第4話 残酷な女
その日の昼も前日までと同じように、イシュバンタールは中庭でクリスティーヌと向かい合っていた。
だが一つ違うのは、クリスティーヌが一度もイシュバンタールと目を合わせようとしないことだった。
彼女は憎悪むき出しの出会った当初でさえイシュバンタールをまっすぐ睨んでいたというのに、今日は最初から伏し目がちに瞳を隠している。おかげでイシュバンタールは横目で好きなだけ彼女を眺めることができた。
クリスティーヌは病的なまでに青白く、弱って見えた。
城に来たときから肌は雪のように白かったが、今はともすると肌の下の血管が浮き出るのではないかとさえ思えた。
昨日の晩まではまだ生気と呼べるものが漂っていたはずだった。情事の最中、彼女の頬を彩っていた色はいまや見る影もない。
彼女が何事もない風を装っているせいで、イシュバンタールも昨夜の出来事がすべて夢だったように思えてくる。
およそ感情と呼べるものが一切抜け落ちて、静かに筆を走らせているクリスティーヌはまるで美しいだけの人形のようだ。
イシュバンタールはそんな彼女から目を逸らす。
「なんなんだ、おまえは。そうやって人を惑わせて楽しんでいるのか?」
「いいえ」
だんだん腹が立ってきて思わず呟くと、クリスティーヌは顔も上げずに答えた。
それがさらにイシュバンタールを苛立たせる。
昨日とまったく違う顔を見せるクリスティーヌが、彼には理解できなかった。なにを考えているのか、なにが目的なのか、どうしたいのか、さっぱり分からない。
どうすればいいのか、どうして欲しいのか……。
ふと、そこまで考えて我に返る。
相手がどうして欲しいのかなど関係ないはずだ。自分がどうしたいか、相手になにをさせたいのか、考えるべきことはそれだけのはずだ。
相手の気持ちを慮(おもんぱか)るなど自分の柄ではない。
自分はただ、反抗的な態度を取っている目の前の女をどう屈服させるかということだけ考えていればいいのだ。
下手に出ればつけ上がるのが人間というもの。
たった一人の女にふり回され、揺さぶられるようなことになれば、臣下たちがどんな表情で自分を嘲笑するのかイシュバンタールには手に取るように分かる。
それだけは、我慢ならない。
彼は自身の思考の一部を切り捨てた。
主に、クリスティーヌに関することを。
とにかく、手元に置いておくことができればいいのだ。それから後のことは、考えるだけ無駄だ。
なぜならイシュバンタールにはクリスティーヌの心の内など何一つ見えやしないのだから。
彼は自分が真実を見ようともしていないことには気づいていた。
だが同時に見えるわけがないと思っていたし、見てもどうすることもできないと分かっていた。
現状を変えるだけの力が自分に備わっていないことをイシュバンタールは知っていた。
ただ、流されるままに生きて、いつかそのときがきたら死ぬだけの人生だ。
ならせめて傀儡としての役割をまっとうしてやろうという、ただそれだけの意思で今日まで彼は生きてきた。
初めのころは国を変えようと必死になり、政治について熱心に勉強をしたこともあったが、程なくしてそれらが無意味なのを悟った。
求められているのは「王」という飾り立てた人形であって、イシュバンタール自身ではない。人形が意思を持てば煙たがられてやがては捨てられるだろう。
それも、浅はかな王妃の生み出した傷物の人形とくればなおさらだ。
どんなに中身を磨き上げても、綺麗な外見の人形が現れれば簡単に取り替えられてしまう。
なんて安っぽく価値のない人生であることか。
イシュバンタールにとっては生きることは死ぬまでの猶予期間でしかない。
息を吸って、吐くだけの人形としての人生。自分が求められているのはただ、それだけ。
ならば一つくらい、この手の自由になるものがあってもいい。
人形が一つくらい人形を手に入れても誰も気にはすまい。死ぬまでのあいだ、せいぜい暇つぶしに付き合ってもらおう。
飽きたら、捨てればいいだけの話なのだから。
イシュバンタールは波立つ心を静めようと自分に言い聞かせた。
視線を、クリスティーヌから逸らして林檎の木にすえた。
