第8話 小さな苦悩

 今日こそは、あの庭師の青年に謝らなければいけない。と、反芻しながら幾日か過ぎた。朝が来たら一番最初にも、夜眠りにつく瞬間にも思い出しては、遠ざけてきた問題を今日は必ず解決しなければならない。

 朝日を浴びながら、私は頰を両手で叩いて気合を入れた。



 青年と出会ったあの日。マリアが去った後ろ姿を見てふと、庭師の青年から何も言わずに逃げた事を思い出して罪悪感で頭がぐるぐる回った。その日から、どうやって謝るかなどとグタグタ考えつつ、朝の暇な時間のたびに用事(マリアとおしゃべり、ヨハン先生が示したところの復習、ヨハン先生がその日やりそうなところの予習、なんとなく刺繍……など)を取ってつけたかのようにこさえて裏庭を避けてきたのだ。いっそ忘れてしまったふりでもしようと何度も思った。その度に中途半端な良心がこの罪悪感のループを加速させていた。

 そして昨夜、とうとう失態をしてしまった。

 思い出すだけで、自分のやるせなさに気が滅入ってしまいそうになる。


 ーーーーー

 ーーー

 ー



 昨夜の夕食で、父が祈り事を唱えている時にも関わらず、私はずっと考え事をしていた。姉は黙って祈りを捧げていたが、弟は皆が食事を食べ始めている中、ずっと下を向いている私をじっと見ていたらしい。

 ハッと弟の視線に気がついた。前髪でに隠れて目は見えないけれど、まっすぐな視線に私はようやく祈り言が終わっていることに気がついた。


 いつも大きな長いテーブルには、上座に父、左右に姉と私、そして私の隣に弟と決まった座り方がある。

 そして、テーブルの丁度中央のところには決まって花がいけられているのだ。その日は白くて小さいキィナがバラの花を縁取るかのように咲いていた。あの日に咲いていたキィナが、だ。咄嗟に庭師の青年が頭に浮かんだ。

