王様と絵描き
神尾あるみ
第1話 残酷な王
「僕には恋人がいる」と、その若い男は言った。
言ったというより叫んだと形容したほうが正しい表現だったろう。「僕には恋人がいる!」
「だからどうした」と王は言った。
こちらはなんら温度を持たぬ声で。すべての感情を排してしまったかのような冷徹さで、王は応えた。
いや、こちらも注意深く聞いていれば、わずかに感情と呼べるものが含まれていたのがわかっただろう。
「よろこび」、それもとびきり暗く、毒を含んだ、決して昼日中の清廉な光の中で感じるような類の「喜び」ではなく、夜の闇の中、狂人が他人の血を見て感じるような類の「悦び」だ。
とにかく、若い男は必死に叫んでいた。この目の前の残酷な王の眠った慈悲を呼び覚ますことを期待して。
「僕には恋人がいる。先月婚約したばっかりの」
彼の両目から堪え切れなかった大粒の涙が、乾いた灰色の石畳に落ちてぽつぽつと色をつけた。「もうすぐ結婚するんだ。愛しているんだ」
彼はあまりにも自分のことで頭がいっぱいだった。自分と、婚約したばかりの恋人との、消えかかっている未来を想うのに必死だった。
だから気がつかなかったのだ。
普段の彼ならば――相手の心の動きを敏感に感じとれるはずの彼ならば――気づいただろう。自分の痛切な訴えが、目の前の男をかえって喜ばすだけだということに。
王は至極楽しんでいた。
先月婚約したばかりで、近いうちに結婚する、誰かを心から愛している男の頭を、胴体から切り離すまでのほんのひとときを楽しんでいた。
「僕はあの人に会わなくちゃ。愛しているんだ。どうかお願いです助けてください! 慈悲を、お慈悲を……イシュバンタール王! お願――」
彼はそれ以上は叫ぶことはしなかった。できなかったのだ。
頭が胴体から切り離されてしまったせいで。
石畳を転がった若い男の目から最後の涙が流れた。それを見て、イシュバンタール王は初めて後悔していた。
ああ、どうしてもっと時間をかけて殺さなかったのだろう、と。
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