第16話 殿下
『セルジオ殿下』。姉がいつも口にする度にため息を漏らす人物である。セルジオ殿下は我儘、暴君、人の話をちっとも聞かない方であるが、顔は良い(姉談)。
どんな人だろう、と振り返ってセルジオ殿下を拝見しようとすると弟が私の前に立った。弟と私は同じくらいの背丈なので弟の後頭部でちょうど殿下が見えない。さらに弟に小さな声で、「じっとしていて」と言われる。
……たしかに、足手まといになるのは必須だ。姉と殿下が醸し出すオーラのぶつかり合いに、小心者の私は冷や汗が止まらない。
「機嫌はいいな。なにせ、俺は今日の模擬戦で快勝したんだからな」
殿下のトーンが高くなる。殿下の表情を見なくても、鼻高々になっている事がわかる。
「それはそれは、殿下は魔法の腕は立ちますものね」
姉は落ち着いた笑みで返す。しかし、薄緑の瞳は爛々と輝いていて、興奮を隠しきれていない。私は初めて見る姉の姿に驚きつつ、一生懸命息を殺した。
「世辞はよせ……どうせ、お前がいなかったからなのだから。しかしまあ、モンテリオール。2日も休んだんだ、お前の魔法はそうとう鈍っていることだろう。次こそは俺がお前に打ち勝ってやろう」
姉は完璧な笑顔でセルジオ殿下に「それでは次の手合わせが楽しみですね」と言ってのけた。それを聞いて少し安心する。この状況で姉と殿下が魔法を使いそうな気がしてハラハラしていた。王宮で魔法を使われたらタダでは済まされない。
殿下は姉が鈍っていると言っていたが、姉は学校を休んでいても筋力トレーニングは欠いていないし、王都滞在中も魔法書もごっそりと持ってきているので鈍るということ決してないと私は知っている。天才と言われる以前に、姉は努力家なのだ。それをセルジオはまだ知らない様子に心が浮き上がる心持ちがした。
「ほお、弟も来ていたのか」
話が変わった。視線が向けられる気配にドキッとする。
「殿下、お久しぶりでございます」
弟も姉同様卒なく挨拶をする。
もちろん、弟の陰に隠れている私も合わせて礼をした。存在がバレてしまうのではないかとドキドキしたが、何も言われないことにひとまず胸をなでおろす。
……というか、弟の陰に隠れる姉って、最上級に情けないと今更ながら気がついた。胸が痛い。頼りない姉でごめんなさい、ルティ。
「相変わらずいつ見ても前髪が長いな。切らないのか」
「……考えておきます」
目を覆う程の前髪は弟の拘りだ。変だけれど、それって個人の問題では?と私は首を傾げた。次の瞬間、殿下の声音が低くなった。
「恥知らずな弟だな、モンテリオール。年長者の助言は受け取らねばならないと、侯爵家では習わないのか?」
火種がポンとこちら側に投げられたのがわかった。それは私と姉に着火する。しかし、弟は冷静だった。
「……申し訳ございません」
弟の言葉に思わず眉をひそめる。
今の殿下の言葉は、弟だけではなくモンテリオール全体の侮辱だ。学園に通っていない、学のない私でもそれだけはわかった。キッとセルジオを睨みたくなるような思いに駆られながらも、どこか冷静な自分がいて、彼は王子なのだと私に言い聞かせる。
「そうだ。記念に俺が切ってやろうか。光栄だろう?」
光栄の使い方が間違っている、と冷静な自分は評価している中、胸に沸々と湧き上がるものに気がついた。
未だ殿下は私には気がついていないらしい。私の青い瞳は他人の印象に強く残るがしかし、青さえ認識しなければ気がつかれないくらい実は存在感が薄いのかもしれない。存在感の薄さといい、弟に庇われることといいつくづく情けないけれど、怒りで正気を失いつつある私は落ち込む暇さえなかった。
殿下は美しい細工がなされた柄のナイフをおもむろに取り出した。いつのまに、と思うや否やセルジオは弟に向かって一歩踏み出した。王子でなければ、側から見れば狂気でしかない。
けれども弟はナイフを見ると苦い表情をするが、じっと突っ立ったままである。
何故逃げないのだろう?
相手が王子だから?
