その恋、実らざるが如し

 時間は飛んで、ぶれいくたいむへ四回目の訪問を終えたあとに進む。

 今日は午前中部活だった。僕は美術部に入っていて、夏のコンクールや学園祭の展示に向けて、鋭意制作中だった。

 だったんだけど。


「うーん……」


「どうしたよそんな難しい顔して」


 同じ部で友人の田園たぞのが真っ白なキャンバスの前で止まっている僕のところに話しかけてくる。


「いやあ、描く絵のイメージが思い浮かばなくてさ」


 コンクールは何を描きなさいという指定はなく、あくまで自由というテーマだ。夏は色々と描ける場面が多いと感じるけどなんかこう、パッとしないのだ。


「でもその割に顔はなんか楽しそうなんだよな」


「えっ」


「まさか自分で気づいてなかったのか? さっきから口が緩みっぱなしだぞ」


「……マジか……」


 原因はわかっていた。というかアレしかない。

 教えてくれて助かった。僕は頬を叩いて気を引き締めた。

 そしてふと気になったので田園のキャンバスを覗いてみた。


「ああ俺はもう決まってるよ。夏といったらうるさい蝉と青々しい木々で決まりだ!」


 そういいながら下描きをさっさと仕上げていた。

 なるほど、やっぱり夏関連か。でも僕はなぜかしっくりこなかった。


「うーん……」


 僕はまた真っ白なキャンバスの前で唸った。そのまま意味もなく時間は過ぎてあっという間に午前が終わってしまった。


 部活はそこで終了となって、僕はその足でぶれいくたいむへと向かった。

 相変わらず外は獄炎に焼かれているかの如く暑かったが、それでもその汗を拭って目的地へと到着した。

 涼しい店内に入ると「いらっしゃいませ」と睡蓮さんが出迎えてくれた。どうやら僕以外にお客さんはいないようだった。

 僕はいつもの席となっているカウンターの一席に腰を下ろすと、昼食も兼ねてナポリタンを頼んだ。

 早速調理に取り掛かった睡蓮さんは手馴れた作業で準備を進めつつ、僕に話しかけた。


「今日は制服ですね。部活ですか?」


「はい、午前中にあって。そのまま昼ごはんを食べにここに来ました」


「ふむふむ、なるほどです。そのくらい気軽に来ていただけるようになって私は嬉しいですよ」


「はあ……まあ常連ですからね」


「常連! いい響きです……」


 うっとりした睡蓮さんをチラと見て、ふと気になったことを尋ねた。


「睡蓮さん、ここを趣味でやっていると言ってましたけど……他に何か仕事とかやってるってことですか?」


「そうです。小説家、になるのかな」


「それすごいじゃないですか!」


 意外な事実に思いのほか驚いた。睡蓮さんは「まだまだ全然だからね」と謙遜してから、


「だからこの喫茶店は気分転換にもなるしネタの元にもなるしでいいことずくめなんですよ」


「趣味でっていうのはそういうことだったんですね……」


 何かを創り出す仕事というのは僕自身憧れていたので羨ましかった。僕の将来の夢は画家かイラストレーターだ。

 出してくれていたお冷を飲んでクールダウンをしていると、まもなくナポリタンが出来上がり睡蓮さんは僕の前に出してくれた。

 それと一緒に、コトリと飲み物が差し出された。僕はお茶の種類とかがよくわからないので、飲み物はいつも睡蓮さんのおまかせにしている。そしてそのたび、睡蓮さんはお茶にまつわる色々な話をしてくれるのだ。


「今日はオーソドックスなダージリンです。コクのある味と香り高さが売りなので、こちらは食後にどうぞ」


「ありがとうございます」


 頭を下げ礼を言いながら、ナポリタンをフォークに巻いて口に入れた。口に入れた瞬間、ソースに使われているトマトの風味が引き立ち、柔らかな麺の感触の中にタマネギやピーマンが違う食感を歯に伝えてくれる。そして噛めば噛むほど味わい深くなる、今までに味わったことのない最高のナポリタンだった。……他にも、作ってくれた人の影響で美味しく感じている節があるかもしれない。


「美味しいです!」


「ふふっ、それは良かったです」


 僕がナポリタンを食べているあいだ、睡蓮さんはダージリンティーについていくらか解説してくれた。


「ダージリンは一年に三回も旬がある紅茶で、春夏秋がその旬なのですが、なんとその旬によって味わいも変わる、面白い紅茶なんですよ」


 僕はこの耳にスッと入ってくるような声の解説を聞くのが楽しみだった。麦茶の時は入れないで今回で四回目だ。今までにはたしかアッサム、ニルギリ、ウバ、だったっけ。


「春は日本茶のような味わいに、夏は今お出ししてるこれですね、まろやかさとコクがあるのが特徴です。そして秋は渋みだとかが軽減されて甘みが出るんです」


「へえ。紅茶ってそこまで奥深いものだったんですね……。コーヒーの豆の違いや焙煎具合で味が変わるのと似てる感じがありますね」


「そうなんです。紅茶も結構味が変わるんですよ」


 一高校生である僕には少し難しい話だが、それでも睡蓮さんが話すと自然と耳に残っている気がした。


「ってあれ? 伊月さんコーヒーはお詳しいんですか?」


「ああ、いいえ、本でチラッと見たことがあるだけなので。うわべだけです」


「そうですかあ」


 また心臓がうるさい鼓動を脈打っていた。睡蓮さんは会った当初から僕のことを伊月という名前でまったく考えない自然な様子で呼んでいた。名前呼びに慣れていない僕は女性から呼ばれていることも相まって、睡蓮さんが僕の名を呼ぶたびに僕はどぎまぎしてしまっていた。

