第2話 イシュバンタール

 王国は、目に見えて疲弊していたわけではなかった。

 だが王都を中心として、絵描きという生き物が滅しかかっているというのは事実だった。

 それというのも、現王のイシュバンタールが絵描きと聞けば城へ招き、自身の肖像画を描かせ、完成したその日のうちに当の絵描きを殺してしまうからだ。

 その凶行のおかげで自ら絵描きを名乗る者は今はほとんど王都を脱していた。いたとしても、公言する者はいなかった。

 それでも執拗に絵描きを求める王のために、臣下の者たちは八方手を尽くしていた。中にはお抱えの絵描きを王のために進呈した者もいた。

 最初のころは、誰もがこの狂気じみた行為がすぐに終わることを予想していた。しばらくしたら飽きてしまうだろうと。

 だがどうやら王はこの世から絵描きを一掃しようとしているようだった。


「いや、見つかってよかった。本当によかった」


 そういうわけだから、やっとのことで見つけた絵描きに、アーバネント侯爵は無神経に何度も「よかった」とくり返した。

 先を歩く絵描きはそれにはまったく答えずにただ黙って薄暗い回廊を進みつづけていた。

「いや、本当によかった。まさか自分から名乗り出てくれるとは」

 侯爵はふたたびくり返してから、額を流れた汗をぬぐった。

 回廊の突き当たりで絵描きは一度ふり返って方向を尋ね、侯爵は「右です」と思わず敬語で答えた。

 一介の絵描きに対して敬語を使うなどおかしなことだったが、実際救われたという気持ちが強い侯爵はそのおかしさには気づかないようだ。

 そうして七度ほど同じことをくり返して絵描きが来た道を思い出せなくなったころ、とうとう目的の部屋に着いて、侯爵は扉の衛兵に来訪を告げた。

 扉は程なくして外側へ開き、絵描きと侯爵はさらに暗くなった室内に招き入れられていった。

「よくもまあ、こう早く見つかったものだな」

 王は開口一番そう言って笑ったが、絵描きの姿を見るなり、片方の眉を持ち上げ侯爵を睨みつけた。

「俺は絵描きを連れて来いと言ったのだ」

「ですから仰せのとおりに連れてまいりました」

 王はまた少し黙ってから、目線で「出て行け」と侯爵に命じた。

 初老の男はわずかに逡巡し、心配そうに王と絵描きに視線を走らせてから部屋を出て行く。

 王と絵描きだけが残された部屋は、静かだった。

「名は」

 王は玉座に肘をついたまま問うた。問うてから、絵描きに自ら名を問うたのはこれが初めてだということに気づいてまた笑った。

「クリスティーヌ・フォンティーナ」

「ふん。大仰な名だ」

 クリスティーヌは反応しなかった。泣くことも、笑うこともしなかった。なに一つ、表情と呼べるものは浮かべなかった。その代わりじっくり観察するような目で王を見上げていた。

 クリスティーヌ・フォンティーナは名前から察せられるとおり、女だった。絵描きに女もなれるのだということを王は初めて知った。

 いや、もしかしたら絵描きというのは嘘かもしれない。見つけられなかったアーバネントが適当に女を見つくろってきて、あわよくば王に取り入ろうとしているのかもしれない。

 その証拠にクリスティーヌは美しかった。絵描きとは思えない。むしろ絵描きがこぞって描きたがりそうな女だ。

 透き通るほど白い肌はなめらかで、栗色の髪はゆるやかに波打ちながら首筋を流れ落ちていた。

 わずかな光に反射して、その栗色の髪は様々な色を放っている。眉は綺麗な稜線を描いて、瞳はつめたい光をたたえていた。

 完璧に整っているわけではなかった。よく見るといかにも人間らしい造作なのだが、表情と呼べるものが一切ないせいで彫像のような不思議な美しさがあった。

 触れても、もしや本当に石膏のごとく硬いのではないだろうか。

 なめらかな頬に爪を立ててみたらどうだろう。

 そんな考えがちらりとよぎったが、瞬きする間に興味は失せた。

 この女が絵描きでも、そうでなくても、絵を描かせて、描き終われば殺す。

 ただそれだけだ。

 イシュバンタールは女の動かない瞳を見つめて言った。


「本当に絵描きだというのなら、さっそく描いてもらおうか。聞いているだろうが、俺は気に入らなかったら容赦なくおまえを斬って殺す。その代わり、絵が気に入れば、おまえは俺の抱えの絵描きにしてやる。未来永劫、おまえの命が尽きるまで、何不自由ない生活を約束しよう。俺の傍で」


