Track2:いけすかない‐1

くるりのボーカルにちょっと似ている銀縁メガネの内科医は、正にまな板の上の鯉のような気分で椅子に座っているおれに目を合わせ、つまらなさそうな声で聞き慣れない病名を口にした。


咽頭喉頭炎いんとうこうとうえんですね、喉の使い過ぎでしょう」


いんとうこうとうえん? 江東区の公立庭園みたいな優雅な響きだが、ちょっと待てよ、そう言えば前に誰だかバンドのボーカルが罹って、結構大きなフェスをキャンセルしたっけな。勿体無いけど病気じゃあ仕方無いな、ぐらいにしか気に留めていなかったが、まさかおれが、あの多忙なボーカリストぐらいしか縁がなさそうな病気に罹ったと言うのか?

自分が置かれた立場が理解出来ないまま、おれはブルーハーツすら知らないらしい(喉を酷使した理由について会話を交わした際に好きな音楽の話題になり、その時言われたのだ。「ワタシ音楽って聴かないんですよね〜、ブルーハーツ? 聴かれるんですか? アイドルですか?」)道端のたんぽぽにすら人生の悲哀を見出していそうな壮年の医者に処方箋を出され、あっさりと人生最大の生き甲斐にドクターストップをかけられた。


「暫く大きな声は出さないようにしてください。歌も勿論駄目ですよ」


コイツ顔だけはサブカル女子にウケそうなくせして、全く情もへったくれもあったものではない。何故こんなカスに唯一の生き甲斐を奪われなくてはならぬのか。おれはあまりの不条理に今すぐここで怒り狂いたい気持ちだったが実際には河内仕込みのドスの効いた怒声もカッスカス、ちょっと低い声を出すだけでも喉に刺すような痛みが襲うのが現実だったので、そんな気持ちは痛む喉の奥に呑み込んで大人しく指示に従ったのだった。


その時は丁度、我等がHAUSNAILSハウスネイルズ初のフルアルバムを制作している最中だった。

全十五曲、まだライブでしか披露した事がない曲も収録して盛り沢山の内容にしよう! と意気込んでいたばかりなのに、その威勢を完全に削がれてしまった。しかしたとえ威勢を削がれても納期は差し迫り、まだレコーディングしていない曲を幾つか残したまま時は無情にも過ぎてゆく。


約二週間の療養を強要されたおれは喉の痛みのせいで食事もまともに摂れず、急激に低下する体力にいい加減辟易していた。だるい身体を引きずってレコーディングに顔を出す意味も見いだせず、バイトも学校も休んでなす術もなく過ごしていたが、バンドメンバーや友人達からの体調を気遣うメールやLINEに励まされながらなんとか生き抜いた。


ドクターストップが解除されスタジオに復帰したおれを、メンバーはにこやかに迎えてくれた。


下北沢の奥地の住宅街に、ウチの事務所が借り上げたレコーディングスタジオがある。近所に柄本明の自宅があるらしい事が実は密かにちょっぴり自慢だったりするが、ウチのバンドきっての二次元オタクでヤクルトファンのドラマーには、野球選手の事だと勘違いされた。無念。


そして我等がスタジオには、その程度しか自慢がない。


何せ先月やっとクーラーが全室に装備されるようになったばかりのオンボロレコーディングスタジオだ。単なる防音リフォームがされただけの古いアパートの一室に機材を並べたような部屋なので、男四人ではとても狭くてむさくるしい。しかし、インディーズながらいわゆる“レジェンドバンド”として下北沢では知らぬ者はいないと思われる(※当社調べ)ロックンロール・バンドのボーカルでもある社長が一昨年立ち上げたばかりの駆け出しインディーズレーベルの所有スタジオにしては整いすぎた録音環境である事に違いはなかったし、何より「新レーベルの所属第一弾アーティスト」と言うポジションが厨二病揃いのバンドマン野郎達にとってはたまらなく魅力的だったから、おれ達は黙って我慢した。


授業が終わり、新宿から小田急線に乗って下北沢の駅へ向かう。そう言えばこの前南口が閉鎖されたばかりだった。なんや、めんどくさいな。口の中で悪態を噛み潰しつつ、北口から遠回りして南口商店街の方角へ向かう。


イカニモ開発が進む途中の様相を呈する白いテントのような無機質な壁に覆われた駅構内から、有機質の塊のような商店街の入り口に出た。

右手に眼鏡屋や洋服屋、左手にマクドを認めながら見慣れた町並みを二週間ぶりに歩く。

閉店したアンゼリカの跡地に入ったコッペパン屋、風知空知、餃子の王将も通り過ぎると五差路に差し掛かり、下北沢ロフトのある道には行かずに前方右手に直進。

段々と小さなアパートと居酒屋ばかりの静かな街並みに移行してきたら、角を曲がって細い路地へ。

見慣れたコンクリ打ちっぱなしの三階建てが見えてきた。ここだ。


築三十年のアパートには勿論エレベータなんてサービスの良いものはなく、三階分の内階段を一段一段登って最上階に到着。一時的に機能低下した循環器が悲鳴をあげかけているが、元空手部員のスポ根が足を止める事を許さなかったのでそのまま廊下をずんずん歩く。この動悸息切れはもしや喉を傷めていたせいではなくおれがデブ……だからでは……と悲しくなってきた頃、目の前に突き当たりのくすんだ緑色の扉が現れる。合鍵を挿して燻し金のノブを回すと、狭い板張りの中廊下の奥から聞き慣れた陽気な声が飛んできた。


