本文

「死んだほうがいいと、そう思ったんです」

 ほとんど声にもならない、吐息のようなささやきがこぼれ出した。

 小さな、かぼそい、ひとりごとじみた台詞。しかし少女の言葉はふたりの刑事にしっかりと届き、そして彼らの顔を曇らせた。

 平日の昼下がり。少女――占部うらべヒナは、カーテンを閉じきった部屋で、もう何度目になるかもわからない事情聴取を受けている。彼女はこういった状況に陥って初めて、ドラマで見るような取り調べは日を変え場所を変え、切り口を変えて幾度も繰り返されるものなのだと知った。

 話す内容は一緒なのに、なんの意味があるのだろう。動物園の檻の中で代わる代わる眺められ、晒しものにされている気分だった。

 今日訪れたのは、すっかり見慣れた刑事たち。やや年配で白髪まじりの男性と、ダークスーツを着た若い女性。飛田ひだ霜月しもつき。飛田はほかの刑事にも共通する、どこかピリッとした抜け目のない雰囲気を纏っているけれど、霜月のほうはちがった。肌は黒く焼けており、脱色した髪はほとんど金色に近い。いかにも、学生時代は楽しい青春を謳歌してたんだよーっという風情だ。まだ中学生で、校則によって染髪はもちろん化粧さえ禁じられているヒナからすれば、別世界の人間だった。

 普段そんな相手を前にすると、それだけで緊張するし警戒もしてしまう。不快に思うことだって少なくない。けれど霜月に対しては、不思議とそうはならなかった。おそらく彼女の発する、のんびりだらけた空気のために、嫌悪感や異物感を抱きにくいのではないだろうか。

 彼らがインターホンを鳴らしたとき、共働きの両親は不在だったので、ヒナが家に招き入れた。そうして二階の自室まで案内し、座布団と飲み物を出し、自分はベッドへと潜り込んだ。年配の刑事、飛田は目をまるくしていたが、ヒナはそれが異常なことだとは考えもしていない。ベッドは、なにより安心できるこの部屋の中でも、もっとも落ち着く場所であるからだ。のほほんとした様子の霜月から「パジャマだもんねー、ねむいよねー」と、理解しているのかいないのか、イマイチわからない調子で言われても、軽く頷くだけだった。

 そうして繰り返される質疑応答。ヒナはうんざりしながら、ふたりに同情もしていた。彼らだって、来たくて来ているわけじゃない。仕事だから仕方なく、なのだ。

「あの日、初めて彼から、そうするつもりだって聞いて。それで、自分も死んだほうがいいと、そう思って。だから、あの人に従ったんです」

 早く終わってほしい。その一心で、たどたどしくも聞かれたことに答えた。

 飛田が神妙な顔つきで視線を巡らす。霜月のほうは、本題に入ってからは、ほとんど口を閉じていた。おしゃべりな彼女にしては珍しく、今日は聞き役に徹している。もしかすると、事前に飛田から指導が入っていたのかもしれない。しかし、目は真剣そのものだった。

「強制じゃなく、同意してたってことだね。でも前もった相談もなしに、突然あんなことになって、こわくはなかったかい?」

「別に……彼のことを、信じてましたから」

 半ば虚勢。しかし、まるっきり嘘ではない。

 自分のことを愛してくれていると信じていた。だから、言われるがままにした。

 彼が死ぬなら、自分も死んだほうがいい――と。

「いまでは馬鹿なことをしたと、そう思ってます」

「ふう、ん。そうか」

 飛田は言葉を探しているようだった。以前に聞いた霜月の言によれば、彼は最近になって刑事課から生活安全課へと異動したきたばかりだそうだ。年頃の娘を取り調べること自体に不慣れなのだろう。ベテランぽい外見ではあるけれど、ヒナの内情へと踏み込んでいいものか思い悩んでいる様子だった。気まずい。

 飛田が一瞬、隣の霜月へと視線を向ける。こういう空気のときはだいたい彼女が「そっかー」とか「すごいんだねー」とか、なんとなくズレた相槌を打ち、飛田が軽く叱るというのが定例化したパターンなのだけれど、きょうはそれがないため余計に間を測りかねているみたいだ。いっそ、無口な霜月をいぶかしんでいる節さえある。指示を出したわけではなかったようだ。