まだ小さく青い実を数えてしばらく経ったころ、ようやくクリスティーヌの視線を感じ出した。油絵の具の匂いが風に乗って鼻腔に届く。
この匂いも、嫌いではない。
絵が完成したのはその日の晩のことだった。
◆
翌日催された晩餐会にはクリスティーヌの噂を聞きつけた貴族たちが大勢押しかけた。
入れ代わり立ち代わり声をかけてくる男たちに適当な返事を返しながら、クリスティーヌは壁際から背中を離そうとしなかった。
彼女が着ているのは真紅のドレスだ。
どうやら部屋に運ばせておいたものを素直に着る気になったらしい。
完成した彼女の絵の披露会だとは伝えてあったが、イシュバンタールはもしかしたらクリスティーヌはこの会に欠席するかもしれないと考えていた。この前の一件で晩餐会には嫌気がさしているものと思ったのだ。
彼女の絵はまだ広間に運ばれていない。イシュバンタール自身も見るのは今日が初めてだった。
気にはなるが、期待はしていない。
どうせ女が描くものだという意識は、彼以外の貴族たちも共通のものだ。
だからこれだけの人数が集まったのはクリスティーヌ・フォンティーナの美貌の噂と、その彼女がイシュバンタールにどうされるのかという好奇心がゆえだ。
殺されるにしても、生かされるにしても、どちらにしても退屈な社交界に華々しい話題を与えてくれる。
特別に彼女を殺さず、お抱えの絵描きとすることを発表したときの貴族たちの反応を予想してイシュバンタールは小さく笑った。
様々な憶測が飛び交うのは間違いない。下世話で好奇な視線がクリスティーヌに集まるだろうということも予想できる。面倒だが、一興だ。
用意された筋書きからイシュバンタールがはみ出られることは少ない。そのときの反応を見るのは実に楽しい。
まだ「自分」が存在していることを直に確認できるから。
名目上は主催者であるはずだったが、彼の元へ挨拶に来る貴族よりも、クリスティーヌの傍に寄る貴族のほうが格段に多かった。それに気づいた幾人かの貴族たちが、わざとらしくイシュバンタールに挨拶する。
どうでもいいような美辞麗句を聞き流しているうちに、クリスティーヌの絵が広間に運ばれてきた。布をかぶせられ、まだ全貌が見えない。
誰も、彼女の絵自体に興味は持っていなかった。 所詮は女の描く絵だと、最初から馬鹿にしきっている雰囲気がイシュバンタールには感じられた。
この空気には覚えがある。
――所詮は卑しい生まれの王など、最初からたかが知れている。
イシュバンタールが初めて玉座に座ったときも、今とまったく同じ空気がたち込めていたのを彼ははっきり覚えていた。
広間の中央にクリスティーヌの絵は置かれた。
見せるのをもったいぶるように引き伸ばしていた男に、イシュバンタールは「とっとと布を取れ」と無言の圧力をかける。その直後、絵は衆目にさらされた。
まず初めに、まばらな拍手が起こった。
次に、ささやき声がさざなみのように広間を駆け抜けた。
最後に、沈黙が残った。
その絵が、色彩、陰影、構図……すべてが美しく調和しているということに関しては、大多数の人間は同意せざるを得なかった。
鮮やかに輝いている葉や、優しい木漏れ日、穏やかなそよ風、絵画に閉じ込められた一瞬の「時」に、手を伸ばせば届くという錯覚を呼び起こす。
だからこの重苦しい沈黙は、クリスティーヌ・フォンティーナの絵が貴族たちの肥えた目に耐えられなかったからではなかった。
そこに描かれているはずの男が「王」という存在に見えなかったから。
絵の主人公たるべき男はどこか頼りない弱々しい雰囲気を漂わせていて、とても一国の王という存在には見えなかった。
威厳の代わりに苦悩を、栄光の代わりに陰りを、絵画の中の平凡な男はまとっていた。
華々しさは欠片もなく、迷いと苦悩がそこにはあった。
描かれていたのはごく普通の一人の男の姿であった。イシュバンタールという王ではないただの男の姿が描かれていた。
苦悩に満ちた男だった。
だがしかし、その彼に絵画の中には一筋の光が差し込んでいるように見えた。
あるいは光を見てとったのはイシュバンタール本人だけだったかもしれない。もしくは光そのものがそもそも見間違いだったかも知れぬ。
