第3話 裏切り者
「おい女、そのみすぼらしい服を着替えて晩餐会に出ろ。性格は最悪だが、黙って笑っていれば見れぬほどでもないだろう」
イシュバンタールがそう言って、一着のドレスを彼女に押し付けたのは、絵を描き始めてから一週間も経ったころだった。
クリスティーヌは鮮やかな空色のドレスを見て眉を寄せると、両手でイシュバンタールにつき返した。
「わたしの役目は絵を描くことです。晩餐会に出るなど恐れ多くてできません」
「恐れ多いという顔には見えないな」
言いながらイシュバンタールはドレスを押し返す。声に苛立ちが混じり始める。
「絵描きが、顔を売るために貴族の晩餐会に出るのは普通のことだ」
「わたしに、顔を売る必要があるとは思えません」
どうせ未来などないのだから、とクリスティーヌは言外につづける。
イシュバンタールはその視線をしっかり正面から受け止めて、さらにドレスを押しやった。
「今のおまえは俺の持ち物。俺が王の名で命じる。晩餐会へはこれを着て出ろ。おまえに拒否権はない。あとで迎えをよこす」
クリスティーヌの顔も見ずに彼は部屋を出た。
あの女はドレスを着るだろうか。もし着なかったら今度こそ時を待たずして殺してやろうと思った。我がままがすぎるのも困りもので、これ以上甘く見られるのは我慢がならない。
晩餐会の細長いテーブルの一席に、真っ青なドレスを着たクリスティーヌが静かに座っていた。
蝋燭の光だけが頼りの薄暗い室内で、ドレスは目が醒めるような鮮烈さを帯びている。
彼女の白い肌がそれをさらに際立たせていた。
結い上げることを拒んだのか、豊かな栗色の髪は背中に流されたままだったが、その様がよりいっそう同席者の視線を集めていることに彼女が気づいているのかいないのか。
先ほどから料理に落とされた視線はちらりとも上げられず、視線を交わしたい男たちは一瞬の機会も逃すまいとクリスティーヌから目を逸らさない。
主役の座を奪われた女たちは嫉妬の炎を飛び交わしている。
だが、それさえもクリスティーヌには届かない。
凍てついた心はテーブルを飛び交うどんな思惑にも揺らめくことはせずに、黙々と運ばれてきた料理を片付けてさっさとこの場を辞したいという意思がイシュバンタールには見てとれる。
満足げにその様子を眺めていたイシュバンタールは人知れず喉の奥で低く笑った。
政治はできても情がないと評される自分の前で、これだけ我を通しつづけている女はクリスティーヌが初めてだった。どうやればその心をへし折れるのかずっと考えている。
が、いまだに答えが出てこない。
彼女の家族や友人を調べさせたアーバネントも目ぼしい情報は持ってこなかった。
クリスティーヌ・フォンティーナは天涯孤独、数週間前に王都に引っ越してきたばかりで親しい友人もいない。婚約者がいたという噂はあったが姿は見えない。彼女が王宮へ絵描きとして招かれたことを知っている者もいなかった。
孤独な女だ。
ここで命を落としても、彼女の死を悼む者など誰一人としていない。
人知れず死んで、名を残すこともなく塵となる。
だとしたらなぜ、こうまで強くいられるのかがイシュバンタールには不思議でならなかった。
彼女の姿は捨て鉢になって命を捨てに来ているようには見えないのだ。かといって大事にしているようにはとうてい見えないが、それでも毎日着々と仕上がっていく絵には彼女の魂が込められていた。
一筆一筆、命を削るようにして描いている気迫があった。
だから、絵を描いているときの彼女に声をかけることができなくなった。
初日の会話を最後にして、あの中庭でイシュバンタールとクリスティーヌは言葉を交わしていない。
それがどういうわけか苦にはならなかった。
沈黙が当然であるかのように、声を出せばその空間が壊れでもするかのように、二人とも口も利かずに日が傾き、終わりの合図はクリスティーヌが筆を置く小さな音。
