魔眼の王


 夜の帳は降ろされ、星々が空を煌びやかに飾り、月が人々を見下ろす。

 織ヶ峰市有数の高級マンションの最上階、そこが緋乃の家だった。

 値でいえば億は下らないであろう部屋は、昔、緋乃の居た施設の機密情報をとある機関に売り儲けた金で買ったものだ。

 ガラス張りの部屋からは、夜の訪れに合わせライトアップされた街が、果てまで一望できた。


『これ美味しいですね!』


 人間工学に基づいて設計された体に優しいソファに腰かけ、テレビを見てみれば。

 ゴールデンタイムに放送されているバラエティ番組がやっており、夏にお勧めのアイスを豊富に紹介している。

 夜食を済ませた後なので、番組を見ていると軽くデザートでも食べたい気持ちになった。

 紹介されていたアイスは、コンビニで期間限定販売されているというので、買いに行くのも悪くない。

 壁に付けられた時計を見れば、21時前と言ったところだ。


「行くか」


 今放送されている番組も、そろそろ終わりだ。

 緋乃はソファから立ち上がって、自室に財布を取りに行き。

 部屋着から動きやすい服に着替えて家を出た。



「ありゃっとごさっしたー」


 店員のやる気のない声を聞き流し、暑さ覆うコンビニの外へ出る。

 ムワッとした不快な風が肌を撫でた。

 今はまだ7月の中頃だと言うのに、気温は30度を超える熱帯夜だった。

 家を出て数十分もしないうちに、ジメジメと服が張り付いて仕方ない。

 着替えておいて正解だ。

 300円もした限定アイスが溶けないうちに、緋乃は早足で家に向かった。


「……?」


 異変を感じたのは、近道に織ヶ峰噴水公園を過ぎた直後だ。

 人が一人も居ない。

 これが深夜なら、人っ子一人通らないのは何ら不思議ではなく疑問を持たないが、だが現在は21時を回ったばかりだ。

 いつもならば疲れ果てたサラリーマンや、塾帰りの学生などで、そこそこ人が見えるはずなのだが……今は誰も居ない。

 可笑しい。まるで人為的に操作されたかのように……。


「──人祓いの魔術か」


 直感的に緋乃の口を突いて出た言葉。

 人々から空想とされ、夢物語だと口を揃えて言われる神秘──魔術。

 だがその実、魔術は実在していた。

 幾つもの大きな組織が手を組み、古き時代から秘匿されてきたが故にこそ、言葉は知っていても魔術は表に生きる者達にとって無縁の代物だが、確かにこの世界に存在している。

 では何故、緋乃が魔術の存在を知っているのか。

 考察するまでもない、緋乃もまたその道に関わる人間だからだ。


 *


「はあ……はあ……」


 月光の光を帯び、陽の光を閉じ込めたような砂金の如き美しい髪が輝く。

 月明かりに照らされて姿を見せたのは、息を切らせ走り続けるセリアだった。

 後ろからは、黒いローブを着込んだ複数の男達が大通りを走り追い掛けてくる。

 髪を揺らし必死に走って通りを抜けると、違法駐車している車の影に隠れた。

 しゃがみこんで、必死に息を殺す。


「クソ! 何処へ行った!?」


 黒いローブの集団の一人が、苛立たしげに声を荒らげ叫ぶ。

 セリアは首に掛けられたネックレスを強く握る。

 このネックレスは祖母から預かったもので、気配隠蔽の魔術が掛けられていた。

 大丈夫だ、大丈夫と心を落ち着かせていると、ズキリと脇腹に痛みが走った。

 見ればセリアの脇腹を中心にして服が赤く染まり、ぽたぽたと真紅の雫がたれている。


「今すぐ探し出せ! 傷を負った状態ではそう遠くまで移動できないはずだ!」

「わ、分かりました!」


 リーダーと思しき人物が、怒気を滲ませ周りに命令を飛ばす。

 複数の足音が遠ざかっていく。

 急いでこの場を離れなければ、脇腹を抑え立ち上がった時。

 カランッ──。

 近くにあった空き缶を蹴り飛ばしてしまった。


「そこか!」

「──ッ!」


 しまったと思うよりも先に、影が覆い被さる。

 後ろを見れば、厭らしい笑みを浮かべる顔に刺青が入った男が立っていた。


「随分と手間をかけさせてくれたな、オイ。ハハ、だがこれでおしまいだ!」

「──うっ」


 無骨な腕でセリアの髪を引っ張り、暗い路地から出すと、近くの公園まで引きずり、乱暴に投げ捨てる。


「いったい何が目的ですか……?」