 彼女はこれにも答えなかった。

 イシュバンタールは女の不敬を咎めてやろうと口を開きかけたが、やめた。

 ふてぶてしいクリスティーヌの態度はなかなか面白い。咎めたことによってそれが損なわれるのは惜しい、そんな気まぐれだった。

 咎めることなどいつでもできる。

 反抗的な態度など取る気も失せるほど痛めつけるのはお手の物だ。

 イシュバンタールは玉座から立ち上がると、クリスティーヌに視線をやった。目だけで「ついてこい」と告げれば、クリスティーヌは黙って足音も立てずについてくる。

 イシュバンタールは背中に彼女の気配を感じながら、決して気を抜きはしなかった。

 女の思いつめたような態度は、彼女が懐に絵筆ではなくナイフを隠し持っていてもおかしくないと思わせるには十分だった。


 しばらく歩いたのち、イシュバンタールは重たい扉を押し開けた。

 部屋の中はむせ返るような油っぽい匂いが充満していて、昼下がりの自然光が高窓から灰色の床に降り注いでいた。

 油絵の具の匂いはいくら換気をしても消え去りはしないのだ。

 イシュバンタールは、だが、この匂いが嫌ではなかった。死んでいった多くの絵描きたちの妄執や怨念が身にまといついてくるようで。

 クリスティーヌは部屋の入り口で足を止め、しばらく中を観察していた。

 床に散らばった絵筆や絵の具やデッサンの紙切れの一つ一つに視線をとめ、やがて転がっている絵筆のうちの一つをそっと拾い上げると、つめたい声で、言った。

「ここでは描きたくありません。来るときに中庭を通ってきました。そこで描かせていただきたいと存じます」

 伺いを立てるようでありながら、彼女の言葉には有無を言わさぬものがあった。

 イシュバンタールは申し出を却下することもできたが、そうはせずに、「いいだろう」と一つ頷いた。

 いい加減この部屋にも飽きてきたところだ。一つ趣向を変えてみてもいいだろうという気になるくらいには。

 クリスティーヌは部屋からイーゼルと粗末な椅子だけを持ち出し脇に抱えると、黙って王より先に歩き出した。

 か弱そうに見えた女は思ったより力があるようで、軽々とそれらを担いでいる。それに、よく見れば白く透き通った肌も手の辺りが絵の具で汚れていた。傷もついている。

 この女が泣くとしたら、いったいどんな時だろう。

 これだけ澄ました様子の女の精神を打ち砕くのは困難なようで、その実容易い。

 的確に傷口をえぐれば、案外あっさり崩れてしまう。堅いが、同時に脆い。

 クリスティーヌはさんさんと日の降り注ぐ中庭にイーゼルと椅子を置くと、くるりとふり返った。

「わたしの絵画道具をさきほどの方の召使に預けてあります。持ってきていただくようにおっしゃってください」

「俺に命令するな。殺すぞ」

「命令などしていません。お願いしているのです。イシュバンタール王、あなたに」

 たしかに、台詞だけ聞けばそうに違いない。だが彼女の言葉は命令のような強い響きを含んでいて、とても王にきく口ではない。

 面白いとは思った。が、生意気な女の行為を見て見ぬ振りをしてやる理由はイシュバンタールにはなかった。

 彼の右足が一歩踏み込んだ次の瞬間、鞘から抜かれた剣身がクリスティーヌののど元に触れていた。

「もう一度だけ忠告しよう。俺に命令するな」

「していません」

 驚くべきことに、クリスティーヌはかすかに後ずさった以外には抵抗と呼べる抵抗をしなかった。

 相変わらず澄んだ冷たい目で王を真正面から見据え、言葉少なに答えただけだった。

 答えたときに動いた首筋に、剣身がこすれて血が流れた。

 白い肌を、赤い線が這っていく。

 期待していた怯えが一つも見つからない。今ここで斬って捨てられても構わないと思っている目だ。

 指を一本、斬り落としたらどうだろう。

 少しは怯えてみせるだろうか。命乞いをするだろうか。そうしてみたい気もした。

 イシュバンタールが迷っているあいだに、クリスティーヌの首からあふれた血は首元を伝い、彼女の服を汚していった。

 昼の光の中にそれはあまりにも似つかわしくなかった。緑に散らばる陽光が、クリスティーヌの血に反射する。

