第11話 無知と無垢

「リリアーゼ様、もう休みましょう」


 この言葉を聞くのは、今日で何回目だろう?と私はぼんやりとする頭で考えた。

 マリアはここ最近心配な表情を崩さない。それは、単に私に原因がある。


「だ、大丈夫……」


 タシェストが王宮で行われると知ってから、ひっきりなしに訪れる腹痛と目まぐるしく変わる思考の波からなる頭痛が私を襲う。それでも、勉強と習い事1つたりとも休みたくはなかった。

 この日は3回目の腹痛で、午後の勉強は一旦休止となった。これにはヨハンも苦笑いをしている。


「お嬢様、今日は休みましょう。明日になれば少しは良くなると思いますし、お顔が青白くて見ていて心が痛い」

 ヨハンは宥めるように、私の背中をさする。思わず背中がグッと引きつった。

「男性が、年頃の令嬢に、触り、すぎるの、は、いけませウッ!!」

 ゼェゼェと息を吐きながら、ヨハンに軽口を叩くものの、途中で腹痛の波が襲った。

 慌ててお手洗いへ走る。

 ……お手洗いへ駆け込む令嬢なんて、恥知らずにもほどがある。けれど、そんなことも言ってられないほど身体が計画を鳴らすのだ。



「今日は特に勉学などできる様子ではないね。しかし、近頃のお嬢さまは、いつになく頑張り屋さんなことだなぁ」

「ええ、確か2週ほど前からです。ご当主がタシェストの話をなさってから、リリアーゼお嬢さまは儀式が近づくにつれて体調を崩されてしまって」

「へぇ、タシェストか。懐かしい……待てよ?もしかして、アイザック様はリリアーゼお嬢さまを王宮にお連れするつもりなのか?」

「左様にございます」

「へぇ、アイザック様は、この度は随分と思い切ったことをなさるなぁ!常に目の届く籠に閉じ込めて、ひたすら大事に守ってきたものを。外では忌避の目に晒されるというのに」

「しかし、タシェストは人避けがなされる上、神の御前ですから表立って敵視する愚かな人間はいないと、ご当主は思われたのかもしれません」

「ふーん、だとしたら安全、か。そうだと良いんだけど。まぁ、この国の人間はタシェストを避けられないしね。ところで、私はモンテリオール家に来てもう5年になるけれど、マリアちゃんはいつまで敬語なの?同じ屋敷に仕える身としてはマリアちゃんとも仲良くなりたいと思ってるんだけどなー」


「それは……いたしかねます」

「ふぅ、ヨハン先生……大分落ち着いてきましたので続きをお願いします」

 マリアとヨハンが話をしているところに、私はよたよたと歩きながら近づく。

 マリアとヨハンは比較的仲は悪くない。フレンドリーなヨハンの一方的な質問に、マリアが必要最低限で答えているというのをよく見かける。

 しかし、それはマリアがヨハンを嫌っているということを意味しているのではない。良くも悪くもマリアはとても真面目な性格なのだ。

「マリアちゃんから聞いたよ。タシェストが近いってね。あんなに小さかったお嬢さまが立派なレディになるというのは、私にとっても感慨深い」

 私が椅子に座ると、早速ヨハンは本を開いた。ヨハンが屋敷に来てから、もう五年が経つ。私も思わずヨハンとの日々を振り返って思い出に浸る。

「そうですね。最初は、本当にこの方は先生なのだろうかと疑ってました」

「あはは、これは手厳しい」

 ヨハンは苦笑をする。

「先生というものは、厳つくて、すぐ怒るし、態度が大きいし、お年を召している方が多いと姉と弟に聞いていたものですから」

「……へぇ〜。今の学園じゃ、そういう先生が多いのか」

「聞いていた特徴のどれも先生に合わなかったですしね。見た目は好青年っぽくて爽やかですし、優しいですし、怒るどころか注意する気力すら無さそうだし、驚くほど若いし」

「なんか、途中貶されている気がする」

「気のせいですわ。そういえば、ヨハン先生は学園に通っていらしたんですよね?やっぱり先生方は怖かったですか?」

 ヨハンはうーん、と考え込んでから、私に笑いかけた。

「確かに厳しい方もいたけれど、尊敬できる先生が多かったなぁ。私の場合は魔法クラスだったのもあるかもしれないね。ほら、魔法ってまだ未知な部分もあるからさ。先生の厳しさよりも、学ぶのが楽しかったことが印象的だな」