 痛みを無視して、気丈に男達を見上げ睨みつけた。

 顔からは、一切屈するつもりは無いという、確固たる意思を感じ取ることができる。

 これがセリアなりの、精一杯の抵抗だ。

 何が面白いのか、男はセリアの表情を見て口元を釣り上げた。


「クハハ! それ本気で言ってんのかよ! なんで狙われるかぐらい、自分で分かってんだろ?」


 腹を抱え、おかしな道化を見るかのように嘲り笑う。

 男だけではない、周りに残っていた部下らしき黒いローブの男達も、顔に愉悦の色を貼り付けている。


「まあ、なんでもいいだろ。なんであれ、お前は俺らに必要な道具の一つだ。生きて捕まってくれりゃ、なーんもしねえぜ」


 んじゃあ、と黒い衣服に包まれた腕を伸ばし、脇腹から血を流すセリアを掴もうとする。

 もはやここまでと悟り、セリアは瞳を閉じ視界を塞ぐ。

 ──刹那。

 ドゴォン! ……鼓膜を突き破りそうな、破壊音が聞こえた。

 え? と目を開ければ、目の前にいた筈の刺青の男は、遠くの壁に砂塵を巻き上げ倒れていた。


「何かあるとは思っていたが、まさかお前がいるとはな」


 声が聞こえた。

 凛とした男の声。

 そこに視線を向けると、夜の空を塗ったような綺麗な黒髪を靡かせる、夜刀緋乃がセリアを見下ろし立っていた。


「緋乃さ……っ」

「喋るな、怪我してんだろ」

「いえ、そんな事よりも逃げてください! ここにいたら……!」

「危ないよ、ボクゥゥ!」


 野太い声音。

 先ほど吹き飛ばしたはずの男が、身の丈を超える炎の狼を連れて、緋乃に迫る。

 数にして三。ワゴン車を超える巨躯の炎狼は、鋼鉄すら容易く溶かす牙を剥き出して緋乃へ駆ける。

 だめ……と悲痛な声を上げ、セリアは緋乃に手を伸ばす。

 そして、炎狼がまさに緋乃を噛み砕く瞬間──光の線が炎を裂いた。


「……ああ?」


 間の抜けた男の声。

 緋乃の手には、いつの間にか輝く剣が握られていた。

 全てを呑んでしまいそうな存在感を放ち、淡く白く輝く剣を、緋乃は右手に持っていた。

 緋乃を睨みつける刺青の男は額から血を垂れ流し、愉悦ではなく、憤慨によって顔を歪ませる。


「テメー何しやがった!」

「その外套ローブ、黒十字の魔術師か」


 緋乃は男の言葉を無視して、ローブに記された紋章に目を止めていた。

 黒い十字架に双頭の蛇が絡み付き、二つの頭が互いを睨みつけている。

 それは数ある魔術組織の一つ、黒十字魔術協会の紋章だった。


「無視してんじゃねぇぞ!」


 男が懐から何かを取り出すと、額から垂れた血を取り出した紙に付けた。


Ιχνηλάτης της φλόγες炎の猟犬


 短文の詠唱を唱え、紙を宙に投げる。

 炎が吹き出す。

 紙は灰となって流れ、空には夜を不自然に照らす炎が轟々と燃え猛っている。

 直後、不規則に揺らいでいた業火は収束し、双頭の獣オルトロスを模した炎の猟犬へと姿を変えた。

 炎の猟犬は、先程の炎狼よりも一回り大きく、熱量も比べ物にならないほどに上がっている。

 何より、辺りを埋め尽くす数の猟犬が緋乃を取り囲んでいた。

 これが世界に秘匿されている究極の神秘。

 自然現象を人の手によって起こし、世界を歪める、魔術と呼ばれる力。

 ただの人では、到底太刀打ちのできない圧倒的な暴力だった。

 男は頭に血が上って考えられないのか、このままでは確実にセリアを巻き込んでしまうだろう。


「待てアドニス、このままでは女も俺達も巻き添えに……!」

「うるせぇ! 雑魚は黙ってろ! 俺様を虚仮にしたこの糞ガキは殺さねぇと気がすまねぇんだよ!」


 仲間の制止を一蹴し、憎悪に瞳を見開く。

 怒りに我を忘れているアドニスと呼ばれた男を、緋乃は笑う。

 親愛に向ける笑みでも、楽しさから浮かべる笑みでもない、ただ馬鹿にするだけの侮蔑の嘲笑。


「……殺す!」


 緋乃の嘲りについに耐えきれなくなったアドニスは、猟犬達にやれ! と合図を送った。


「くふ。馬鹿が──」


 心底呆れた笑いを零し、緋乃は──を開いた。

 世界が色を無くし、生命いのちが潰える。

 瞬間的に死という概念が広がり、絶命という結果を押し付けた。


「……は?」


 呆然。アドニスの心境を表すなら、この二文字が適切だろう。

