オースレイ・グレイス


「――は将来、何になりたい?」


 漂白された穢れなき小さな部屋で、金髪の少女が幼い男の子を抱きしめている。

 男の子は読んでいた本から視線を上げ、一度、姉の顔を見てからしばし考えた。


「……わかんない」


 色々と考えを巡らせるが、なりたいものなどない。

 今は姉といる事の方が大事な少年にとっては、答えを出すのが難しい質問だった。

 質問に答えられず、不甲斐なさそうな顔を浮かべる弟を見て、少女は笑みを零した。


「そっか」


 少女特有の華奢な細腕が、少年の頭を撫でた。

 気持ちがいいのか、猫のように目を細める少年を微笑ましく思いながら、優しい声で語り掛ける。


「いつか、――が大人になって、なりたいものを見つけられたらいいね」


 そんな日が本当に来るのだろうか、湧き上がった疑問を口に出すのも野暮だと子供ながらに感じた少年は、黙って頭を撫でられ続けた。


 *


 深い深い暗闇から、意識が引っ張られる。

 閉じた瞼に突き刺さる朝日を眩しく思いながら、目を開け起き上がった。


「あ、おはようございます」


 思考がぼーっとする中、視線を動かしてみれば、緋乃が目覚めたのは寝室ではなくリビングのソファだった。

 声におはようと返し、キッチンを見てみれば、セリアがエプロンを着て朝食の準備をしている。

 そこでようやく昨日の事を思い出した。


 緋乃と浅からぬ因縁を持つ相手オースレイ。彼と遭遇した後、幸いにも『今は気分じゃない』と言う理由から緋乃達は戦闘を強いられることはなかった。

 もし仮にオースレイと戦っていたのなら、今頃、緋乃達は生きていないだろう。

 あの胡散臭い男は、やわな見た目から想像できないほどに強い。

 そして緋乃もセリアを庇いながらでは、満足に戦えないのもあり、大人しく去っていってくれたのは本当に幸運だった。


「ご飯できましたよ?」


 テーブルに皿を並べるセリア。

 彼女が緋乃の家にいるのには訳があった。

 オースレイが姿を消した後、負傷したセリアを治療すると、張り巡らせた神経が途切れてしまったのか、そのまま気絶してしまったのだ。

 彼女の自宅が分からない緋乃は、放置する訳にもいかないので、仕方なく家に連れて帰ったのだ。

 洗面所で顔を洗い、セリアと向かい合うようにして食卓につく。

 机にはベーコンエッグにトースト、少しのサラダにヨーグルトとお吸い物と、健康的で何とも色鮮やかな食事が並んでいた。


「昨日はありがとうございました。気絶した私を匿って、ベッドまで貸してくれて」


 数年ぶりのまともな朝食を味わっていると、セリアから頭を下げられお礼を言われる。

 口に含んだ食べ物を胃に流し、緋乃はセリアを見据えた。


「礼を言うのはまだ早い。オースレイがこの件に関わっている以上は、何度でもお前を狙ってくる」

「ご心配頂き、ありがとうごさいます。でも、これ以上緋乃さんにご迷惑をおかけする訳にはいきません」


 凛とした顔で、キッパリと物を言うセリアに、何を言っているんだとじっと睨み返した。

 まだ狙われているというのに、これ以上は関わらなくて大丈夫ですと言われても、素直に頷ける訳が無い。

 緋乃はセリアのモチモチっとした頬を、両の手で摘んだ。


「い、いひゃいいひゃいでふー」


 グリグリと引っ張ったりしていると、涙目になってきたのですっと離す。

 セリアは少し赤くなった両頬を抑えた。


「ひ、酷いです……」

「巫山戯たことをぬかすセリアが悪い」

「で、でもこれ以上は本当に危ないですし!」

「だからなんだ。昨日、俺の強さは見ただろ?」


 そう言われて、セリアは何も言えなくなってしまう。

 確かに緋乃は強かった、それも複数人の魔術師を相手取れるほどに。

 しかし、いくら強いと言えど自分と同じ年齢の青年に自分を守らせ戦わせるなど、セリアにはとても耐えられそうになかった。


「それに、俺も俺でオースレイに用がある。なにより、友人に死なれたら姉さんに顔向け出来ない」

「……! ヒノさんは優しいですね。本当にありがとうございます」


 もし緋乃の姉が生きていたのならば、きっと死んでも守れと言っていたことだろう。

 自他共に認める姉至上主義シスコンの緋乃は、姉に嫌われる様な事だけはしたくないし、するつもりもない。

 セリアを見捨て殺されでもしたら、今は亡き姉は自分を見損なうに決まっている。

 そうなったら、緋乃は光の速さで自殺をする自信がある。


「だからセリア。しばらくはここで暮らせ、その方が守りやすい」

「はい、わかりま……」


 した、と言いかけてセリアは気付く。

 このままでは、男女二人きり屋根の下という状況に。

 いや、ムードもクソも無いとはいえ既に同じ屋根の下で、一夜を過ごしているのだ。

 それを赤の他人が聞いたらどう感じるだろうか。

 緋乃は気付いていない様子だが、セリアの色恋に敏感な女としての脳が、とんでもない想像力を働かせる。

 具体的には、ピンク色な想像を。


「そ、そそ、そういうのはまだ早いと思います!」

「は?」


 *


 午前8時過ぎ、いつもより少し遅い時間に学校に着いた。

 教室には既に半数以上が揃っていた。

 緋乃はセリアと共に自身の席に向かう。


「おはよう緋乃くん」

「ああ、おはよう」

「セリアさんと仲良いんだね……」

「……?」


 横に鞄を置くと、授業の準備をしていた小桜が話しかけてくる。

 挨拶を軽く返すが続く言葉の意味が分からず、首を傾げた。


「一緒に登校してきたでしょ?」


 言われて気付く。

 恐らく緋乃達が一緒に門をくぐるのを、教室の窓から見ていたのだろう。

 しかし何故だろうか、小桜の表情が何処か不機嫌な気がしないでもない。

 彼女の気に障るような事でもしたか?

 緋乃は記憶を巡らせるが思い当たる節がなく、考えるのをやめた。


「家が近くらしくてな、この街に慣れるまでの間、一緒に登校することになったんだ」


 流石に同居している事を話す訳にはいかず、当たり障りのない理由を並べる。

 セリアが転校生ということもあって、不可解な点はないはずだ。


「そうなんだ。……あ、それじゃあ朝の登校、明日から私も一緒でもいいかな?」

「……え」


 ダメ? と可愛らしく首を傾げる小桜を見て、どうするべきか思考を回転させる。

 緋乃達は今、オースレイに狙われている。

 あのふざけた男は、目的の為ならば手段を選ばない最も魔術師らしい人物だ。

 一緒に居たら、緋乃の友人だとバレ人質にさせる可能性が出る。

 しかし、それを言えば学校の誰かが人質に取られることだってありえない話ではない。そもそも、今の緋乃の名前を知っている時点で、周囲の人間関係が筒抜けである可能性も低くはないだろう。むしろ、知られていて当然と考えたほうがいい。