「そうなんですね……」


 ヨハンの話を頷きながら聞いていると、急に「じゃ、授業始めよっか!」とヨハンが言い出した。それをきっかけに、マリアは書斎を出る。


「マリアちゃん!今日の差し入れも期待しているよ」

 3時ごろになると、ヨハンはいつも休憩を挟む。長時間続けるよりも、こまめに休憩を挟むほうが物事がはかどるらしい。

 その休憩のマリアのお茶は絶品で、お菓子は私とヨハンの好みをばっちり押さえている。はっきり言うと、勉強を頑張れるのはティータイムがあるからだと思うくらい、私もそれを楽しみにしているのだ。

「承知しました」

 ……今更だけど、先生の軽い言葉とマリアの素っ気ない態度の差が激しすぎる。

 私はヨハンの顔いっぱいの笑顔を、渋い顔で見ていた。

 ガチャン、と大きな音を鳴らしてドアが閉まる。

「うーん、マリアちゃんとは距離を感じるなぁ。他の使用人とは仲良くやっているんだけど」

 ヨハンは少し寂しそうな顔で呟く。ヨハンがマリアをちゃん付けで呼ぶのに対して、マリアは彼をヨハン師と呼ぶ。そのことからも、彼と彼女との距離が海と山ほど離れているのは確かである。いや、ヨハンはマリアに距離を取られているのだ。

 マリアが距離を置く理由は、単純明快だ。

「彼女は真面目ですから、先生との身分の差を気にしているのでしょう。この屋敷の使用人の大部分があなたと同じ男爵や士爵。平民はわずかしかいません。マリアは、をしなくちゃいけないと思っているのかもしれませんね」


 正確に言えば、マリアは隣国の元貴族である。爵位は忘れたが、マリアが物心つく前に家が没落し、両親はマリアを残して心中したらしい。そして、マリア自身は海とタージアン王国の間にある国、ゼールデシュのとある孤児院に預けられたそうだ。

 没落したために彼女は平民となり、16になるまでゼールデシュで過ごしていたそうだ。

 マリアがどうやってこの屋敷に来たのかは私はわからない。どんなに聞いてもマリアは「奥様が拾ってくださったから」と言うだけ。そのエピソードを聞きたいのに、曖昧に微笑むだけで何も教えてくれないのだ。しかし、言いたくないのなら無理に聞かない方がいいと思うし、聞かなくても不便なことはないので私は放置している。


「身分差、か」

 自嘲気味に吐かれた言葉に、本の背表紙を眺めていた私はふと顔を上げる。

「嫡子でない子供に、どれほどの爵位があるものかな」

 ヨハンは笑っていた。

 笑っているように口は弧を描き、しかし、眼光は鋭い。それはまるで、図鑑に載っていた……

「鷹、みたい」

 思わず呟いてしまった。

 獲物を狙うようなヨハンの目が、私を貫く。思わず小さな悲鳴が漏れる。あの日子猫を殺した父と同じくらい怖い目をしている。

 若干、緑が揺れた。私が瞬きをした瞬間にヨハンは元の笑顔に戻っていた。

「鷹ですか……申し訳ございません、お嬢様の目の前で猛禽類のように振舞ってしまったなんて、紳士の風上にも置けない行為ですね。反省いたします」

 いつも通りの軽口で、ヨハンは私に深くお辞儀をした。

「ですが、リリアーゼお嬢様。覚えておいてくださいませ。男は誰しも狼なのです。先程の私は、お嬢様には鷹に見えたでしょうが、普段は淑女の間では狼で通っております」

 ヨハンはお茶目なウインクをした。

 私はさっきまで鷹のようであった人物を目の前にして、呆気に取られながらも疑問を口にする。

「狼?男性がなぜ狼に?」

「ははは、私も原理は分からないのですが私でさえそうなります。特に、お嬢様のような可愛らしい女性の前で」

「はぁ、でも、そうなると、ルティや父様も狼に?」

「ルティお坊ちゃまはまだなっていませんが、アイザック様はおそらく。さぁ、そろそろ始めましょう」

 誤魔化すように笑うヨハンに、私は気がつかれないようにため息をついた。




 ーー姉も弟もヨハンも、マリアも父も。なんだって、皆私に隠し事をしたがるんだろう。



 それは、怒りと寂しさを混ぜた不快な感情だ。ありのままに吐露してしまったら、きっと皆にも不快感を与えてしまう。


 だから、私はそっと胸に手を添えて耐えるしかない。


 でも、耐えてばかりいてもこの気持ちがなくならないならどうすればいいのだろうか。

 答えの出ない、出ても仕方がないとは思うけれど、とにかく屋敷の中からできることをしたいと、タシェストを目前にして漠然と考えている。

 自分にできること……とりあえず、目の前にある習い事や勉強をしっかりしようと決意した。

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