 いまも霜月はじいぃっと、真剣な顔でヒナを見つめている。

 飛田だけではなく、自分までペースを崩されそうだ。そう思ったヒナは再開した質問に集中しながら、己の身に起こった出来事を思い返した。


 占部ヒナが担任教師と交際を始めたのは、去年の秋ごろ。中学二年生のときだ。

 すらりと背が高く、ほっそりと痩せている若い新任教師。彼は朗らかで人当たりよく、そして繊細だった。

 ある日の放課後。ヒナが忘れものを取りに教室へ入ると、担任の彼が机に突っ伏し、ひとりで泣いていた。

 物音に気づいた彼が顔を上げる。頰に伝う、きらきらしたしずく。ヒナはそれを見て、きびすを返して逃げ出した。ただただ、びっくりして。

 なにが原因で泣いていたのかはわからない。何度聞いても、結局最後まで教えてはくれなかった。

 同僚や生徒のだれかとでも衝突したのか。直面した実務のきびしさか。理想と現実とのギャップか。はたまた、プライベートでのなにかか。とにかくヒナは、大人の涙というものを、そのとき初めて目の当たりにした。

 なんとも思っていなかったはずなのに、以来、気づけば彼を目で追っていた。そのうち距離は縮まっていき、彼も拒まず、受け入れてくれた。

 束の間の蜜月は放任主義の両親や、さして親しくもない友人たちに囲まれる生活より、ずっと刺激的で幸せな時間だった。

 だから学年が変わり、ふたりの関係が周囲にバレて、ほかに居場所がなくなったとき。泣きじゃくる彼から内心を打ち明けられて、それでもいいと思った。ついていこうと思った。

 夜の公園。車の中。ふたりきり。ここからいなくなるために必要な諸々の道具と、そして意思。

 結果、自分だけが生き残った。生きることを選んでしまった。死んだほうがいいと、そう思っていたはずなのに。


「ありがとう。今日のところは以上だね。なにか思い出したことがあったら、電話をもらえるかな」

「あ、はい……」

 今日のところは。

 まだ、これからもつづくのか。うんざりするが、さすがに口には出せない。

 飛田は始終、多くの大人たちがそうするような顔をヒナへ向けていた。

 君の気持ちはよくわかる。大変だったね。もう大丈夫。私たちがついてるからね。自分から死のうだなんて、いけないことだよ。そういう、同情を滲ませた表情。

 心の奥底で、おりのような怒りの具現を感じる。同情は傷を持つ者にとって、見下されることと同義だった。

 わかるはずがないのだ。いま生きている人間に、本気で死のうとした者の想いなど。彼らは不理解ゆえに、死を悪いものとして拒絶し、ヒナのような相手には決まって痛ましい顔をする。

 それ自体は別にかまわない。わかってもらおうとも思わない。でも、だったら踏み込んでくるな。知った風なことを言って、私にさわるな。

 事件前、クラスメイトたちから向けられていた奇異の視線。事件後に、より多くの大人たちから向けられた忌避の視線。ヒナの胸中では、それらへの憎悪が渦巻いていた。

 気持ち悪くて、吐き気がこみ上げてくる。すべての他人が、嫌悪を隠した、やさしげな表情で接してくるように思えた。

 たったひとりを除いては。

「飛田さん、すみませーん。先に行っててもらっていいですか? あたし、ちょっとヒナちゃんと話あるんでー」

 立ち上がって部屋の外へ向かおうとする飛田の背中に、座ったままの霜月が笑顔で声をかけた。

「先にって、お前」

「あ、走って追っかけますんで! すぐすみますからー」

 カラッとしていながら、ぜったいに譲らないという意思が感じられる、強い声だった。新人のわがまま、マイペース。相棒のお目付け役も担っているらしい年配の刑事は、あきらめの滲んだ溜息を吐いた。

「車まわしてくるから、その間だけだぞ。……それじゃあね、占部さん。お邪魔さま」

「う……あ、はい。それじゃあ」

 まさか「変なの置いてかないでくださいよ!」とは言えず、受け入れるしかなかった。

 ふたりきり。奇妙な静寂。霜月は中腰で部屋のドアに耳を当て、ぎゅっと瞼を閉じている。やがて、かすかに玄関の扉が開き、閉じる音が聞こえた。飛田が出ていったらしい。よし、と霜月が小声でガッツポーズをとった。

