第12話 外
タシェストを迎えるまでは、屋敷の外へ出ることなど絶対にないと思っていた。
姉と弟は学園に行くが、私はと言うと2人の朝の慌ただしい準備を横目に、紅茶を飲むのが普通だった。そして2人が家を出た後、父がゆっくりと王宮へ向かう。父を見送ったあとは、習い事の師範や家庭教師が来るのを静かに待つ。これが私の朝の習慣。
寂しいかどうかでいえば、寂しいに決まっている。姉と弟が学園に通い始めた頃は、行かないでと泣いたこともあった。泣くたびに、姉と弟は辛そうな表情をしたが、『行かない』という選択肢は父がさせなかった。だから、私は毎朝彼らの背中を見送り続ける。そうして幾月か過ぎれば、自然と使用人だけの静かな屋敷に慣れた。
当然ながら姉弟を引き止めて泣くこともなくなった。
それでも外の世界を夢見ることはある。
姉と弟と一緒に学園へ通えれば良いなとか、パーティに行ければ良いのにとかは考えたことはあるけれど、そんな夢はいつも靄がかかっているようにぼんやりとしていた。
学園の制服も、煌びやかなドレスも、私には一生縁のないものだと、知っていたから。諦めていたから。いや、そもそも、私は夢を見れるほどの知識すら知らないからかもしれない。
急に決まった、王都行き。
正直にいえば、楽しみはこれっぽっちもなくて、ただただ不安しかない。私の青い瞳に映るのは、初めて感じるものばかりなのだから。
毎朝、窓からみている馬でさえ、近くで見るのでは全然違うのだ。
至近距離の馬が、こんなにも大きくて迫力があるものだとは知らなかった。嘶くたびに、足がすくんだ。
馬車は片側に3人、父と向かい合わせの状態で4人で座った。私が真ん中で、両側を姉と弟が座る形だ。父はなんだか少し寂しそうであったが、姉と弟は何も気がついてないようだ。でも、両端に姉と弟がいるというだけでとても落ち着くから、父には悪いけれどできれば2人には気がついて欲しくないな、と思う。
馬車に乗る直前、ふとエントランスに佇んでいるマリアが視界に入った。私は、思わず振り返ってマリアの元へ歩く。
「あら、マリアは?マリアは行かないの?」
「ええ、私はこのお屋敷で旦那様とお嬢様方の帰りをお待ちしていますので」
「どうしても?」
「お役目ですので」
ぎゅっと寂しさが押し寄せてきて、たまらずマリアを抱きしめた。マリアも私の頭を撫でた。今まで一度もマリアとは離れたことはない。そう思うだけで涙がポロポロと溢れてマリアの白いエプロンを濡らした。
「お願い。一緒に行こう」
「だめです」
「ねぇ」
「無理です」
「ほんとうに?」
「お嬢様、もうお時間でございます」
父の執事が控えめに、しかしはっきりと声をかけた。危うく睨みそうになりながらも、渋々マリアから離れる。……淡々と仕事をこなすこの執事が、私は苦手なのだ。
唇が曲がっているのが自分でもわかるくらい、不満である。
「たったの5回です。5回夜を数えれば良いのです。私はずっとお嬢様をお思い致します」
サラサラと髪をすく指を感じながら、私はそっと顔をあげた。マリアの優しい笑顔が、再度ぼやけてきてしまった。
「お嬢様の行く先に、タージアンのお示しがあらんことを」
馬車に乗ってからも、マリアの声が耳に残り続けていた。
「リーゼ、いつまでくっついているのですか?私は構わないし、そのままでもとても良いけれど、それだとせっかくの風景が見られませんわよ?」
移動中はずっと姉にしがみついていた。姉の肩に隠れて、息を潜める。車輪のガタガタという音の中でも、誰かの話し声や歌が聞こえてきて怖かったのだ。小さな子供の甲高い声や、男の人の大きな声が聞こえると、小さめな悲鳴を上げてしまうくらいには。
「ほら、リーゼ見てごらんなさい!あれが広場よ!踊りを踊っている人がいるわ!ほら、ほら、あそこに道化師が!ルティは今でも道化師が怖いのですよ」