 どうせ危険だという可能性があることに変わらないのなら、朝の登校だけならば別にいいだろう。

 結論が出るのに、一秒を要す。


「いいが、小桜の家は確か噴水公園から遠いだろ?」

「うん、でも私もセリアさんの力になりたいから」

「そうか、なら明日からよろしく。待ち合わせは噴水公園で」

「うん!」


 何故だろうか、今度はそこはかとなく機嫌が良くなった気がした。

 半ば押される形で小桜と妙な約束を取り付けられたが、それ以外はこれと言って変化もなく学校は終了した。

 時は過ぎ、その日の夜に緋乃とセリアは近くのスーパーで買い物をしていた。

 夕食を作るのに食材が足りないと、今朝、家を出た時にセリアから言われていたのだ。


「いっぱい買いましたね」

「そうだな」


 街灯が照らす帰り道、二人は足並みを揃えて帰路につく。

 昨日とは違い、それぞれの人種が行き交い、中には近所の迷惑を考えずに小さな公園で花火をする学生達も見受けられた。

 夜だというのに少し騒がしい。……通報してやろうか。

 少しそんなことを考えて、面倒なのでやめた。


「そう言えば、小桜が明日から一緒に登校することになった」

「そうなんですか?」

「ああ。セリアになんの相談もなかったのは悪かったが、やっぱり女同士の方が会話が弾むかと思ってな」


 セリアを守るために一緒にいるとはいえ、流石に異性が相手では気を使わせてしまう。

 そういったことも含めて、今朝の小桜の言葉を了承した。

 セリアも緋乃の考えを理解して、文句を言う事はせず、むしろ感謝を示す。


「お気遣いありがとうございます」

「どうしたし……!」


 ふと、背後に気味の悪い気配を感じた。


「ジャガイモに玉ねぎ人参、今日はカレーかい? いいね、僕も好きだよカレー」


 振り返れば、胡散臭い笑みを浮かべたオースレイが立っている。

 いつの間に? と考えるよりも先に、体が反応し身構えた。

 人祓いの魔術が使われた形跡はない。

 それは今も道行く人達を見れば分かる。

 まさか大衆の目があるここで、魔術を行使することはないだろう。が、絶対ではない。オースレイという男はやる時はやる。

 目的のためとあらば、例え魔術師のタブーすらも平気で犯せる人種だ。

 一瞬たりとも警戒を緩めることはできない。


「嫌だなぁ。流石にこんな人のいる所でやりあうつもりは無いよ」


 あはは、と笑うオースレイに毒づく。


「ほざけ。必要なら例え禁忌であろうと犯す、それがお前だろ」

「あっははは! やっぱりヒノは僕のことを理解してるなぁ」


 何が面白いのか、腹を抱えて笑う。

 オースレイの発する雰囲気は、まるで長らく疎遠だった親友にあったかのような、柔らかいものだ。

 だからこそ、緋乃にとって気色が悪い。

 二人は決して友人という間柄ではないし、ましてや親友などでは断じてない。

 実験動物と研究者、二人の因果関係を言葉にするならそれが適切だろう。

 オースレイの細い糸目が、数秒だけ隣にいたセリアを捉える。


「にしても、本当に大きくなったね。友達もいっぱいできたみたいだし」

「……お前!」

「安心してよ、お友達には手を出さない……と言っても信じられないか」


 ヘラヘラと笑う顔を、殴り飛ばしたくなるが、必死に我慢をする。


「今のヒノを見たら、アリアもきっと喜ぶよ」


 ゾワッと、背骨が凍てついたようにセリアは錯覚する。

 アリア、という名前が出た途端に緋乃の雰囲気が一変し、瞳は沼のようにドロリと光を通さずに濁った。

 バタッバタッ、と緋乃の殺気に当てられた通行人達が意識を飛ばし次々と倒れる。