「ふ、ふ、ふ」

 振り返った彼女は意味ありげな笑み――でもたぶん深い意味はない――を浮かべ、四つん這いでにじり寄ってくる。ベッドの上からだと、ほそい背中と女性的なお尻の曲線が丸見えで、妙に蠱惑的だった。

 しかし気にするべきは、なにより、目だ。霜月の瞳には、ほかの人にはない光か、あるいは空虚な穴があった。ヒナはその目を意識するたび、いつも引き寄せられるように視線を離せなくなっていた。

「ヒナちゃんさ」

 彼女が近づいてくると、鼻腔をくすぐる、甘い花のような香水の匂いが強くなっていく。ヒナはわけもわからず、口の中に唾液が溜まっていくのを感じた。

「もしかしてー、だけどさ」

「は、はい」

 一言ずつ区切りながら迫りくる女性を前に、唾を飲み込む。

 霜月とふたりきりの状態で、こんなに間近で言葉を交わすのは初めてのことだった。ベッドのふちに手をかけた彼女が、まっすぐに見つめてくる。やはりこの目だ。この瞳が危険だ。拒めない、というより、こちらを拒まないというような。受け入れているというかんじの目だった。

 ほかの大人たちはもちろん、愛し合っていたはずの彼ともまたちがう。すべての罪を赦してくれそうな、そんな幻想を抱きかねない眼差し。これが慈愛というものなのか。それとも、まったく別の――

「いまも、死のうと、思ってなーい?」

「あっ」

 そんな目を向けられていたからか。誤魔化すこともできず、身を震わせて大いに動揺してしまった。その気持ちだけは頑なに過去のものとして語り、隠してきたはずだったのに。

 青ざめるヒナとは対照的に、霜月はアッハハー、と明るい笑い声を上げた。

「やっぱりなー。失敗した人がまた……ってパターン、めずらしくないみたいだよー。なによりヒナちゃん、わかりやすいんだよねー」

「えと、あの。ほかの人には、言わないで」

「うーん、それはいいけどさー。飛田さんだって勘づいてるんじゃないかなー。だから心配して、ちょくちょく足を運んでるんだろーし」

 うっ、と息が詰まる。しかし、いまさら口をつぐんでも事態は好転しない。

「別に、いますぐってわけじゃないんです。落ち着いて、なるべく人に迷惑のかからないタイミングを見計らって……」

 せいぜい負担がいくのは、娘がこうなっても無関心な両親くらい。そんな頃合いを見て、彼の後を追うつもりでいた。

「そんなのあるわけないじゃーん。どうしたって、ヒナちゃんを知ってる人みんなに、なにかしらの影響が出るよー」

 ヒナなりの悲痛な決意を霜月は笑い飛ばす。

「だから、その辺は覚悟を決めとかなきゃじゃないかなー。だれだって、いままでいた人がいなくなったら、びっくりするもんでしょー?」

 馬鹿にしているわけでも、考え直させようとしているわけでもなかった。どこまでもやさしい、当事者の側に立った発言。まるで、経験者からの助言だ。

 ヒナは確信を持った。この人は自分の想いだけでなく、これから死のうという決意すらも理解し、受け入れてくれている。

 うれしさがこみ上げてくる反面、疑惑も浮かぶ。

「止めないんですね」

「だって、それってヒナちゃんが自分で選んだことでしょー。だったら、あたしにどうこう言う権利ってなくない?」

 おそらく飛田がこの場にいたなら、お尻を蹴っ飛ばされそうなことを平気で言う。だからこそ、彼が完全に出ていくまで待っていたのか。

「だったら、どうして」

 どういうつもりで、こんな話をするのか。さっぱりわからない。

「んー。ヒナちゃんさえ、よければなんだけどー」

 にへらっと笑ってみせた霜月が、胸ポケットから紙片を取り出した。受け取って、二つ折りの紙を開く。手書きで記された、インターネットアドレス。

「本気なら、いいとこあるよって、教えてあげよーと思って」

 そうささやいた霜月は、ぱちりとウィンクをした。



 行きつけの喫茶店。そのソファ席でひとりコーヒーをすすりながら、サトシは思案に暮れていた。

 亡き父の持ちものであった廃病院で、とある集いを数年に渡って催してきた青年である。もはや彼にとって、集いは生きがいと言って差し支えないものとなっていた。しかし現在、幾度もつづけてきたがゆえに、複数の弊害が生じている。