それでも、嫌なことは嫌だと言ってみればいいのに。爵位や序列など関係なく、本心を話せる相手こそ大切にされるべきだから。弟の困惑とも諦めとも取れる表情を見ながら、私は心の中で弟に呼びかけたが、もちろん弟には届かなかった。殿下は弟の長い前髪を左手で鷲掴んで、細い小麦色の髪の根元に刃を当てた。弟のきめ細かく白い頬と長い睫毛が陽の光に透けて場違いにも綺麗だと思う。
私は初めて王子を視界に入れた。
午後の少し和らいできた日差しに反射して輝く銀色の髪はさっぱりと短く整えられていて、幼げな丸い輪郭の顔には、スッと通った鼻筋、緩くカーブを描く唇と、瞳の大きな蜜色の瞳。それらが絶妙に組み合わさって、童顔の美少年ともいえる顔がそこにあった。色彩は王と同じでも、顔には厳格さはなく、幼さゆえの柔らかさがある。
しかし、殿下のお顔が整ってると思う間も無く、私は殿下のナイフの刃を左手で払い弟を後ろにかばった。ーー自分でもわからなかったが、臆病なくせに突発的な行動力はあるらしい。
「リーゼ!」
姉が叫ぶ。
「な、なんだ、お前は」
先程とは打って変わって、殿下は大きな目に驚愕の色を浮かべていた。そしてすぐ間近にある色彩に驚いて、跳ねるように後ずさった。
「青眼……お前、お前が、あの」
「殿下、ナイフを」
「あの噂は、本当だったのだな!平然とした顔をしやがって、嘘つきめ!お前の妹はやはり忌々しい青ではないか!」
「セルジオ殿下」
大声で喚いていたセルジオ殿下はビクリと肩を震わせた。彼に一歩ずつ近付くと、セルジオは後退しようと足を動かすが、なぜかあまり動かないようで尻餅をついていた。私も合わせて跪き、無言でナイフを両手で差し出す。
すると、急にナイフが光の粒となって消えた。
「あれ?」
不思議そうに自分の両手を見ると、左の掌が切れて赤くなっているのが見えた。
あ、そうか……刃の部分を直接掴んだから……。今更のように手が痛くなる。
ザッと音がして辺りが暗くなったので、思わず上を見上げると複雑な顔をした殿下が私を見下ろしていた。
「お前は誰だ」
「リ、リリアーゼ・モンテリオール……」
「三つ子というのは、本当だったのか」
殿下はしみじみと言った。私はズキズキと痛む左手と、汗で滲む視界に思わず顔をしかめた。思考も靄がかかったように働かない。
なんだか、寒いかも。
「リーゼ!しっかり」
逼迫した姉の言葉を最後に、私はまぶたを下ろした。
*****
妹は芝生の上にパタリと倒れた。吸い寄せられるように妹に近づくと、肩を揺らし大声で名前を呼んだ。
「た、倒れたぞ!」
急に倒れた妹を前に、慌てたセルジオが私に叫ぶ。「黙って!」と言うと静かになった。震える指で脈をとって、弱い鼓動を必死に探る。
「だ、大丈夫よ。きっとただの貧血だから。本当に大丈夫ですわ。大丈夫だから……」
「二人とも落ち着いて」
弟が私に向かって左手の治療をするよう指示した。
落ち着きたいのはやまやまだが、腕に抱えた妹の青白い顔に私まで血がひくようだった。とにかく持っていたハンカチを手に巻いて、流れる血を止める。だらりと力なくされるままの左手をぎゅっと握った。指先が夏とは思えないくらい冷たい。
こんなことになるならば、治癒魔法を習えばよかった。
「貧血の時は足を高くした方がいい。あと、木陰に移動しよう。姉様は誰か呼んできて!」
剣の学園でよくあるのだろう。慣れているらしい弟はテキパキと指示を出す。しかし、普段は出さない大声に、弟も私と同じくらい焦っているとわかると、棒になっていた体から力が抜けた。
こうしていられない。私は姉だ。しっかりしなくては。近くで控えていた殿下の侍女に水を持ってくるように頼むと、すぐさま妹へと駆け戻る。
目にしたのは、弟が妹をお姫様抱っこで運ぼうとして、立ち上がれずに固まっている姿だった。ぷるぷると震えている。
笑う余裕はまだない。
「もう!しっかりなさいよ!」
どいて!と言うや否や呪文を唱える。『身体強化』は普段は使わないので一抹の不安があったが、ちゃんと発動した。体が羽根のように軽くなり、妹をしっかりと抱え込む。ぐったりとしている妹の時折眉をひそめる様子に心がチクチクと痛んだ。
もっと早く、セルジオから離れればよかったと後悔する。今日1日で色々ありすぎて、疲れたのかもしれない。
「木陰は?」
「木陰を探すより、王宮に入った方が早いわ……あ、殿下!案内くださいませ!」
「わ、わかった」
空気と化していたセルジオに、強めに命令してしまったという今更な申し訳なさが心を掠めたが、すぐに消えた。3人で駆け足で王宮に向かい、その後を水差しを抱えた侍女が走って追いかける。
「……姉様?」
「寝てなさい、リリアーゼ」
「しかし、もう立てます……って!姉様!ごめんなさい!重くないですか!?」
抱えられていることに時間差で気がついた妹が暴れる。
「まるでタージアンが使わしてくれた精霊のようにかるいよ、リーゼ」
「変なことおっしゃらないでください!」
元気そうな声に安心した。妹は首を回して後ろを向いて「えええ!殿下!」とセルジオに驚く。
「医務室はこっちだ」
殿下はいつになく真剣な表情だ。
「大丈夫ですよ、姉様、もう下ろしてくださいませ」
殿下の手前、耳元で小さく囁く妹をあえて無視する。
「殿下、前で案内くださらないとわかりませんわ」
「ああ」
「大丈夫ですからぁ!」
申し訳なさと恥ずかしさからか、顔を両手で覆い隠す妹が微笑ましい。
「リーゼ、しっかり掴まって!」
なかなか遠い医務室。
セルジオ殿下。可愛い妹の可愛い手に傷をつけた事は許されないけれど、その後医務室を案内してくれた。そこは配慮した上で学園に戻ったら模擬戦で1発お見舞いしよう。とにかく、少しは見直した。
申し訳なさそうな「……すまない、迷った」の一言さえなければ。
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