急接近、けれども僕は

「そうだ、伊月さん今週どこか空いてますか?」


 口に含んだ水を噴き出しそうになった。

 七月ももうそろそろ終わりに迫った、月曜日の昼下がりのことだった。

 彼女が僕のプライベートを聞くなんて初めてだった。というかこれ、絶対何かのお誘いでしょ。

 けれども睡蓮さんはいつもと同じ穏やかな表情で、僕がいつも通りおまかせで頼んだ飲み物を淹れてくれている。

 うーん、ただの興味本位かな……。親しくなってきた気もするし友達に聞くような感じか。

 とはいえ僕は現在夏休みで、部活以外毎日が空いているのだが(ちなみに友達と遊ぶ予定は八月中旬頃からだ)。頭の中で部活の予定表を広げ、今週は三日ほど入っていることを確認した。


「今週空いてるのは金、土、日ですね」


「そうですか、それなら金曜日一緒にお出かけしませんか?」


「……へ?」


 若干僕の理解可能範囲を超えてしまっていた。

 え、聞いただけじゃなかったの。本当にお誘いだったの。

 僕が固まってしまっていると、飲み物を淹れ終わった睡蓮さんが僕に氷のたくさん入った黒い液体を差し出してくれた。硬直してしまったことを取り繕うようにどうも、とお礼をして一口含むと舌に苦味がほとばしると共に芳醇な香りが僕の鼻腔をくすぐった。


「……あれ、これコーヒーじゃないですか」


「伊月さんの言ってたことを思い出して。ちょうどコーヒーを淹れる器具も揃ってましたし」


「へえ、てっきりここは紅茶の店なのかと思ってました」


「基本は紅茶ですが、飲み物は全て取り揃えておりますから」


 少し得意そうに睡蓮さんは胸を張った。

 その姿に見とれつつ、いつも飲んでいるインスタントより何十倍も美味いコーヒーをちびちび飲んでいると、「そうでした」とハッとなった感じで睡蓮さんが身を乗り出した。


「金曜日、一緒にお出かけしてくれますか?」


 というわけで本題突入である。うわー、これはデートのお誘いってことでいいのかな、睡蓮さんと二人でどこかへ行くなんて夢にまで見たシチュエーションなんだけど。

 まあそんなわけで断る理由なんてどこにも見つからず。


「は、はい喜んで……」


 そう僕はつっかえながらも了承した。


 △


 そこから三日間、部活の日が続いた。どれも午後部活だったから残念ながらぶれいくたいむに足を運ぶ時間は取れなかった。

 だが、頭の中は金曜日のことでいっぱいだった。そのせいでせっかく下描きさせてもらった絵はあまり進まなかった。


 そしてついに金曜日となった。僕は指定された場所に待ち合わせの三十分前にはついていた。

 落ち着かない気持ちでそわそわしながら待っていると、「伊月さーん」という今となってはもう聞きなれた声がした。

 振り返るとやはり睡蓮さんだった。いつもの制服とは違う可愛らしく涼し気な装いで目のやり場に困りつつも、手を振って応対した。


「では行きましょうか、水族館!」


「……はい」


 ルンルンと足取り軽く歩いていく睡蓮さんについていく道すがら、僕は残念な気持ちに包まれていた。

 ……はあ、すんごい魅力的なシチュエーションだけど僕はただの付き添いなんだよなあ。


 それは月曜日の会話のそのあとのことだ。

 承諾した僕を嬉しそうに見つめながら睡蓮さんはこういったのだ。


「これは伊月さんにとってもお得だと思いますよ」


「な、何がです?」


 まさか僕の舞い上がっている内心を読み取ったのかとギクリとしてしまったけど、どうやらそういうことではないらしい。


「部活で絵を描くんでしょう? それなら今度行くところはピッタリです!」


「えーと、ちなみにどこに行くんですか?」


「水族館です。今ネタを考え中でして……。何かの参考になれば、というのと気分転換に行くつもりだったんです。ですけどね、聞いてください……」


 ネタというのは小説の何かだろうか。


「これでも私は生活のために経費は極力抑えたいわけなんですよ」


「はあ……」


「今、水族館では男女で行くと値引きされるカップル割があるんですよ。もうこれしかない、とは思いましたけど男の人で知ってる人が少なくて……。そこで伊月さんの出番というわけです」


