松原の目元は少し、落くぼんでいる。


「こんな仕事してたら、身体調子から生活を逆算するようなる」


 松原が言う。その身体は、年々、肥っていた。顔の皴も少なく、頭髪も加齢を感じさせない程度に整っているが、身体の大きさだけヨコに増えているから、妙にアンバランスに映る。


「じろじろ見なさんなや。マスターが言う事は一つやろ」


「生活の見直し」


「そこを見直してたんが消えちゃ世話ぁない。その結果がこれや」


 にやりと笑いながら、松原は太鼓腹を叩いた。その視線は、マスターの指先の煙草を捉えている。それに気が付き、


「吸うか?」


 と、マスターはセブンスターのパッケージを差し出した。


「そいつだけはまだ我慢しとる」


「もう、しなくてええのにか」


「色々あるんや」


 松原は言い、マスターの隣に腰をかけた。そして松原は、


「まだ、抜けねぇシミもある」


 空っぽの大通りの、遠くの方で鳴ったクラクションが、その「呟き」をかき消すように残響する。しかし、マスターの耳の奥で、松原の言葉は残滓となった――夜ごと、シミは深くなってるんだろう?

 

「――寄ってくか」


 吸っていた煙草をアスファルトに捻り潰し、マスターは言った。携帯灰皿をポケットから取り出す。それに松原は、そうやなぁ、と妙に間延びした返事で応える。どうした? とマスターは尋ねようと思ったが、やめた。


「明日も仕事なんやがな」


「何時から?」


「昼番やが――何故かしらん、やるせないな」


「何故かしら?」


「明日を気にして吞むようになったんは、いつからや」


「さぁ。そこのとこについては、あまり口をだせんな。商売柄」


「あきんどやな」


 松原がちゃかすように言う。その声音は、さっきより澄んでいた。


「一杯だけやで」


「明日、後悔させないのも俺の仕事なんだ」


 マスターは立ち上がり、店の戸を引いて松原を招き入れた。腰を据えて向き合ったのはいつぶりか――そんな疑問が、ふと湧いた。

 

 松原がスツールに座った。マスターはカウンター越しに立ち、問う。


「さて、何がええ」


 シミの浸透が止まればいい。せめて、今夜だけは――思い、マスターはステレオのスイッチを入れた。


 了

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