 ひとつは年齢だ。サトシは現在大学生。彼が管理者として企画してきた集いは、多く“子供”と呼ばれる者たちに焦点を当ててきた。その集まりに、成人してしまった自分がこれからも加わっていくのは公正とは言いがたい。

 さらには秘匿性。これについては元参加者の存在が悪く影響していた。

 その特質上、ほとんどの参加者は集いが一回限りの企画だと信じ込んでいる。しかしごく稀に、並はずれて推察力の高い者や、マイペースゆえの逸脱した着眼点を持つ者などが、真相へと辿り着くことがあった。幸い、その中には声高に広めようという人間こそいないが、これ以上はいつ世間に露見してもおかしくない。

 限界。潮時。そういった言葉が浮かぶ。

 サトシに大きな落ち度があったわけではない。そもそもが、こう何度も繰り返して行うはずの企画ではなかった。

 だが当初の予定は覆った。集いは自身にとって、大きな意義のある存在となった。選択し終えた彼らを見送るたび、なんと胸がことか。なにものにも代えがたい幸福感。だからこそ、ここまでつづけてきた。

 その終わりが近づいている。できても、あと一度か二度だ。

 喫茶店のドアに取りつけられた大ぶりの鈴が、カランカランと鳴り響く。待ち合わせの時間まで、あと十分。どうやら相手のうち、ひとりが来たようだ。

 入り口に顔を向けたサトシは、一瞬だけ目を瞠った。

 真っ白いワイシャツに、黒いジャケットとタイトなスカート。濃い茶のタイツ。ヒールの高い、黒い革靴。黒めのハンドバッグ。さらには怜悧な顔つき。

 黒い髪こそ肩口までで切り揃えていたが、それ以外は何度も対峙してきたあの女性と、そっくり同じだった。

 さほど広くはない店内を見回した少女は、いくつかの客の中からサトシに当たりをつけ、まっすぐ向かってきた。あらかじめ、こちらの特徴を知らされているのだろう。

 まだ十六歳だと聞いているが、ずいぶん大人びて見える。隙のない切れ長の目からも、知性の高さが伺えた。姉と同様、けして油断はできない。サトシは気取られない程度に身構えた。

 ソファから腰を上げ、少女を迎える。

「はじめまして、サトシと申します。今日はお呼び立てしてしまい、すみません」

 普段どおりの、こなれた笑みを浮かべた。

 少女もうすく微笑み、優雅な佇まいで応える。

「お待たせいたしました。アンリの妹、マユです」

 集いにおいて何度もリピーターという立場を取りつづけ、そのたび場を混乱させてきた女性からの、最悪の置き土産との邂逅だった。


 もうひとりが着くまで、本題に触れるのは待つことにした。

 マユが注文したのはミルクティー。一旦は大柄なマスターにコーヒーを頼みかけたものの、サトシのカップの中身を目にして取り止めた。サトシはしょんぼりしているマスターの後ろ姿が気になったが、それはまあいい。

「アンリさんは、どうなさっていますか」

 相手は小首を傾げた。

「どうなのかしら。今度の集いの件に関して以外、特に連絡を取ってはいないから」

 突き放すような口ぶり。見た目も言動もそっくりではあるけれど、けして仲がいいわけではないらしい。

「まあ、あの人はあの人で、新しいなにかに熱を上げているようよ。敗者なりにね」

 あざけった発言。聞き流せなかった。

「アンリさんとは、別に敵対していたわけではありませんよ。僕らはあくまで、お互いの合意のもとに集った同志でしたから。至った結果に勝者も敗者もありません」

 むしろ、いまのマユの態度にこそ敵愾心のを感じる。思っていた以上に、自分はアンリに肩入れしていたのだと、初めて気づかされた。

「そうかしら。姉の口ぶりだと、相反する信念のぶつけ合いを幾度も繰り返していたようだけれど」

 どこまでも挑発的。覗き込むような視線。違和感。

 サトシは軽く首を捻って笑みを深めた。

 迂闊だった。あえて刺激するような言動で、こちらの反応を伺っているのだ。気にはしないが、初めの挨拶以外、目上の者に対し敬語でないのもそのためだろうか。

 彼女からすれば、これは前哨戦なのだ。どれだけアンリから仕入れていようと、実際に見聞きして得られる情報は別格だ。本番前にその機会が与えられたのだから、探りを入れてくるに決まっている。