 あ、やっぱりそんな感じか。睡蓮さんは結局僕のことを常連さんのお友達程度にしか見てないみたいだ。しかも男友達がいないから消去法的な感じで選ばれてるし。


「私は安くネタを探したり気分転換できて、伊月さんは安く絵のモデルを得ることができる。まさにウィンウィンの関係なんですよ」


 楽しそうにそう話す睡蓮さんに、僕は引きつった笑みで答えるほかないのだった。


 ……と、いうことがあったので睡蓮さんの僕に対する好感度はその程度だと知ることができた。恋愛感情なんてゼロだね。僕だって言葉を交わしただけで芽生えるなんて思ってない。でも最近仲良くなってきて少しは、ほんの少しくらいは関心を持ってくれてるのかなあ、なんて考えるのは男子高校生として普通のことだろう。

 でもまあ、こうして誘ってもらえてるだけでも多少なりは好意を持ってくれてると受け取っていいのかな。


「うわあ……すごいですよ伊月さん」


「はい、そうですね……」


 馬鹿でかい水槽に釘付けになっている睡蓮さんを後ろから見守って、僕は涙が出る思いで持ってきたスケッチブックにさらさらとこの光景を描き留めていた。

 ……くそう、でもやっぱり悲しい!

 店に来て他愛もない会話をして帰るというなんのアピールもしてない僕が言うのも変だとは思うけど。でも何度も店に訪れるとこらへんからでも何か察して欲しい――ハッ。

 ダメだそのせいで僕の立ち位置が『常連さん』に落ち着いてるんじゃないか――!


「? どうかしましたか伊月さん?」


「ああ、いえ、なんでも!」


 一人で悶えている僕を見て不思議そうに睡蓮さんが首をかしげた。ああ、もうそういう仕草だけでも可愛いから――!

 僕がスケッチブックに描くのを再開するのを見ると、睡蓮さんは楽しげにスキップでも出そうな感じでさらに奥へと向かった。だいたい終わっていた僕も素早く描き終えると後に続いた。


 ペンギン、シロクマ、イルカ、サメ……色々なものを見た。そのたびに子供みたいにはしゃぐ睡蓮さんを見ていると心が満たされていく気がした。

 最後に記念ということでツーショットの写真を撮った。実を言うとこれが一番嬉しかった。

 水族館から出て帰るために駅に向かおうとしたところで、「ちょっと待っててください。忘れ物を」と睡蓮さんが水族館へ引き返していった。

 はて、今日は一日睡蓮さんと一緒にいたけど忘れたものなんてあったかな……。

 しばらくして、ニッコリして歩いてくる睡蓮さんの姿があった。手には何やら袋を持っていた。今まで持っていなかったものだ。

 睡蓮さんは袋をあさり、中から小さな紙袋を取り出して僕に渡してきた。促されて開けてみるとそれはイルカのストラップだった。


「あの、これは?」


「今日は一緒に来てくれてありがとうございます。これはほんのお礼です」


「お礼なんて……。なんだかんだで僕も楽しんでましたし……。しかも睡蓮さん、お金節約してたんじゃなかったんですか? いいんですか、それを僕へのお土産代に使っちゃって……」


 遠慮してそういうと、睡蓮さんは腹を立てたように少しプクリと頬を膨らませた。


「伊月さんは特別ですからね! それに、ほら」


 睡蓮さんは袋から僕に渡したのと同じような紙袋を取り出して中から同じようなキーホルダーを出した。そうして僕の持っているキーホルダーに近づけると二つのキーホルダーはカチャリとはまった。


「いいじゃないですか、仲良しみたいで!」


「あ、ありがとうございます……」


 相変わらず仲良しだとか友達認定なことにはがっかりしたけど、今日ここに来て良かった、と心から思うことができた。


「これからも、常連さんでいてくださいね!」


「は、はい……。ほ、ほら、帰りますよ!」


 その屈託のない笑顔に顔を背けつつ、僕は照れ隠しのように先んじて駅へと向かった。後ろからついてくる睡蓮さんのことを感じながら、進展はまったくなかったけども、僕はやっぱりこの人だ、という確信を持っていた。


 ……帰りの電車中、恥ずかしくて睡蓮さんの顔を見ることができなかったのは言うに及ばずである。

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