夏、貴方の淹れる茶を味わいつつ
貴乃 翔
喫茶店、ぶれいくたいむ
グラスに刺さったストローから息を吸い込み、僕はその冷たい液体を喉に流し込んだ。その液体は炎天下の中カラカラに渇いていた喉を瞬く間に潤してくれる。熱気がゆらゆらしている外を見ると気分が暑くなってきたので視線を逸らした。
僕はどこにでもいるような高校二年生だ。普通に学び、普通に遊ぶ、ごく平凡な男子だ。
でも夏休みに入ってからというもの、僕の日常にもちょっとした変化が起こりつつあった。
それは今僕のいるこの場所にある。ここは家ではなくて喫茶店の中だ。緩やかなジャズソングが心に穏やかなものを提供してくれる。
店内はガラガラ。僕以外には客がほとんどいず、テーブル席で向かい合ったカップル二人と、僕から三つほど離れた場所に腰掛けている老人しかいない。だけどこちらの方が僕にとっては親しみ深かった。
僕に起きた変化というのは午後、この喫茶店に来る習慣ができたことだ。価格もリーズナブルでお財布に優しいし、何より居心地がいい。ここで学校の宿題に取り組むこともしばしばで、こっちの方が家よりも集中ができ、進捗が早いように思えた。
ここに来るのはこれで四回目だ。もうそろそろ常連客……とはまだ行かないだろうけど、店主さんとはもう顔なじみになっている。
だけど僕がここに通い始めたのは紅茶の美味い、いい店を見つけたから、なんていう大人な理由ではない。
もっと、子供っぽい、下心丸出しの理由だ。
「今日も来てくれたんですね」
「あ、はい」
他の客の接客をしていた店主さん(店員は雇っていないらしい)がこちらに来て話しかけてくれた。僕のぎこちない返事にも優しく微笑んで隣に腰をおろす。
ポニーテールにしてある長い黒髪、ほっそりとした線の細い体に着ている制服にかけられたモスグリーンのエプロンがよく似合っている。
そう、子供っぽい理由だ。
僕はこの好きになった人と一緒にいたいがためにこの喫茶店に通うようになったのだから。
僕がここに初めて来たのは一週間前、夏休みに入ってまもなくのことだった。
その日はそれとなく夏休みも始まったことだし近くをぶらぶらしようという魂胆で自転車を走らせていた。
今年は六月頃からすでに暑く、連日三十度を超えるという猛暑日続きだった。
そんなわけだから自転車を走らせていても少しも涼しくないどころか燦々と照る太陽に灼かれて汗はドバドバと出るわ、頭はクラクラし始めるわで最悪の日和だった。
ともかく少しはマシであろう日陰に行こうと自転車を路地裏へ走らせた時だ。
こぢんまりとした看板がそこに掛かってるのが目に付いた。あまりにも小さい看板に字だったので自転車を止め、降りて近づいてみると『喫茶店 ぶれいくたいむ』と書かれているのがわかった。周りに自販機がなかったから飲み物を調達するのにちょうど良かったと僕は財布の中身がまだ健在であるのを見ると、そこへ入っていった。
ドアを開いた時カランコロンとドアに付いた鈴が思ったより大きな音で鳴ったことに多少身を竦めながらもクーラーの効いた店内へと入った。
「……あれ?」
涼しい天国を満喫しながらあたりを見回すと、誰も中にいないことに気づいた。ほろ明るい豆電球風の照明やオシャレな天井に付いたファンが回っているにも関わらず、だ。テーブル席やカウンター席には一人も座っておらず店員さんすら見当たらない。
まずい、準備中だったか。僕は入ってしまったことに少しの罪悪感と恥ずかしさを抱いて踵を返そうとした。
「あれ、お客さん?」
だがその途中、こんな耳を撫でるような優しい声を後ろからかけられたのだ。振り返ると僕より年上だろうお姉さんがこちらを見ていた。どうやら店の奥にいたらしい。開いた時ドアの鈴の音で気づいたのだろう。そしてそのまま僕に近づいてくる。
僕は悪いことをしていたのが見つかった子供のように弁解を始めた。
「すいませんまさか準備中だとは思わなくて、あの、その……勝手に入ってごめんなさい!」
「……ふふ。そんなに慌てなくて大丈夫ですよ」
僕の慌てる姿にふわりと微笑んで、いつの間にか目の前まで迫っていた制服にモスグリーンのエプロンを付けたお姉さんは奥に通すように身を半分後ろに引いた。
「それにただいま営業中ですしね」
「あ、そうなんですか」
「そうなんです。お好きな席へ座ってください」
「は、はい……」
また勘違いしていた気恥ずかしさに赤くなりながら、僕はカウンターの真ん中くらいに腰を下ろした。
そのあと、店のお姉さんは僕に話しかけた。
「あんまりこういうところに来ないような年齢な気がしますが、今日はどうしてここに?」
「えっと……ふと目に付いたとかそんな感じです。喉も渇いてましたし」
「なるほどです。あ、申し遅れました私ここの店主をしております
そういって睡蓮さんはカウンターごしにお辞儀をした。僕も慌ててお辞儀を返して自分の自己紹介をする。
「僕は
「はい。店員はいません。このお店は祖父のもので、私が継いでるんです。といってもご覧の通り、のんびりとですけど」
苦笑いした睡蓮さんに僕は釘付けになっていた。よくほどけるその顔が、あまりにも綺麗だったからだ。
この時、僕は生まれて初めて一目惚れというやつをした。様々な念が僕の頭をほとばしった。この笑顔をずっと見ていたいと思った。一緒にいたいと思った。
そうして自分でも何を考えているのかわからなくなっていると、睡蓮さんがグラスを僕の前にコトと置いた。グラスにはストローと、氷のいっぱい入った透き通った琥珀色の液体が注がれていた。
喉の渇いていた僕は迷わずその液体を飲んだ。麦茶だった。その後を引く爽やかな味わいは喉に潤いを与え、火照った体を冷ましてくれた。
「……美味しいです」
「それはよかった。それは今日来てくれたことへのサービスです」
睡蓮さんは笑ったまま、指を重ねて言った。
「え、でもお金……」
「いいんです。本当にこの喫茶店は趣味のようなものなので。まずはお客さんに誠意を見せないと」
優しそうな笑顔と反してこの人は結構押し通す人らしい。ここは僕がさらに言うと堂々巡りに陥るパターンだ。
だから僕は代わりにこういうことにした。
「じゃあ、またここに来ますから、その時はお金払わせてくださいね」
これが知らず知らずのうちにもう一度ここへ来る口実になっているとは気づかないまま素で言った。
睡蓮さんは飛び上がりそうになっていた。
「本当ですか!? ああ、ついにここにも常連さんが誕生するのですね……」
「え、あ、あれ?」
もう一回来るって言っただけなのになんで常連客にされてんの!?
……まあそうなればこの人にも会えるようになるのか。そう思い直して僕は訂正するのをやめた。
そのあとも睡蓮さんの振ってくれる話で大いに盛り上がった。そうこうしているうちに夕方頃になっていることに気づいた僕はおいとますることにした。どうやら睡蓮さんはお話好きらしい。それともお客さんが来なかったから持て余していたのか……やめよう、これはさすがに不謹慎だ。
僕は店を出る時に振り返ってこういった。結局麦茶代はサービスされてしまった。
「それじゃあ、数日中にまた来ます」
「はい。またのご来店をお待ちしております!」
その屈託のない笑みで送ってくれる睡蓮さんに僕は運動もしていないのに心臓の鼓動がドキドキといっているような気がした。
……これが、彼女との最初の出会いだった。
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