それでも、イシュバンタールにはクリスティーヌが差し伸べてくれた一筋の光明を絵画の中に見出していた。
そして、彼女が「イシュバンタール王」ではなく、真実、イシュバンタール自身の姿を描いたということが彼には分かっていた。
「…………クリスティーヌ・フォンティーナ、おまえを、専属の絵描きとして雇おう」
気づいたときにはイシュバンタールの口からそんな台詞がこぼれ落ちていた。
周囲の貴族たちがにわかに活気づく。
さしもの王も、これだけ美しい絵描きを処刑することはできなかったのだろう、やはり血は争えない。
どこからともなく嘲笑にも似た陰口が聞こえてくる。が、イシュバンタールはなにも気にならなかった。
ざわめく広間の声は耳を素通りしていく。
彼が待っていたのはたった一つの声だった。
クリスティーヌの、少し不機嫌になりながらも「分かりました」と答えるその声。
「…………お断りいたします」
だがたっぷり間をおいて放たれた答えは誰もが予想もしないものだった。
玲瓏とした声は広間に波紋のように広がって、たちまち辺りは静まり返る。イシュバンタールは背後をふり返った。
「光栄なお言葉ですが、お断りいたします。イシュバンタール王」
「おまえに、拒否権は、ない」
答える声が冷たく凍る。
クリスティーヌはその顔を真っ青に染めて立っていた。
唇が紫に変じ、かすかに震えている。
今にも倒れそうな様子に驚いて、思わずイシュバンタールは手を伸ばした。
クリスティーヌはびくりと体を震わせ後退する。彼女は晩餐の用意がされた卓にぶつかり、その手がナイフに触れる。
銀のナイフが掲げられる。
クリスティーヌによって。
蝋燭の炎にきらめいた刃にイシュバンタールは目をつぶる。
体は動かない。
刃先がまっすぐ彼の胸元にふり下ろされる。
体は動かない。
鋭利な先端が服の端をわずかに裂く。
深く沈みこむその前に、クリスティーヌの体が男たちに取り押さえられる。
ナイフが弾かれる。
鮮やかな栗色の髪が視界に広がる。
青白い肌。
栗色の瞳。
悲痛な瞳に、憎しみは見えない。
「なぜだ……」
呆然とした呟きは誰にも届かず喧騒にまみれていく。
衛兵に引き立てられていくクリスティーヌは、一度もこちらを見ようとしなかった。
騒ぎ立てる貴族たちの声が遠ざかっていく。
イシュバンタールの指先が、わずかにクリスティーヌの後ろ姿に向けて伸ばされた。
◆
慣れているはずの、地下牢へとつづく階段。それを、イシュバンタールはのろのろと下りていく。
石壁は、こんなに冷たかっただろうか。
空気は、こんなに暗かっただろうか。
何より、今まで自分は、こんな暗澹たる気持ちでこの階段を下りたことがあっただろうか。
イシュバンタールが、あの場で、たった一つできたことは、その場でクリスティーヌの命を奪わせないことだけであった。
あの美しい女は、明日の朝早く処刑される。
イシュバンタールに、それを阻止する力はない。
「王」という存在に刃を向けた者を、彼は助けることができない。
咄嗟に、身代わりを立てようかと考えた。が、クリスティーヌの姿はあまりに人の目に触れすぎた。一晩で彼女にそっくりな人間など見つけられようはずがない。貴族たちは面白半分で明日の処刑を見に来るだろう。
クリスティーヌがどんな方法で処刑されるか、ご苦労なことに早起きをして、処刑場の周りに集まるだろう。
ごまかすことはできない。
明日の朝、クリスティーヌ・フォンティーナはイシュバンタールの手によって殺される。
ふと、彼は自分がどうにかして彼女を助けようと考えているのに気づいて、少し驚いたあと、ふっと自嘲的な笑みをこぼした。
今さら、いったい、なにを足掻いているのか。
薄暗い地下の通路を数歩進めば、すぐに人の気配がした。
無機質な鉄格子の向こう、暗闇の中、赤い色がかすかに動く。
クリスティーヌが身に着けた真紅のドレスが、この場に似つかわしくない光沢を放っている。
栗色の瞳は静かに澄んでいた。
明日処刑されるというのに、彼女の瞳には怯えの色が見られない。
「……おまえは、いったい、なんなんだ」