「怖くないし」
「あら、いつもここを通る時は無言になるくせに」
「……おい」
ルティが怖がるという道化師が少し気になって、ちょっとだけ顔を上げる。その瞬間道化師とバッチリ目が合ってしまった。顔中を白くして赤やら青やらの模様を描いて、目だけ異様にギラギラしている。しかも、口が裂けるくらい笑顔のペイントに、息を飲んで悲鳴もあげられなかった。
顔中いっぱいに恐怖を浮かべる私に、姉はオロオロして謝った。
「ご、ごめんなさいね。リーゼがそんなに怖がるなんて思わなかったの。悪気はないのよ」
「大丈夫だよ、リリアーゼ姉様」
ただブルブルと震える私の頭を姉が、背中を弟がさすってくれた。申し訳なさと恥ずかしさで胸がいっぱいになりそうだった。
いや、実際お腹からこみ上げてくるものがあった。とっさに口を手で覆う。頭もクラクラして気持ちが悪い。
「父様!リリアーゼ姉様の顔色が悪い!」
弟は私の前髪をそっとよけて、顔を覗き込んだ。きつく閉じていた目を開けば、翡翠の中に苦しげな自分の様子が映り込む。
「おい!どこか休めるところに止まれ!今すぐにだ!あと、世話係を呼べ」
父が大声で御者に呼びかける。私はすぐにでも吐き出しそうなものを堪えるのに必死で何も喋れなかった。次第に意識が遠のいていくようだった。馬車の揺れがお腹と頭に響く。
「もうすぐだからね」
その言葉通り、とある宿に泊まって急遽一部屋を借りる。父に抱えられ、奥まった部屋に連れて行かれると、後は屋敷から連れてきた使用人に介抱される。使用人とはいえ他人の前で、桶を抱えて胃の内容物を吐き出すのは正直言って屈辱だった。
恥ずかしさで顔が火照り、情けなさで涙が出そうになる。今日は泣いてばかりだ。吐瀉物の酸っぱい匂いと、焼けるような喉の違和感を水で押し流す。
「少々休みましょう。さぁ、横になって」
促されるままに、寝台に横になる。すかさず使用人が掛物をかけた。
ドン、バタンと音がしてすぐに私の名前を呼ぶ声がした。
「リーゼ!大丈夫!?今日はここで一晩を過ごすことになったから、ゆっくり休めばいいわ」
寝台の横にしゃがんで、姉が心配そうに私を覗き込んでいた。細いまゆがシュン、と垂れ下がっている。
「姉様、それに父様やルティにも迷惑をかけてしまいごめんなさい。もう気持ち悪さは無くなりましたから、私は大丈夫です」
「いいえ。今夜はここで休むのです。、父様も私たちも、リーゼがずっとお屋敷にいて外に慣れておらず、しかも体力も少ないことを考えなかったの」
「でも、ねえさま」
「ウフフ、宿に泊まるなんて滅多にないことだもの。実は私、ちょっとドキドキしているのよ、なんて言ったら不謹慎かしら?」
「……いいえ」
姉はいつだって優しい。
何度その優しさに救われてきたことか。そして、これからもきっと私は皆の優しさに包まれて生きていくのだろう。
……これは、“甘え”だ。私は一体何を恩返しすればいいのだろう。中途半端な私に、一体何ができるのだろう。
とりあえず、これ以上父や姉弟に迷惑をかけないように、できる事はしないといけない。
「姉様、帰ったら体力の付け方を教えていただけませんか?」
「ええ、いいわよ。学園で習った鍛錬をリーゼにも教えてあげるわ。さあ、だから今日はゆっくりしなさいね。父様が今日はリーゼと一緒に寝なさいとおっしゃったから、私がずっと添い寝してあげる」
「え、いや、大丈夫です」
「遠慮せずに」
「いいですいいです」
容姿端麗、魔法の才能は底知れず、誰にでも優しく面倒見のいい姉だが、幼い頃から寝相がすごく悪い。
何度も断ったのだけれど、結局姉と同じ寝台で寝ることになり、寝不足のまま翌朝を迎えたのだった。
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