蝋燭に照らされるクリスティーヌをぼんやりと眺めていたイシュバンタールは、不意に思考を途切れさせた。
顔を上げない彼女に痺れを切らせた若い男が一人、とうとう直接声をかけたのだ。
テーブルを挟んで座るその男はクリスティーヌの顔を持ち上げさせることに成功すると、ふたたび視線を落とされる前に急いで会話を切り出した。
「あなたのような美しい人が絵描きなどとは……モデルの聞き間違いかと思いましたよ」
初対面のときイシュバンタールが考えたのと同様の台詞がテーブルを飛び越えていく。
イシュバンタールは黙って杯の酒を飲み干した。
「さすが、貴族の方は人を褒めるのがお上手ですこと。わたしが貴族の女でしたら、きっと素直に喜べましたでしょうに」
クリスティーヌは口の端にわずかな笑みをのせて答えたが、薄明かりの中でも、彼女の目が笑っていないのがイシュバンタールには見てとれた。
「おや、わたしはなにかお気に障るようなことでも? 遠まわしな言い方がお気に召さないということであれば、申し訳ない。率直にものを言うのが気恥ずかしいだけなのです。でも、あなたのような美しい人にならどんな台詞でも言えますよ。ええ、その青いドレス、あなたの雪のような白い肌にとてもよく似合っている」
「……わたしは、自分が絵描きであることに誇りを持っております」
男は、クリスティーヌの返事の意味がよく分かっていないようだった。小さく首を傾げると曖昧に笑って、「では王の肖像画が終わったら、ぜひわたしのもお願いしたいですね」と当たり障りのないことを言って会話を次につづけようとしている。
だが本心ではそんな機会がないことも察しているのだろう。曖昧な笑みはクリスティーヌからイシュバンタールにそっと向けられ、王と目が合った瞬間つくり笑いに変わる。
イシュバンタールにはクリスティーヌの真意がおぼろげながら分かっていた。
彼女が問題にしていたのは最初から最後まで、「絵描きなどとは」の一言だけで、自分を飾り立てる美辞麗句にはなんの関心も示してはいなかった。
「そのドレスは、王の見立てですか? さすがですねえ」
別の男が会話を引き継いだ。
「美とはなにか、分かっていらっしゃる」
そう言ったときの、かすかに浮かんだ含み笑いにイシュバンタールは気づいていた。が、なにも言わずに寡黙な絵描きを一瞥する。
クリスティーヌも空気の違いに気づいたのか、眉を持ち上げ初めて辺りの面々を見渡した。
その隙に、また声がかかる。
「ええと、誇り高き絵描きのお名前を伺っても? わたしはアドルフ・ヴォルガンと申します」
「……クリスティーヌ・フォンティーナです」
「名前まで美しいとは! 天は本当に不公平だ。いやはや、王がお羨ましいですよ。日がな一日二人きりで過ごせるうえに、こんなに美しい人にじっと見つめられるなんて」
今度ばかりはクリスティーヌも視線を下げるわけにはいかなかった。会話の隙をついて周りの貴族たちが彼女にそれを許さなかったからだ。
握ったフォークが所在なげに宙に揺れ、彼女は気乗りのしない様子で隣の男の話に耳を傾けている。
なにかの拍子にぎこちなく笑った彼女を見て、イシュバンタールはグラスを片手に立ち上がった。
飲み干したはずの酒がいつの間にか注ぎ足され、ふたたび杯の中で揺れている。
席を立った王に注目が集まるより先に、杯の赤い液体はテーブルを飛び越えクリスティーヌの青いドレスを紫に塗り替えていた。
「少し褒められた程度でいい気になるなよ。おまえはどうせ死ぬのだから」
会話が途切れ凍りついた同席者の中で、クリスティーヌは一人ゆっくり立ち上がって、一礼した。
「ドレスが汚れてしまいましたので本日はこれにて失礼させていただきたく存じます。楽しい晩餐会でした。では」