 イシュバンタールが自分でも予期しなかったことに、彼は剣を下ろしクリスティーヌの首筋に顔を寄せていた。

 彼女がはっと息を呑む音が聞ききながら、イシュバンタールはあふれた血を舐めとった。

 かすかな悲鳴が、漏れる、その直後に激しい破裂音が上がった。

 ゆっくりと顔を上げた王は、遅れて痛み出した頬をたしかめるように一度、撫でた。

 クリスティーヌの挙げた手は宙に縫いとめられたように静止していた。今しがた、王の頬を殴った手が。

 その手が震えているのはこの失態の罰を恐れてか、もしくは予想だにしないイシュバンタールの行為のせいか。

「殺されたいようだな」

 言いながら、イシュバンタールは自分が笑っているのに気づいていた。

 じわじわと増してくる頬の痛みに、彼は思わず笑っていた。クリスティーヌの持ち上がったままの手を剣の平でゆっくり下げさせると、彼は踵を返した。

「おまえの道具を持ってこさせよう。俺が戻ってくるまでに絵の構図でも考えておけ」

 中庭から回廊の石畳に上がったところで、イシュバンタールは一度ふり返った。

「おまえが望むなら、どんなポーズでもしてやろう。……一糸まとわぬ姿でも」

 クリスティーヌは一瞬虚をつかれたような表情で立ちすくんでいたが、その意味を悟るや否やなにか言おうと口を開けた。

「ふざけたことを!」

 眉をつり上げた女を一人中庭に残し、王は侍従を呼びに回廊を進んだ。

 自然、笑みがこぼれ落ちる。

 彼女がどんな絵を描くのか、それ以上にどんな風にして殺そうか、考えるだけで久しぶりに高揚感を感じていた。


          ◆


 小鳥がさえずっていた。

 種類など分からない。だが、きっと小さいのだろうと想像させる甲高い音だった。

 頭上から降ってくるそれらの音がイシュバンタールを不快にさせていた。

 ただでさえ、遠慮を知らない昼間の光の下に出てくるのは本意ではないというのに、その上平和の象徴のような小鳥の歌声を聴かされては不愉快この上ない。

 さっさと立ち上がって自室に引きこもろうと何度思ったか分からない。それでも彼はどういうわけか腰を下ろした芝生から離れられなかった。

 視線を転じるとすぐ近くにクリスティーヌの真面目な顔がある。

 昨日見せた豊かな栗色の髪は今日は朝から無造作に一つに結われていた。

 先ほどから絵の具を混ぜては「違う」と小さく首を振っている。つられて揺れた髪の先が絵の具に触れ、黄色いかたまりが付着する。

 彼女は睨むように、観察するように、芝生に腰を下ろしたイシュバンタールを見つめている。

 彼女が見ているのはイシュバンタールと自分の手元と大きなキャンバスだけだ。

 それなのに、イシュバンタールは「見られている」とはどうも思えなかった。

 クリスティーヌの視線はたしかにイシュバンタールを捉えていたが、あくまでもただのモデルとして見ているだけであって、相手が王であるということなどすっかり忘れてしまっているようだった。

 見ているようで、見ていない。

 今の彼女にとってイシュバンタールは風景と一緒。木々も芝生も光も王も、今の彼女の中では同列のようだった。

 気に入らない、とイシュバンタールは一人ごちた。

「王、視線はあちらへとお願いしたはずです」

 次の瞬間、平坦な声が上がった。

 クリスティーヌは絵筆を持った手を、彼女の右手にある林檎の木に向けていた。

 刺すような視線を浴びながらイシュバンタールは音を立てず笑う。

「俺はこちらを向きたい気分だ」

「わたしはあなたの顔を正面から描きたくはありません」

「……おまえ、そんなに死にたいのか?」

 心底疑問に思って首を傾げた。

 残虐な彼の噂は都中に広まっている。いまや誰も面と向かって彼に意見するものはいない。

 ただ、それでもこの国が成り立っているのはイシュバンタールが残虐ではあっても非道になるのは限られた相手に対してだけだからだ。

 彼が道理に合わない理屈で命を奪ってきた相手は、絵描きだけ。それ以外はおおむね、問題がないかぎり、黙って従っているかぎり、イシュバンタールという男は立派な王であると言えた。