イシュバンタールの声は掠れていた。
言葉を発したのがずいぶん久しぶりの気がした。
「いったい、なにがしたかったんだ。……おまえは、なにを考えている」
声にした途端、疲労感がどっと押し寄せてくる。
ひどく疲れていた。
訳が分からないことに対する苛立ちと、意図してそうしようとしているクリスティーヌに対する憎しみがない交ぜになって、イシュバンタール自身どうしていいか分からなかった。
誰かを理解したいなどと今まで願ったことはなかったというのに。
彼は、今、クリスティーヌ・フォンティーナのことを理解したかった。
彼女がいったいなにを考えてどうしてこんなことをしたのか。
今さら知ったところでなに一つ手を打つことなどできないのに、それでも彼は知りたかった。
「あの絵は、どういうつもりだ……」
なぜなら、クリスティーヌは、イシュバンタールを理解しようとしてくれたから。
あの絵、クリスティーヌが描いたあの絵。あの一枚の絵画を見れば、分かる。
彼女は、「王」ではないイシュバンタールを見てくれた。
見ようとしてくれた。
神々しくもない、華美でもない、いっそひどく地味でともすれば陰にまぎれてしまいそうなあの男こそ、「イシュバンタール」なのだ。
クリスティーヌはその彼を見つけてくれた。
それなのに、なぜ次の瞬間、自分を裏切る。
「おまえは――」
「わたしの恋人……婚約者は、イシュバンタール、あなたに殺された」
あ、という声は音にはならなかった。
出したつもりになった声はしかし、喉の奥につかえてかすかな空気を漏らす。
ああ、なるほど。とイシュバンタールは驚くほどすんなりと納得する。
栗色の、凍てついた瞳と射殺すような視線の意味が、ようやく理解できた。
恋人の敵のはずのイシュバンタールの弱い心に、一時とはいえ同情せずにはいられないほど優しい女が、果たしてどれだけの決意と憎しみを抱え込んでいたか。
彼女は自身のことをよく理解していたのだ。
これ以上イシュバンタールとともにいれば、自分が今の憎しみを持ちつづけていられないことに彼女は気づいていた。
だから、そうなる前に彼を殺そうとしたのだ。恋人の敵を取ろうとしたのだ。
そこまで考えて、彼は首を傾げた。
格子の向こうの女はまるで人形のように微動だにしない。
「……ならばなぜ、もっと確実に殺せる時を狙わなかった。おまえは、そう愚かではないはずだ」
愚かではないから、あの場でイシュバンタールに刃を向けることの意味を、この女は分かっていたはずなのに。
クリスティーヌは顔を上げて、イシュバンタールをじっと見つめた。
「わたしは、あなたを、憎んでいるんです」
憎んでいると言いながら、瞳にはそんな感情など欠片も見受けられない。それなのに、彼女は「憎んでいる」とくり返す。
「わたしは、憎んでいる。あなたを」
イシュバンタールは鉄格子に手を這わせる。
つい先刻まで、すぐ触れられるところにあった白い肌に、今はもう手が届かない。
唐突に、自分が途方に暮れているのを覚ってイシュバンタールは慄いた。
とうにどこかへ捨ててきたはずの感情に、今になって戻ってこられてもどうしていいか分からない。
苦い思いをしてようやく脱ぎ捨てて、遠い昔に置いてきた感情なのだ。
抱えていたらこの国で「王」で在りつづけられないから、イシュバンタールは己を苦しめるいくつかの、いや大半の感情を切り捨てた。
ようやく、ようやく心の安寧を手に入れたというのに。
この女はイシュバンタールの苦労をあざ笑うかのように過去の遺物をあっさり引きずり出す。
「もうすべて、お解かりでしょう?」
クリスティーヌはそう言って笑う。
イシュバンタールは鉄格子を殴りつけた。
「わかるものか……!」
勝手にすればいい。死にたがりの女を一人、明日の朝、処刑する。
ただ、それだけだ。
イシュバンタールは牢を後にする。いつもと違うのは、その女を傍に置いてやろうと思うくらいには気に入っていたということだけだ。
ただ、それだけのこと。
「……それだけだ」
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