栗色の髪から赤い液体が滴り落ちている。
くるりと一同に背を向けたとき、その雫が三粒ほどはねていった。
イシュバンタールは平素と変わらぬその後ろ姿になにも言うことができなかった。
クリスティーヌの白い肌を流れる血のように赤い液体が、暗い紫色に染まったドレスが、彼の脳裏に焼きついて離れなかった。
クリスティーヌ・フォンティーナは、美しかった。
◆
晩餐会の翌日も、王と絵描きは変わらない時を中庭で過ごしていた。
今にして思えば、昨夜のイシュバンタールの行為は彼女を喜ばせただけかもしれない。
クリスティーヌは彼のおかげで場を退出する口実を得たのだから。
そう考えればまたふつふつとわけの分からぬ苛立ちがこみ上げてきて、イシュバンタールは視線の先の大木に向かって手に触れた小石を投げつける。
「あまり動かないでください。服のしわが変わってしまう」
「それくらい想像で描けるだろう」
「そこに現物があるのならちゃんと見て描きたいのです」
「想像力が貧困だからか」
「いい加減な絵を描きたくないだけ」
「おまえが精魂込めて描いたところでたかが知れている」
「それは絵が完成してから言ってください。完成した絵を見てなおそう仰るのなら、そのときこそ、わたしはどんな評価も受け止めましょう」
いちいちきっちり言い返してくるからこんなにも苛立つのだ。
イシュバンタールは辺りに手を這わせたがもう小石は見つからなかった。仕方なく、草をむしって宙に投げる。
「俺には美など分からない」
呟いた言葉にクリスティーヌが顔を上げたのが気配で知れた。
「美など理解したくもない」
「ですが、あのドレスは素敵でした。あなた自身が台無しにするまでは」
「おまえが着たからだろう」
思わず漏れた言葉の意味が、イシュバンタール自身分からなかった。
彼女程度の女だったらばあれくらいでちょうどいいということか、それとも彼女が着たからこそ似合うと言いたかったのか。分からないが、この沈黙に耐えられず彼はふたたび口を開く。
「俺の中には卑しい絵描きの血が混じっている」
どうせ城中が知っている秘密だ。昨夜の男も、知っていて時おりほのめかし嘲笑する。
イシュバンタールがそれくらいで臣下を罰さないのを知っているから。
いくら横暴に振舞っていても貴族たちの支持を失ったらどうなるかイシュバンタールが正確に自覚しているから。
懐に手を差し入れれば、いつも身につけている短刀が指先に触れた。そのまま鞘を抜き放って、鋭利な刃をそっと撫でる。
割れた皮膚から血がこぼれ落ちた。
「この身に王族直系の血は流れていない。この血は、売女の王妃と、下賤の絵描きの穢れた血だ」
王妃は夫である王の心が卑しい妾に傾いていたのを悟っていた。だから城に出入りしていた絵描きと不義を働き、生まれた子どもの髪の色が、王家の血筋に現れるはずのない黒色だっというのに、王は負い目から自分の子として育てたのだ。
そのときは、イシュバンタールと名づけられたこの赤子が次代の王になるなど誰も想像していなかった。
王と王妃のあいだには二人の息子がいたし、他にも王家の血をひいた血縁者がいた。
それでも彼が王となれたのは、他に玉座を継ぐものがいなくなったせいだった。
先代の王と王妃とのあいだに生まれた二人の王子と親戚は流行り病で次々に死んでいく。
そしてそのころ腹をふくらませていた妾は、妬んだ王妃の陰謀で腹の中の子どもごと処刑された。
心痛のあまり王は床に臥せったまま返らぬ人となり、残された王妃はイシュバンタールこそが王であると言い聞かせながら息絶えた。
これで仕上げとばかりに、国中の名のある医者を集めて治療させた第七位王位継承者がそのかいもなく死ねば、盤上に残っていた駒は散々蔑まれてきたイシュバンタールただ一人だった。