 不敬を働いた臣下を宴席で切り刻んでみせても、謀反の疑いをかけられた者たちの手足を引きちぎっても、行いは残虐だが行動としては理にかなっていた。

 彼が理を違えているのは絵描きに関してだけ。

 招いた絵描き、もしくは自分から売り込んできた絵描きたちはことごとく彼自身の手によって殺され、まるで彼の鬱屈を晴らす道具のように扱われていた。それを、目の前のクリスティーヌが知らないはずがない。

 知っていて、イシュバンタールの神経を逆なでするようなことを平気で言うとは、命などいつとられても構わないと言っているのと同じだ。

 殺されに来たのかと思えば、どうも本気で王の絵を描こうとしている。かと思えば、また自身の命を危険にさらすような発言をする。

 彼女を連れてきたアーバネントに昨晩訊ねてみれば、クリスティーヌは自分から「ぜひとも王の絵を描かせていただきたい」と名乗り出たらしい。

 都中の絵描きがイシュバンタールの凶行を恐れて逃げ出したというのになんとも奇妙な話だ。当然、なにか思惑あってのことだと察せられたが、当面のところ彼女は本気で絵を描くつもりらしい。

 クリスティーヌがたとえこの至近距離からナイフを持って飛びかかってきても、とうていイシュバンタールを殺せはしまい。夢うつつのところを狙われたとて、殺されるつもりはまったくなかった。

 だから、奇妙な女と二人、人気のない中庭で向かい合って座っている。

 クリスティーヌは一つため息をついて絵筆を置くと、視線を逸らして言った。

「あなたは二言目には『殺す』だの『死にたいのか』だの。そんなことではまともに話もできません」

「初耳だ。おまえが俺と話をしたいなど」

「必要最低限の話もできないと言っているのです。わたしは、ただ絵をちゃんと完成させたいだけ」

「俺はおまえのような偉そうな態度の女にあれこれ指図されたくないだけだ」

「指図ではありません。お願いです。いい絵を描くための」

「お願いだというならそれらしい態度をしたらどうだ。俺は王だ。絵筆一つ、あご一つで動かせると思っているならば大間違いだ」

「絵筆で指し示す前に、わたしはちゃんと立っていって『このあたりを見ていてください』とお願いしました」

「俺の視線がどこを向いていても、おまえのような傲慢な女が描く絵など、たかが知れている」

「話の論点をすげ替えるのはよしてください。どんな絵を描こうともあなたは構わないはずです。いい絵を描いても、しようのない絵を描いても、……あなたは、最後にはわたしを殺す」

「最後でなくとも、今、おまえを殺すことだってできる」

「なら、殺したらどうです?」

 クリスティーヌの瞳が、光を反射してきらりと光った。

 冷たい、凍てついた氷の瞳だ。

「殺したらいいのです。あなたが今まで殺してきた多くの絵描きと同様に、わたしを。殺せばいい。どうせあなたができるのはその程度のこと」

 言い終わるか終わらないかのうちに、クリスティーヌの頬に一本の赤い線が走った。

 イシュバンタールが投げた小さなナイフが、背後の草むらを揺らして落ちていく。

「ただ殺すだけだと思ったら大間違いだ。殺す以上の苦痛を与えてやることだってできる。死ぬより辛い苦しみを、死にたいと思うほどの苦しみをおまえに与えることが、俺にはできる。口の利き方に気をつけろ」

「……噂通り、残虐で傲慢な王様ですこと」

「なんだと」

「いいえ。 とにかく向こうを見て。あなたが動かないのなら、わたしが左に移ります」

「おまえは……今まで来た絵描きの中で、最も無礼で凶悪で殺しがいがありそうだ」

「もったいないお言葉でございます」

 イシュバンタールは諦め混じりにため息をつくと、示されたほうに視線を移した。

 従っているのではなく、少しのあいだ彼女の我がままに付き合ってやるだけだ。

 逆らえば逆らうほど、後で殺すのが楽しみになるというもの。どう殺そうか考えてまた笑みが浮かんでくる。

「笑わないで」

「…………本当に、うるさいやつだな」

 それから日が西に傾いて光が足りなくなるまで、王と絵描きとのあいだには一言の会話もなかった。

 クリスティーヌが立てる木炭や絵筆、それからわずかな鳥や草葉の音だけが、二人のあいだに流れていた。

 一つ、イシュバンタールが気に食わなかったことといえば、その空間のその時間が、思ったよりも嫌いになれなかったことだった。

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