 セリアが殺気を受け立っていられるのは、半神半人デミゴッドとしての情人とはかけ離れた精神力のおかげだった。


「ふ、ふふ、あはははは!!」


 死を実感させるほどの、濃密な殺気に当てられてもなお……いや、一層に顔を歪めてオースレイは笑う。

 人の良いセリアが、気持ち悪いと感じる邪悪な笑み。

 狂っているとしか言いようがなかった。


「ふふ、その顔が見たかったんだ。昔と変わらない、殺意に塗れたその瞳が!」

「……屑が」


 憎悪の言葉と共に、緋乃の左眼が妖しく輝き出す。

 瞳から放たれる赤い輝きに、セリアは拒絶感と不気味さを感じ、咄嗟に緋乃の腕を掴んだ。


「……!」


 幸運にも、それが緋乃を我に戻した。

 瞳から輝きが消えると、ふらっと緋乃はバランスを崩し立ち眩む。

 腕を掴んでいたセリアは多少驚くが、緋乃が倒れないように支えた。


「惜しいなぁ、あと少しで魔眼を見れたのに」


 目の前に立つオースレイの顔は、いつもの胡散臭い笑みに戻っており、心底残念そうな声音で言う。

 ――魔眼。緋乃の持つ切り札にして、神殺しを可能にする究極の力。

 緋乃をわざと怒らせたのも、それを見たいがため。


「……すまん、ありがとうセリア」


 正気に戻ったらしい緋乃は、不安がらせてしまったセリアに対して謝罪し、改めて目の前のふざけた男を睨みつける。

 姉の名が出たくらいで我を失うとは、なんと情けない。そう思うが、オースレイは姉を殺した神を地上に呼び寄せる原因となった男だ。

 ある意味では、姉を殺した張本人と言える。だから、感情を抑えきることが出来ない。

 今も何かきっかけがあれば、感情が爆発しかねない状態だ。セリアが居なければ、本当に魔眼を使っていただろう。


「まあいいや。今回はある事を伝えに来ただけだしね」

「ある事?」


 オースレイの言葉に、眉をひそめる。


「深夜0時、君の学校で待ってるよ。まあつまり、正々堂々と決着をつけようって話さ」

「正々堂々だと……?」


 何を考えている。

 正々堂々と言われて、素直にそれを信じられるほど、緋乃はお人好しじゃない。オースレイの言葉となれば尚更だ。

 再三言うが、緋乃の知る中でこの男は最も魔術師らしい魔術師であり、他人をモルモット程度にしか思っていない。

 そのような男の言葉など、信じるに値しない。


「やだなぁ、そんなに疑わないでくれよ。今回ばかりは本当さ。少し事情が変わってね、すぐにでもソレを手に入れないといけないんだ」

「それを信じると思うか?」

「あはは、酷いな。んーでもそうだね、ユーグリアス卿が動き出したっていったらどう?」

「なんだと?」


 緋乃の双眸が僅かに見開かれる。

 確かにあの爺が動き出したのなら、オースレイが言ったことも信じられる。

 だが確証がないことには、まだなんとも言えない。


「あ、あとね、セリア。君のおばあちゃまも、一応無事だよ。一応ね」

「……っ!」


 セリアの顔に動揺が奔った。

 どうやらセリアの祖母はオースレイに囚われているようだ。彼女の性格からして、これ以上の迷惑をかけるわけにはいかないと、わざと黙っていたのだろう。

 これは後でお説教だなと、緋乃は考えつつ目の前の怨敵を睨みつけた。

 オースレイそんな二人の様子を面白そうに笑いながら、魔術を使い姿をくらまし、この場から立ち去る。

 あとに残された緋乃は思考に曇りを残したまま、ため息を吐き出した。

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