すべてが歪にゆがみきっていた。
気づいたときには城には散々軽蔑のまなざしを浴びてきたイシュバンタールしか残っていなかった。周りの者たちは手のひらを返したかのように急に媚びへつらいだし、影ではイシュバンタールの出自を嗤った。
彼はなにも信じてはいなかった。
「誰か一人でも王族の血を継ぐ者が生きていたら、俺は今すぐにでも邪魔者として殺されるだろう。だがどうだ? 実際には、ただの絵描きの子どもがこうして王宮で暮らしている。担ぎ上げる者が他にいないから、ただそれだけの理由で、貴族どもは俺に頭を下げて機嫌を取る。……下げて隠したその顔に、軽蔑と嘲笑を浮かべながら」
あまりに滑稽で哀れだから、イシュバンタールはこの茶番に付き合ってやっているのだ。そして暇つぶしに絵描きを招いては、殺す。
クリスティーヌは感情の読めない瞳をまっすぐイシュバンタールに向けていた。
もてあそんでいた短剣を赤い血がつたって、青々とした芝生を汚していく。
「憎んで、いるのですか? 絵描きを」
「憎む? まさか! 感謝しているくらいだ。汚らわしい下賤の絵描きがあの女をたぶらかしてくれなければ、俺はこんなふうにおまえをいたぶることもできなかった」
「…………ですが、傷ついているのは、わたしではなくあなたのように思えます」
「黙れ」
低く怒鳴った瞬間、持っていた短剣が飛んでいた。
短剣はほとんど地面と平行に飛び、そのままクリスティーヌの左腕に刺さると動きを止めた。
くぐもった彼女のうめき声でイシュバンタールははっと我に返った。
「待て、抜くな。抜けば血が出る」
「……右腕、ではなく、左腕にしてくださる……くらいには、情けが、ありましたか」
「こんなときにまで憎まれ口をきくとはな。それはそれで感心に値する」
待っていろ、ときつく目を閉じるクリスティーヌに言い置いて、イシュバンタールはその場を後にした。自分で傷つけておきながら、なかば急ぎ足で医師を呼びに行くとはあまりに滑稽だ。そう思っても足取りは衰えない。
短剣がもう少し左に逸れていたら、どうなっていたことか。
考えてほっとしている自分が少なからずいることに戸惑いを覚えている。もう少し左に逸れていたら、心臓を刺していただろう。
心に過ぎる自問自答。
どうしてそれがいけない?
いつかは殺すつもりのくせに。
◆
ベッドに横たわる彼女はいつもよりさらに白く見えた。そこまで酷い出血ではなかったのだから、血の気が失せたわけではあるまい。
眠っているクリスティーヌにはか細く頼りない、今にも消えてしまいそうな儚さが漂っていた。
起きているときそう感じさせないのは彼女の力強い瞳のせいだろう。
イシュバンタールはそっと、クリスティーヌの左腕を撫でる。
包帯が幾重にも巻かれて傷口を覆い隠していた。一瞬この白い布をはずして自分がつけた真新しい傷跡を見てみたいという誘惑に駆られたが、布越しに触れたときに漏れたクリスティーヌの小さなうめき声がその暗い誘惑を打ち砕いた。
薄く血管の浮き出るまぶたが小刻みに揺れている。覚醒は間近。
イシュバンタールは彼女の額にかかった髪の毛を払う。起きて一番に自分の姿を見たクリスティーヌが、どんな顔をするのか子細漏らさず見たかった。
まつげが揺れる。
薄く開いた目が、うるんで光をにじませている。
やがて目を覚ました彼女はイシュバンタールの姿を見て、つかの間笑ったように見えた。
はっきりと捉えることができないほど儚い笑みだったが、たしかに口元に淡い笑みが浮かんだように見えたのだ。
驚いてなにも言えずにいるイシュバンタールの目の前で、その微笑は風にさらわれるように消えてしまった。
消えてしまうと、本当に彼女が笑ったのかどうか彼自身確信が持てなくなる。
「情けない顔をしておいでですよ、王」