 開始前の手持ちのカードは、いまのところ五分。マユには集いの真相をぶちまけるという切り札があり、サトシには管理者権限で出入り禁止にするという最終手段があった。

 しかし経験の差は歴然。一方がそれを埋めて計画を実行させるか。それとも押し留めたもう一方が破綻させるか。勝ち負けという表現で揺さぶりをかけてきたことから、マユはおそらく、そういった個対個の対決にこちらの意識を持っていき、競いたいのだ。集いの主旨とサトシ個人への理解のなさから生じた誤認。アンリとの大きなちがいを見た。

 多彩な手練手管を用いてきたアンリに対し、サトシはこれまで、いっそ本当に出入り禁止にしようかと考えたことも少なくない。しかし彼女はあくまで大局を見て、全員での実行を望む人だった。だからこそ、それが叶わないと悟ったときは常に潔く引き下がった。最後に参加したときもそうだ。その高潔さゆえに、サトシはアンリのことを嫌いではなかった。

 対してマユは、姉を退けた自分に照準を合わせている。どうやら姉妹仲の悪さは本物らしい。ありありとした対抗意識。垣間見える劣等感の裏返し。自分に勝てば――つまり計画の実行を果たせれば、アンリに勝ったことになるとでも思っているのだろうか。

 似て非なる、姉妹それぞれの屈折と視野のいびつさ。しかし共に能力は高く、厄介であることに変わりない。サトシは改めて気を引き締めた。

 ちょうどそのとき、新たにドアの鈴が鳴った。おっかなびっくり入ってきたのは、紺色のセーラー服を着た女の子。喫茶店に入り慣れていないのか、妙にそわそわした様子で身体を揺すっている。

 一見、ただの人見知りな女の子だ。しかしサトシは確信する。多くの同志、同類と邂逅してきた彼だからこそ気づける、特異な洞察力によって。

 マイにあの子を託された理由がわかった気がした。

 彼女は、生に絶望している。

 集いに参加しようがすまいが、いまのままだと、どうあれ死を選ぶだろう。


「ええと、じゃあ。し……マイさんから紹介していただいた、うらっ……ヒナです」

 サトシとマユの自己紹介を受け、集いに参加する上での暗黙のルール――仲間意識を抱かせる目的からファーストネームで呼び合う――を察したヒナが、マユの隣に腰かけ、目を伏せながら告げた。

「ええ、マイさんから伺っています。今日は、わざわざお呼び立てしてしまい申し訳ありません」

「いえっ、そんな。ご丁寧にありがとうございます」

 そう言って、より深く頭を下げる。

 こうしていると、つくづく普通の女の子にしか見えない。

 長い黒髪は艶にこそ欠けるものの、彼女の落ち着いた雰囲気とよく合っていた。なめらかな肌は、海の底で日光から遮られてきたみたいに青白い。

 少し綺麗で、少し不健康そうな。そんな、普通の女の子。しかし、ふとした拍子に、彼女からは死の匂いがした。マユも似たようなものを感じているのだろう。わずかに表情が硬くなっている。

 そうしているうち、マスターが注文していた飲み物を持ってきた。

 ヒナが頼んだのはオレンジジュース。飲み干したコーヒーをサトシがおかわりするついでに、「じゃあ私も」と言いかけたのを、マユがくわっとした表情で制止したのだ。

 サトシは、自分の前に置かれた物体をちらりと覗いたヒナが、「あああ、ありがとうございます」と隣に向かって小声でささやいたのを聞き逃さなかった。

 一杯で七色の風味と食感が楽しめる、カメレオン・コーヒー。玄人向けなのかもしれない。そういえば、自分以外にこの店でコーヒーを飲んでいる客を見たことがなかった。

 もちゃっ、もちゃっ。

 を舌の上で堪能したサトシは、さっそく本題を切り出し始める。

 ふたりにお願いするのは、おもに口止めだった。かつての同志から推薦を受け、次の集いへ加わる予定の彼女たちは、ほかの参加者と立場がちがう。なにしろ、これまで行われてきた集いの実態を知っているのだ。

