第5話 復讐の終わり
朝の光は、刑場には似つかわしくない。
初めて、イシュバンタールは冷静にそう思った。
兵に両脇を固められたクリスティーヌが、城に来たときと同じ表情で石段を上ってくる。その細い手は、後ろで枷にはめられていた。
イシュバンタールの手には一振りの剣。
何人もの絵描きの命を奪ってきた剣が。
いつもならどう殺してやろうかと目まぐるしく考えているところだというのに、どういうわけかクリスティーヌを前にして、彼の頭の中はまったくの空っぽだ。
握った剣が、目の前の女を貫くところさえ想像できない。
冷たい石畳の上に押し付けられるようにして彼女は膝をついた。
二人の兵に、手ぶりで下がるように示す。彼らはさっさとイシュバンタールに背を向けて石段を下りていく。
王自らが罪人を処刑することは、もはや「よくあること」に分類される事項だった。
周りに人気はない。が、いくつもの視線をたしかに感じる。
物陰から処刑の様子を窺っている貴族たちの、好奇心に満ちた視線を一身に浴びながら、イシュバンタールは重い口を開いた。
「なにか、言い残したことは」
言葉にして、初めて彼はごくありふれたこの台詞を、口にしたのはこれが初めてだと気がついた。
これまで、死にゆく者たちに最期の言葉さえ許したことはなかった。
クリスティーヌはゆっくり顔を上げる。乱れ落ちた栗色の髪が陽光にきらめく。
「あなたが、後悔を知ることを、望みます」
クリスティーヌの小さな、しかし凛とした声がイシュバンタールの鼓膜を揺らす。
一瞬、彼は自分がなにを言われたのか理解できなかった。
呼吸を止めたイシュバンタールに構わず、彼女はつづけた。
「憎しみよりも、悲しみを感じることを望みます」
彼女は微笑んでいた。
まさか、たった今から処刑される者とは思えない。
朝日の陽光が、彼女の頬を輝かせている。
「あなたが……イシュバンタール、あなたが……この世界にありふれている愛を、特別でもなんでもない愛を知ることを望みます」
一度落とされた視線がふたたび持ち上がったときには、クリスティーヌの栗色の瞳には涙がたまっていた。しかし、相変わらず口元には淡い微笑が広がっている。
なんて残酷。
なんて残酷で自分勝手な女なのだろう。
イシュバンタールを傷つけるだけ傷つけておいて、忘れていた感情を呼び覚ませるだけ呼び覚ましておいて、一人ですべてを完結させ、あとのすべてをこちらに放り出して、あっさり舞台から消えるだなんて。
イシュバンタールが放り出されたものを受け止めきれるかどうかも知らないくせに。
見届けることなく、一人で勝手にいなくなるだなんて。
これこそ、復讐だ。
クリスティーヌ・フォンティーナの、きわめてたちの悪い復讐だった。
まったく、呆れるほど強情な女だ。
「後悔は――……」
からからに乾いた喉が、言葉を途切れさせる。
「……後悔は、もう知った。悲しみも、もう知った。…………愛なら、もう、知った」
愛している。
狂おしいほどに、この傲慢な女を自分は愛している。
手に入れたいと、今まさに願っている。
しかしそれが許されないということを、もっとよくわかっている。
この女は、イシュバンタールの気持ちに彼より早く気づいていたのだ。そして、一番効果的な復讐を遂げたのだ。
己が情に流されてしまう前に。イシュバンタールを、すっかり許してしまう前に。
クリスティーヌは笑っていた。
彼女の柔らかな肌を知っている。その肌を、これから剣で貫かねばならない。
どうすれば痛みを長引かせながら殺すことができるか、彼は知っていた。
しかし、どうすれば痛みもなく一瞬で楽に殺してやることができるか、彼は知らなかった。
剣を持つ彼の手が小さく震えていることに、クリスティーヌは気づいて言った。
「わたしも……わたしも、赦すことを知りました」
浮かぶのは、慈愛の笑み。
