206
芦花公園
COUNTING
台所から奇妙な物音がする。私はこの音を聞いたことがある。ちょうど10歳の夏、今日のような暑い日に。
あの日、叔母の家に行く日の朝に私は熱を出した。行きたいとせがんだが許してもらえず、私はひとり留守番をしていた。昼食を済ませ、ベッドに入ると熱のせいもあってすぐ眠りにおちた。
ガラス玉が床を転がるような――そんな奇妙な音で目が覚める。両親が帰ってきたのだろうか。しかし、居間にも台所にも電気は点いていない。その台所から、音はするのだ。外は薄暗く、空気はむわっと嫌なにおいがして、私の不安と少しの好奇心を掻き立てた。私は一歩、また一歩と台所へ進んでいった。
「172、173、174」
男の声がした。この廊下の先に、ほの暗い闇の中に、誰かがいる。心臓が凍り付いたように冷たくなり、つま先からじわり、じわりと冷えていく。
「175、176」
男の声が止まった。それと同時に音も止まる。不気味な静寂が訪れた。それはほんの数秒だったが、私には永遠にも感じられた。私はもう廊下を戻ることも、その場に蹲ることさえできなかった。
「ばれてしまったね」
気付くと男は私の前に腰かけていた。顔は闇よりなお暗く、若いのか、老いているのかも分からない。
「死にたいか?怖くて怖くて死にたいか?」
男は楽しそうに聞いてくる。もはや、まばたきさえできなかった。
「君は幸せだ。いま死ぬことはない。まあひとつ話を聞いてくれよ。聞くも哀れな男の話だ」
男は私の返答も待たず、話し始めた――――
エルという男がいた。両親から溺愛されていた。君のようにね。溺愛されていたからか、それとも元来の気性なのか、エルはひどく傲慢な性格に育った。
ある夜、エルは鹿が食べたくなった。父親は夜も更けているし明日にしよう、そう言った。でもエルはその日鹿が食べたかった。どうしてもその日に。腹を立てたエルは父親の腹を切り裂いて、内臓を取り出した。特に肝臓なんかは鹿のそれとそっくりでね。エルは母親に調理させたんだ。
エルの母親は当然、それが鹿の肝臓ではないと気付いた。自分の旦那の肝臓だってことは、寝室に転がされた死体ですぐに分かったんだ。旦那の肝臓を調理して息子に食わせるのはどんな気分だっただろうな。
とにかくとうとう、母親は我慢ができなくなった。満足してぐっすり眠る我が子の横で、夫の父親――エルの祖父に頼んだ。息子を、この悪魔をなんとかしてってね。
エルの祖父はエルが寝ている間に縛り上げ、エルが目覚めると鞭で何度も何度も叩いた。そしてエルが気絶するたびに、その傷口にレモンと唐辛子をたっぷり塗り込んで、痛みと絶望を教え込んだ。
息も絶え絶えになったエルに、祖父は父親の骨が入った袋を持たせ、家から追い出した。そしてその後を獰猛な犬に追わせたんだ。犬は父親の骨にこびりついた腐肉の臭いを追ってエルをどこまでも追いかけた。やがて犬はエルに追いつき、骨よりも腐肉よりも美味しい、新鮮な肉に飛びついた。死ぬ間際、エルは自分に呪いをかけた。この先ずっと、死んだあとも、数え続ける呪い。それはこっそりと、誰かの家で、気付かれず数え終わるまで消えない呪いだ。何を数えるのかって?それはもうわかるだろう。
私がいま何を数えていたか。そして私が全て数え終えたら何が起こるのか。とにかく君も、君の家族も助かったんだ。君が家族の幸せを守ったんだ。しかしその幸せがいつまで続くか、君には分からない。もう少しだったんだ。もう少しだった。だから、また来るよ。今度はどこで数えようか。君の寝室かもしれない。子供の部屋かもしれない。浴室、屋根の上、床下、壁の中かもしれない。数え終えたら一緒に遊ぼうね。勿論君の家族も一緒だ。君が大人になるのが楽しみだ。
男は薄汚れた袋を引きずって、ふっと闇に消えていった。
そうだ、あの音だ。どうして忘れていたのだろう。
あの男はまた来ると言ったのだ。
「202、203、204、205」
もう声も聞こえる。あといくつ残っているのだろう。人間にはいくつ骨があるのだろう。
「206だよ」
あのときと同じように、面白そうにエルは言った。
206 芦花公園 @kinokoinusuki
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