 このふたりこそ、最新のイレギュラー。

 その存在を一同に指摘されたとき、思わず飛び上がりそうになったゼロ番の彼。

 リピーターとして、本懐を妨げる大きな障害となった彼女。

 あのふたり以来の異分子なのである。どうしても事前の顔合わせと、口裏合わせは必要だった。

 かいつまんだ説明と確認。集いの目的。人数。手段。多くはサイトに応募してきた相手へ告知するものと同様だった。肝心の、これまで何度も集いが企画されてきた点や、目的が一度として実行されていない点もやんわりと伝える。これについては、ふたりとも推薦者から聞いているはずだ。

 と、思っていた。

「あの。いいですか」

 それまで、じっと耳を傾けていたヒナが、なぜか驚愕したような顔で手を上げる。

「はい、なんでしょう」

「その、それは……。だまってること自体は、別にいいんですけど」

 一度顔を伏せ、再度上げたとき、彼女の目には疑惑が浮かんでいた。

?」

 思わず目を見開く。マユは、わずかに口角を上げていた。

「ええ、もちろんです。そのつもりでいます」

「これまでも、ずっとだったわけですよね?」

 いっそ非難するかのような口調だった。参加者の命を、想いを弄んできた人間に対する、隠しきれない嫌悪感。サトシは背中に冷たいものを感じた。

「それは、ぜひ聞いておきたいところね。あなたの本心次第では、茶番もいいところよ」

 攻勢の機会と見て、マユがヒナの側に立つ。サトシとしては、ここをしくじるわけにはいかない。

「もちろん、僕もヒナさんやマユさん、ほかの方々と同じ気持ちですよ。ただし、集いの場で本当に実行するかどうかは、各々の選択次第なんです」

「各々の、選択……」

 その言葉に、なにか思うところがあったのかもしれない。ヒナは途端に大人しくなり、噛みついたことを恥じらうように小さくなった。

「あなたが、そうなるように誘導してきた可能性は残るわよね」

 即座に否定。

「あくまで個々人の選択の結果ですよ。これまでは、たまたま中止されてきたのだと。そうお考えいただければいいかと」

 引き際を悟ったマユが、うすく微笑む。ヒナは目を伏せたままで軽く頷いた。一応、承知してくれたらしい。しかし気になるのは彼女の動揺だ。まるで集いの真相を、いま初めて知ったような。

「……ひょっとして、マイさんから説明は受けていないのですか?」

「ああ、えと。はい。サイトのアドレスと、後からサトシさんの連絡先を教えてもらったくらいで。詳しいことはこの人に聞けばわかるよー、と」

 頭を抱えたくなった。いかにもマイらしい投げっぷりだ。いや、それだけ自分を信頼してくれているのか。

 それならばヒナの抱いた不信感も、無理からぬことだった。

 アンリを始めとした、真相に行き着いた者たち。彼らが先刻のヒナのような感情をサトシに向けないのは、集いでの空気を共有したところが大きい。なのに事前のフォローもなく、唐突に主催者からそんな話を聞かされれば、疑ってしまうも仕方のないことだろう。マイだけではない。むしろ先入観を持って先走ったサトシにこそ非はあった。

「コイントスで表が偶然、連続して出たようなものですよ。きっと、いつまでもはつづきません」

 本心だった。幾数回と弾いてきたコイン。次も表とは限らない。

「裏が出たとき、あなたはどうするのかしら」

 マユの挑戦的な笑み。サトシはどこまでも涼しげに受け流す。

「もちろん、みなさんの選択に殉じます」

「それがあなたの選択なのね」

 満足げな表情を浮かべたマユが、隣に訊ねる。

「ヒナさん、どうかしら。納得した?」

 彼女は伏し目のまま、ちらりと横を見て、前を見て、そしてこくりと小さく頷いた。

 サトシは内心ほっとしながら、カップを手に取った。

 一筋縄ではいかない相手を交えての、新たなる集い。ふたりへ告げた言葉に嘘はない。しかしサトシは、死ぬまで生きることを決めている。だから、自分にできることをやり遂げるつもりだった。


 かくして、次の集いが開催される。


 始まろうとしていた。

 終わりのときが、始まろうとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

子羊の再演―プロローグ― 渡馬桜丸 @tovanaonobu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