寝台の上に屈めた体を、イシュバンタールは弾かれるようにして起こした。
鼓動が大きく跳ね上がる。
「死人のような寝顔だな。死相が出ている」
焦って吐き出した言葉にクリスティーヌはまた笑う。が、先ほどのこぼれ落ちたような笑みとは対照的な冷たいものだった。
「予言ですか、それは。……わたしの死神はあなたですよ、イシュバンタール」
「……呼び捨てにするとはいい度胸だな」
「今のあなたは、王には見えない」
言い返そうと口を開いたのに、イシュバンタールの口からはなんの音も出てこなかった。
この場で斬って捨ててもおかしくないほどの不敬なことを言われたはずなのに、どういうわけか怒りが沸いてこない。心はほんの少しも揺れ動いてはいない。ごく当たり前にクリスティーヌの言葉を受け止めてしまっている。
このままでは、駄目だと、そう思うのに、なんの言葉も出てこない。
「わたしを傷つけたあなたのほうが、痛そうだ」
思わず呟いてしまったというようにクリスティーヌは自身の言葉で瞠目する。
そっと口元を隠そうとした左腕が痛んだのだろう、次の瞬間顔をしかめた。
「痛いのはおまえだろう、クリスティーヌ・フォンティーナ」
「わたしの名前を覚えておられたとは驚きです」
「いつものように俺を責めればいいものを、寛大な心を見せて同情をひこうとでもいうのか。さすが貴族どもを手玉にとっていただけのことはある。その顔で今まで何人の男たちをもてあそんできた。だが俺は、俺はおまえの術中には――」
「もういいのです」
意味もなくあふれてきた言葉を止めたのは、クリスティーヌの一言だった。
静かに放たれた一言に、イシュバンタールは思わず黙ってしまう。
「もういいのです。わたしが、不用意にあなたの心に触れてしまったのがいけないのです」
そう言って見たこともないような温かい表情を浮かべるから、雪解けの氷の中から顔をのぞかせた新芽のようにかすかな微笑を浮かべるから、
「……………………悪かった」
だから、一時の気の迷いでこんなことを言ってしまったのだ。
誰かに心から謝罪したことなど今まであっただろうか。
しだいに狂っていった母親をなだめるために意味もなく謝っていた記憶ならあるが、それ以外で自分が悪いと思って頭を下げたことなどなかった。
こぼれ出てしまった一言をしまうことなど今さらできない。
見開かれた栗色の瞳に引き寄せられるようにして、イシュバンタールは体を屈めた。
わずかに身じろいだクリスティーヌの逃げ道をふさぐように、両の手を寝台に押し付ける。
「なに、を――」
彼女の抗議の声をイシュバンタールが無理やり奪いとった。
くぐもった悲鳴を口移しで受けとって、右腕を押さえ、暴れる足を押さえ込んで、クリスティーヌの逃げ道を一つずつ潰していく。
「俺が、そんなに嫌いか」
「好きか……、嫌いかでは……」
荒い呼吸が薄闇に響く。
「ほんの少しでも俺を、憐れと思う心があるのなら……少し、黙っていろ」
彼女の逃げ道を、一つずつ潰していく。
「そんな……」
「最初に出会ったときのように、隙のない憎しみに満ちた目で俺を見ればいい。そうすれば止めてやる。そうでないなら……」
ふたたびそっと口づける。抵抗がゆるゆると力を失くしていった。
「そうでないなら、おまえの言うとおり、おまえは……不用意に俺の心に触れるべきではなかった。……暗く、出口のない、卑屈で、憎しみしかない、俺の心に」
クリスティーヌの手から力が失われたことが分かっても、イシュバンタールは拘束を解くことはできなかった。
腕の中に閉じ込めてしまわなければすぐにでもどこかへ消えてしまいそうに思えるほど、彼女は儚く、震え、張りつめている。容易く壊れてしまいそうなほど。
分かっているのに、求めてしまう心が止められない。