「だから、どうかお願いです。あなたではない誰かに、わたしを殺させてください」
「……それでは、おまえの復讐は、完成しないだろう」
イシュバンタール自らの手で、自分を殺させることこそが、彼女が考えた復讐だ。
それなのに――……
「あなたが、名実ともに、明君となることを、願っております。……どうか、わたしを、赦してください」
「とうに、赦している」
言うなり、イシュバンタールは剣をふり上げた。
一瞬で、痛みもなく、確実に殺してやれるのはどこか。
クリスティーヌは瞬間少し困ったように微笑むと、そっと目を閉じた。
眦からこぼれ落ちた一滴の涙が、光に反射し宙に舞う。
どさりとくぐもった音とともに彼女の体は石畳に崩れ落ちる。
切り離された頭をイシュバンタールは両手で抱え込んだ。
投げ出した剣が、甲高い金属音を響かせる。
イシュバンタールは両腕を血に濡らしながら、しばらくのあいだただ黙ってそれを抱えていた。
彼は自身に涙を許さなかった。
◆
「それで?」
「はい、ご命令通りに」
イシュバンタールはふり返った。
クリスティーヌを探し出してこの城へ連れてきた男、アーバネントは、イシュバンタールと目が合うと途端に肩を小さく縮こませた。
クリスティーヌ・フォンティーナの遺体は、城の中庭に人知れず埋葬された。
毎日絵を描いていたあの場所に、そっと密やかに埋められた。
イシュバンタールは冷たく座り心地の悪い玉座から立ち上がると、アーバネントの立つ位置まで石段を下りる。一歩進むごとに男がびくびく肩を揺らしているのが分かった。
その様子に小さく鼻を鳴らし、とうとう同じ位置まで下りてくると彼は言った。
「俺の絵は――」
「あ、はい! すぐに、すぐに次の絵描きを探してまいりますので、今しばらくお時間を」
「あれで最後だ」
「…………え?」
間抜けな声が返ってくる。
「俺の絵は、クリスティーヌ・フォンティーナが描いたあの絵で最後だと言っているんだ。もう絵描きを探す必要はない」
「え、あ、はい。…………え?」
「アーバネント、おまえは先王の覚えめでたき優秀な臣下ではなかったのか。何度も聞き返すな。益のない行為はもう止めると言っているんだ。今まで……今まで俺が殺した絵描き、その家族や、関係者には、それ相応の償いをする」
「イシュバンタール王……」
唖然とした男の瞳がしだいに喜びを表すようになって、イシュバンタールは舌打ちとともにその男を広間から追い出した。
なにも、喜んでもらうようなことなどないからだ。
すでに取り返しがつかないことが山ほどある。
それに、いまだに一つの命にしか心は動いていなかった。それ以外に対する罪の意識がどうやっても湧いてはこないのだ。
どこを探しても、そんなものは存在しない。
あの女が望んだ自分の姿。
その、なんと遠いこと。
罪の意識など、とうの昔に置いてきてしまったことの一つだ。
取り戻し方など、分からない。
それでも、
「それでも、おまえは俺にそれを望むのだろう?」
独り言に、返される言葉はもはやない。
永遠に、答えは返されない。
最も面倒な呪いをかけて、あの女は死んでしまった。
いや、殺してしまった。
他ならぬ、自分のこの手で。
後悔と悲しみと、愛。
彼女が自分に望んだもの。
「王」でいつづけるために、切り捨てたもの。
「王」でいつづける自分に、あれば苦しみしかもたらさないもの。
彼女は、すべて分かったうえで、それでもそれをイシュバンタールに望んだ。
「……本当に、おまえは残酷な女だ。クリスティーヌ」
イシュバンタールはそう呟いて、かすかに笑う。
彼が明君と呼ばれるようになるのは、まだずっと先のことだった。
王様と絵描き 神尾あるみ @kamikamikamio
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