 当然だ、先程まで公園を埋め尽くしていた炎の猟犬達が、仲間達と共に瞬く間もなく死して姿を消滅させたのだから。

 アドニスが生きているのは、ただの偶然。

 自分の攻撃に巻き込まれないよう距離を取り、緋乃の視界から外れたおかげだった。

 混乱する思考の中、アドニスが元凶であろう青年に視線を動かせば、そこには妖しい輝きを放つ右目をアドニスに向ける緋乃が、三日月に口を歪めていた。


「ひっ!」


 情けない声が漏れ出た。

 たった僅かの時間で、アドニスの心は砕かれ、目には恐怖が宿る。


「なんなんだ……。なんなんだよ、テメェはァァ……!」


 その場に崩れ落ち、化け物を見る目付きで緋乃を見上げる。

 アドニスという男は、魔術に置いて天才であった。

 それこそ長年魔術を研究している大人を挫折させるほどに。

 だからこそ本人は挫折を知らず、そして恐怖というものを知らない。

 それは自分には無縁の代物だと思っていた。

 だが今日、彼は挫折と恐怖を理解した。

 目の前の青年は化け物だ、自身の力では敵わない。


「質問だ」


 化け物が、アドニスへ問い掛ける。


「お前らはなぜ、セリアを狙っていた」


 答えなければ殺される。

 考えなくとも分かった。


「め、命令だ!」

「誰のだ?」

「お、オースレイ・グレイス!」

「何……?」


 アドニスの口から出た名前に、緋乃は目を細めた。

 オースレイ・グレイス。黒十字魔術協会の幹部の一人であり、目的の為なら手段を選ばない魔術師らしい男。

 この名は、緋乃にとっても馴染み深いものであった。


「……何故、オースレイはセリアを狙う?」

「は、なんだ知らないのか? その女はな、神の血を受け継ぐ、半神半人デミゴッドだそうだ」

「……なっ。ちっ、それが本当なら確かにあの男が狙う価値もある、か」


 アドニスの言葉に、僅かに目を見開く。

 半神半人デミゴッド。神と人との間に生まれ落ちた奇跡の存在。

 神代かみよの時代を過ぎ、地上から神々が姿を消した今、普通ならば半神半人の存在を信じるものは誰一人いない。

 だがしかし、緋乃は違う。

 十年前、その眼で確かに見ていた。神が降臨する様を。

 自分から全てを奪った、憎き存在の地上への受肉を。

 何より、緋乃自身が神を殺す為に、己が身にを宿しているのだから、その存在を有り得ないと否定する気は無かった。


「最後だ。オースレイの奴は何処にいやがる?」

「……言えねえ。言ったら俺が殺される!」

「そうか」


 緋乃がアドニスに近付き、右手に持っていた剣を太腿に突き刺した。


「ぐっア“ァァァ!?」

「来てるんだろ? アイツは行動を起こす時、決まって自身の目で全てを見届ける。言え! アイツは、この街の何処にいやがる!?」

「き、北の……」


 アドニスが声を荒げ、緋乃の質問に答えようとした時、言葉は最後まで続かなかった。


「……!」


 何かを察知した緋乃は急いで、後ろへ跳び距離を取った。

 直後、アドニスの首が転がり落ちる。

 一拍おいて、勢いよくアドニスの首から血が吹き出た。

 まるで壊れた噴水だ。

 そこらじゅうに鮮血を撒き散らし、塗り絵のように赤色へ塗りつぶして行く。

 不可視の攻撃、口封じの為にアドニスを狙ったもの――では無い。

 確実に緋乃へ向けられた、真空の斬撃。

 気色の悪い攻撃だ。緋乃を狙ったものである筈なのに、緋乃が避ければ確実にアドニスを殺す角度から放たれていた。

 こんな事をするのは、緋乃の知る中で一人しかいない。


「やっぱりか」


 気配を感じ横を見れば、ジャングルジムの上に人影が見えた。

 赤いメッシュが入った灰色の髪をピンで留めた男が、静かな笑みで緋乃に手を振っている。


「やあ、久しぶり。大きくなったね031。……今はヒノって言うんだっけ?」

「オースレイ……!」


緋乃の落ち着いた声音には、当人達にしか分からぬ憎悪が隠れていた。

常人では耐え難い殺気を向けられているにも関わらず、オースレイはヘラヘラと胡散臭い笑みを崩す事は無い。


「まあ、どちらにしろ君に会えて嬉しいよ、魔眼の王様──」

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