 それを誤魔化すようにフォークと口を絶え間なく動かしていると、いつの間にか麺がなくなっていた。

 まだ落ち着かなかった僕は水滴がついているアイスのダージリンティーが入ったグラスを掴むと、ストローを使わずにぐいと一口飲んだ。睡蓮さんの言っていた通り、まろやかさとコクがあって瞬く間に口の中に紅茶の香りが広がった。


「ありゃ、豪快ですねえ。男の子って感じがします」


 睡蓮さんはムフ、とでもいいそうな顔でカウンターに肘をつき、手の上に顔を載せると近づいて僕の顔を見つめた。

 これってどういうことなんだろう、からかってるのかな、それとも自然に?

 ともかくこの状況からの離脱を図りたい僕は、ふと鞄の中身を思い出した。この時、僕の頭にピカリと豆電球が光った。


「そうだ睡蓮さん」


 そういいつつ身を屈め睡蓮さんの視線から逃れると、鞄のチャックを開けてそれを――スケッチブックを取り出した。


「絵のモデルになってくれませんか?」


「え?」


 △


 数分後。

 僕はテーブル席に腰を下ろしてカウンター席に座ってこちらを向いている睡蓮さんと向き合っていた。

 僕の手にはスケッチブックと鉛筆。


「モデルってなんだか恥ずかしいですね……」


 少し赤くなって恥じらう睡蓮さんに胸がうっ、となったが今だけは集中することにする。それにしても恥ずかしがるところなんて初めて見た。いつもゆとりのある感じだったからな……かわいい……。

 ダメだダメだ。集中しなきゃ。僕は首を振りスケッチブックに大まかな線を引いていく。

 僕が閃いたのはこの喫茶店と睡蓮さんの絵をコンクールに出す作品にしよう、ということだった。僕がアイデアに困っていたのが原因だけど、いざこうして見てみると、とてもしっくりくるのだ。これぞ僕が描きたかったものだ! と自信を持って言えるような。

 アンティークな背景に主役の睡蓮さんを描くというこの構図は最高のもののように思えた。

 お客さんは来る気配がなく、僕と睡蓮さんの二人きりの時が続いた。その間僕は手に持った鉛筆をとめどなく動かし、睡蓮さんは逆に動かないように頑張っていた。

 やがて下描きが終わると、僕はスケッチブックと鉛筆をテーブルに置き、睡蓮さんは疲れたように身をカウンターに投げ出した。


「モデルって大変だったんですね……」


「すいません長い間……。本当にありがとうございました」


 僕は腰を折ってお辞儀し、そのあと最も重要なのことを聞いた。


「あの、この絵をコンクールに応募したいと思ってるんですけど、睡蓮さん大丈夫ですか?」


 そう、このまま勝手に描いてしまうと肖像権的な何かが引っかかりそうな気がしたのだ。

 すると睡蓮さんは疲れからか力ない笑みを浮かべながら「もちろん」と快く承諾してくれた。


「美術部だったんですね、伊月さん」


「はい、小さい頃から何かを描くのが好きで。将来も絵に関係する職に就きたいと思ってます」


「まあ。もう将来のことまで考えてるんですね。すごいです」


「……実現するかはわかりませんけどね」


「大丈夫です。伊月さんなら」


 そんな励ましを喜んで受けながら店から出ると、小さな『ぶれいくたいむ』と書いている看板の下に何か掛かっていることに気づいた。それは表と裏で店が開いているか知らせるものだったが、それを見て目を疑った。

 そこには『準備中』が表となって掛かっていたからだ。

 僕は慌てて店を開け、申し訳なさとともに睡蓮さんに言った。


「まさか、今日休業日だったんですか。すいません、看板よく見てなくて」


「ん? 違いますよ。今日は開いてます」


「え、でもしっかり準備中って」


 まさか裏返すのを忘れていたパターンか。そうなるとわざわざ戻ってきた僕が恥ずかしい。

 だけど返ってきたのは予想しなかった答えだった。


「伊月さんが絵を描くというので貸し切り状態にしたんです。他のお客さんがいたら上手く描けないでしょう?」


 お客さんが来る気配がなかったのは、こういうことだったらしい。この店はいつもガラガラだが、一時間に一人くらいはお客さんが入ってくるのだ。


「でも、なんで僕のために」


 この僕の問いは愚問だったらしい。

 睡蓮さんはキョトンとしたあと、「決まってるじゃないですか」とさも当然のことのように言い放った。


「伊月さんが常連さんだからですよ。常連さんのためには私はどんなことでもします」


 そういってエッヘンと胸を張る睡蓮さんを見て、僕はさらに彼女に惹かれていることを実感した。

 ずるいな、簡単にそんなことをいいのけるなんて。

 僕はその日が終わるまで、ずっと胸が高鳴っていた。

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