 キィナに目を奪われていた私は、手を組んで祈ることすら忘れていたのだ。

 父の顔を見た瞬間に、してはいけないことをしてしまったと悟る。

「リーゼ、神に祈る時は心を一つにしなくてはいけない。何か考えていたことがあるなら言いなさい」

 父は私を見つめて静かに言う。でも、ここで訳を言うには何故か恥ずかしい気持ちもあった。

 だから、誤魔化すことにしたのだった。

「……申し訳ありません。あそこに、いけられているバラの花が美しくてつい見ていました」

 嘘が上手な方ではないので、私は慎重かつ、なるべく平静を装った。父は私の嘘に気がついたのだろうか、と顔色を確認しようとした時に父の冷ややかな視線が貫いた。

 そんなことで、か。と、吐き捨てた父の目に呆れが映ったのを、恐る恐る見つめる。言葉を待つのが怖くて、思わずスカートの裾を強く握った。

 やがて父は深くため息をついた。

「もう、いい。食事は抜きだ。下がれ」

「お父様、それはあまりにも厳し過ぎると思いますわ」

「信心に厳しいも何もない。そこにあるのはただ誠実さのみ。リーゼは、唯一神を侮辱したのだ。一晩気を清らかにして己を見つめ直しなさい」

「お父様……」

 父は私達が小さな頃から、神を侮辱する事だけは厳しかった。父の言い分も仕方ない。

 嘘がバレたところで、私がタージアン神を蔑ろにしてしまった事は変わらないのだから。

 姉が食い下がったけれど、私は父に従って広間を後にした。


 部屋に戻ると、私は閉まっている窓を開け放った。明かりを消して、真っ暗な世界に身を委ねる。

 さっきのは、完全に私が悪い。そもそも、庭師の青年にすぐ謝っておけば良かったのだ。それを先延ばしにしていた意気地なしが悪い。


 ぎゅうううううう


 びっくりするほど低い音が自分の腹から鳴った。同時に、お腹が捩れるような痛みも感じる。恥ずかしくて左右を見たけれど、誰もいないので、ほっと胸をなでおろす。

「リリアーゼお嬢様。マリアでございます」

 こんこんとノックの音。私が許可を出すと、マリアは静かにワゴンを押して入ってきた。

「ご夕食でございます」

「父様に知られたら、どうなるかわかりませんよ?」

「しかしながら、空腹でいられるようで」

 え、まさか聞いてたの?と背筋に緊張が走ったが、マリアは関係無いように食事の支度を始めた。

「申し訳ございません。料理人は多忙なようで、失礼ながら私が作らせて頂きました」

「マリアの手作り?」

「あまり上手ではありませんが……」

「いいえ、ありがとう」

 マリアの心遣いが身にしみるようで私はそっと胸を押さえた。

 野菜の入ったスープに、パン、そして申し訳程度の果物が並べられる。先程テーブルに並んでいた食事とは比べられないほど質素なものだったが、私は頬を緩ませた。

「なんだか温まる」

「身に余ります」

 一口食べてみれば、普段の食事とは別物だった。やけにしょっぱいスープと、ちょっと硬いパン、身の少ない果実。

 それでも食事が胃の中に収まると、私は温かい気持ちで眠ることができたのだった。


 ー

 ーーー

 ーーーー



 ……そう、悩みのタネは早めに除去しなければならないと感じたのだ。

 しかし、珍しく早起きしたのに、机に突っ伏しながらずっと考えてもあの庭師にどう声をかければいいのかわからない。それどころか、止め処なく欠伸が出る。必死に口が開かないように堪えれば、目に涙が滲んだ。

 開け放たれた窓から弟の素振りの音が聞こえる。いつも早起きな姉は部屋で読書でもしているのだろう。


「……いくら早起きをしたって、何もしなければ時間の無駄ね」


 姉と弟のように打ち込めるものを持っていない私には、この時間帯は手持ち無沙汰なのだ。夢の中にいた方がよっぽど有益なくらいには、やることがない。

 考えるのを一旦やめて部屋を出て階段を静かに降り、そっと広間に入った。朝日を背に、小太りの老年がテーブルの花を触っている。

「ああ、お嬢様。おはようございます」

 庭師のトゥイは広間のテーブルの上の花の交換をしていた。私に気がつくと、ぎこちない笑みで挨拶をする。わたしも挨拶をするとキィナに目をやる。

「そういえば、トゥイさんにはお弟子さんはいますか?」

 マリア以外の使用人にあまり話しかけたことがないため、トゥイは驚きと物珍しさの混ざった表情をしている。青持ちということでそもそも使用人が近寄ってこないことが主な原因だが、私が話すのが苦手で避けている節もある……つまりは、使用人が私を避ける原因は全て自分にある、ということだ。

 少し罰が悪く、つい視線を明後日の方に向けた。

「ええ、そうですが」

「どのような人ですか?」

「どのようなって言われても……まぁ、直向きで真面目、物覚えもいい、若いやつですよ。平民にしては顔が綺麗で手先も器用でね……庭師以上の役職もやっていけそうなのに、どうしてここを選んだのかは知らんが……ライドが何かご無礼でも?」

「い、いいえ!そんなことは……」

 この後は誰も喋らず、トゥイの作業の音だけが広間に響いた。ハサミを動かすトゥイだが、その表情は困惑気味だ。

「お、お嬢様?ほかに何か御用でも?」

 沈黙に耐えきれなくなったトゥイは明らかに気まずい感じで聞いた。

「あの、その良ければ、そのキィナを私に譲ってくれませんか?」

「いや、でもこれは古いので捨てる予定だったんですが。ああ、そうだ、新しいものを摘んできましょう」

 そう言ってトゥイはそそくさと広間から出て行った。

 別に新しいのでなくても良いのに、と私は思いながら椅子に座る。

 桃色のダリアが過敏に溢れんばかりにいけられていた。


「本当に、どうすれば良いのかしら」


 誰に聞かれるでもなく、そっと呟くと私はため息をついた。思わずテーブルに頬杖をつきそうになるのを堪える。それは、淑女としては頂けない。


「ああ、早く謝らないと。次は周りにも迷惑をかけてしまいそう……」


 口から漏れ出た欠伸を噛み殺していると、その人は突然現れた。


「リリアーゼ、お嬢様?」

「うわっ!?」


 弾かれて声のした方を見ると、そこにいたのは庭師の青年であった。

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