彼女が諦めたかのように抵抗を止めてしまったからなおのこと、もう止めることなどできそうになかった。
自分でも知らなかったほどの激情に流されるままイシュバンタールはクリスティーヌを求めつづける。ひどく急いている自覚があるのに、細く頼りないクリスティーヌが苦しそうに受け止めてくれてしまうから、それが愚かな自分の都合のよい錯覚であろうとも、それだから……。
それだから……。
◆
目が覚めて、その手が自分のものではない栗色の髪を触るまで、イシュバンタールは昨夜起こったことを信じることができなかった。
じっと耳を澄ましていると、隣で眠るクリスティーヌのかすかな寝息が聞こえてくる。
外気にさらされた彼女の白い肩をそっと撫でて、イシュバンタールは熱を持ったその肌に口づけた。
クリスティーヌが自分に応えてくれたのだとはもとより思っていなかった。
しかし、消極的にせよ逆らえなかったにせよ、彼女はイシュバンタールを受け入れたのだ。その事実は変わらない。
手放したくないなと、ふと、思った。
白い寝台に広がった柔らかい髪も、なめらかな白い肌も、今は閉ざされているまぶたの向こうの誇り高い瞳も、すべてこの手におさめておきたい。
力強く筆を走らせる、絵の具に汚れた手も、すべて。
ひどく自分を憎んでいたはずの彼女が、その憎悪をだんだんと維持できなくなっているのがイシュバンタールには分かっていた。出会ったときのあの凍てつくような憎しみは、今のクリスティーヌの瞳の中には見つけられない。
あと少しで、堕ちてくる。
そんな気がしていた。
おおかた、数多くの絵描きの命を道理もなく奪ってきた自分のことが許せなかったのだろう。
もしかしたら友人知人の絵描きを自分に殺されたのかもしれない。
謝って済む問題でもなければ謝る気もさらさらなかったが、彼女を手元に置けるのならこれ以上絵描きを殺さないでいてやってもいいとイシュバンタールは思った。
たぶん、脅し半分にそう言えばクリスティーヌは頷かざるを得ないだろう。
時間さえあれば彼女は、たとえそれが後ろ向きな選択だったとしても、自分を受け入れていかざるを得なくなる。
結局非情になりきれない女だからこそ、イシュバンタールを憎むためにあそこまでの敵意を見せ付けねばならなかったのだ。
ああやって敵意で武装しなければ、誰かを憎しみつづけるという不毛な感情を持続できない人間なのだ。
クリスティーヌ・フォンティーナは、儚く脆そうでありながら、強く誇り高い。
不思議な女のうなじに口づけを一つ落として、イシュバンタールは寝台から体を起こした。
彼女が目を覚ました瞬間の表情を間近で眺めてみたかったが政務を投げ出すわけにはいかない。
媚びへつらう臣下たちが望んでいるのは、忠実で思い通りになる、冠をかぶった傀儡なのだ。
彼らの望みはイシュバンタールが決められた時間に玉座に座っていることだけ。そして予定通りの命令を下すことだけを望んでいる。
彼が自由に裁量したのは絵描きに関することだけだった。
それだけが、彼が自らの意思で行ったことだったのである。
◆
クリスティーヌは起きていた。
扉が閉じる音を聞いて目を開けると、遠ざかっていく足音が完全に消えるまで寝台に横になったまま身じろぎ一つしなかった。
しばらくして寝台の上に座りなおした彼女は、イシュバンタールが口づけていったうなじに手を当てる。
こぼれ落ちた吐息がやけに大きく部屋に響いた。
「だめよ、クリスティーヌ」
かすれた声が呟く。
「だめよ……」
戸惑いに揺れていた瞳が、しだいに焦点を定めていく。
「クリスティーヌ、今のあなたは、ただの、裏切り者」
最後の一言が、クリスティーヌの心から温度を奪っていった。
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