「組長! よく帰ってきた! 偉い!」


狭っ苦しい玄関先で同い年の男に至近距離で迫られるのはあまり良い気はしないが、相手が気の置けないバンドメンバーだったら話は別だ。ドタドタと足音高らかにやってきておれの肩を両手で掴むフッちゃんの満月のような笑顔におれは照れ臭さを噛み殺して笑顔で「おう」と応えた。


フッちゃんはHAUSNAILSのリーダーだ。見ての通り人の好い派手好きの男で、いつも天然パーマの金髪に蛍光カラーのキャップを乗っけている。八重樫藤丸やえがし ふじまると言う何処かの大名主みたいな本名からは想像もつかないようなヨーロピアンな顔立ちのギタリストは、相変わらずどこで買ってきたのか想像もつかないAC/DCのロゴの入った黒いTシャツに黄色い短パンと言った出で立ちでおれの肩を抱くようにして奥の部屋まで迎え入れる。


九野くのちゃん、キヨスミ、飯食ってる場合じゃねえぞ! 組長様のご帰還だ!」


随分と大仰に現場復帰を果たす事になったおれはもう照れ臭くて照れ臭くて、壁一面鏡に囲まれた六畳程のリハーサルブースで昼飯を食べているらしいメンバーの顔がまともに見られなくなってしまった。我ながら気持ち悪いぐらいはにかみながら部屋に入るやいなや、九野ヒロの鼻にかかった甘ったるい声が飛ぶ。


「あ! ほんとだ組長だ!」


リハーサル用の電子ドラムの上に焼き肉弁当を広げた九野ちゃんは、立ち上がった勢いでカップ味噌汁をひっくり返してしまいそうになり大きな目を白黒させている。なんとかタムの上に弁当セットを並べ直し、ドラムセットの奥から這い出して来ると、ジャニーズジュニアみたいなミテクレに不釣り合いな程男らしい仕草で豪快に抱きついてきた。カルピスを彷彿とさせるカッターシャツの紺地に浮かぶ白の水玉模様と、アッシュグレーのマッシュの髪にマーカーで線を引いたように入ったピンク色のメッシュがやたら眩しい。


「うわあ組長だあ、本物だ」


本物だとはどういう事だ、まるでおれがいない間におれの偽物が歌いにでも来ていたような事を言う。相変わらず言語センスが独特過ぎるドラマーを抱き止めて両手で背中を叩いてやると、療養中ずっと気になっていた事がおれの脳裡をふと過る。


「なあフッちゃん、そういや俺のいない間ボーカルってどないしてたん?」


九野ちゃんに黒いパーカのフードを無理矢理被せられた衝撃でずり下がるメガネを程良い位置へ戻しながら問いかけると、腕を組んで笑っていたフッちゃんがぽん、と手を叩いて言う。


「あっそうそう! 組長に言おう言おうと思いながら忘れてたわ! 組長いない間に五曲ぐらい出来たんだけどさ、それキヨスミに歌ってもらったんだ」


リーダーのその言葉を聞いた瞬間、おれは息が止まる心地がした。


言語が脳裡から一切合切消え失せる。は? とすら言えなくなる。これが、そうか、いわゆる「言葉を失う」と言う感覚なのか。

なんて感動すら覚える程に絶句するおれの視界の片隅――「オナニー禁止」なる謎のハレンチな文句が踊る貼り紙がしてある窓の前に据えられた、破れて黄色い臓物が丸見えのオンボロソファの上に、見覚えのある人影が蠢くのが映った。


そいつはローテーブルに妙に豪華な寿司折を広げ、切れかけた蛍光灯を浴びながら黙々とそれを口に運んでいる。


大きなテディベアのプリントされた女子高生の部屋着みたいなオーバーサイズの白Tの袖をタンクトップのように捲り、黒いギンガムチェックのスキニーに包まれた割り箸のように細い脚をだらしなく投げ出したそいつは、割り方の汚い割り箸で寿司を摘んでは食べる。


照明を受けて白く光るホタテを摘み上げ、背中を丸めて口に運び、吸い込むようにしてひとくちで平らげると、次は食べてくれよと言わんばかりな光沢を放つ薄ピンクの中トロに箸を伸ばす。


Tシャツの襟元から覗く、女モノの下着のような黒いレースの肩紐が絶妙にイヤらしい。左耳には耳たぶにひとつヘリックスがふたつ、そして大きなホチキスの針のようなインダストリアルピアスがひとつ、ギンギラギンにさりげなくない輝きを放っている。

ビビリで左右耳たぶにひとつずつしか穴を開けられなかったおれからしてみればいっそ狂気の沙汰だが、髪の毛で隠れている反対側にもトラガスとヘリックス二個が開いているらしいのでビビリ野郎はぐうの音も出ない。しかも高三の受験期に校則ガン無視で安ピンと消しゴム使って自力で開けたってんだからとんでもねえヤローだ。


腫れぼったい瞼と大きな黒目にはさして表情も無く、だからと言って決して不味そうではなく、つまりあくまで生まれつきのようなポーカーフェイスでヤツは実に豪快に寿司を食べている。


風が起こせそうなまつ毛があざといホクロの乗っかった右頬に濃い影を落とし、女の子のおかっぱ頭のような形の――洒落た言い方をすればボブカットとでも言うのだろうか――伸び伸びな金髪が邪魔そうに口元にまとわりつく。

そのまとわりついた金髪を時折指先で払いのけ、タラコ唇の端に付いた醤油を真っ赤な舌で舐めながら合間にペットボトルのルイボスティをあおる。おれが言葉を失っている間に、ヤツの口の中に十貫もの握り寿司が吸い込まれていった。


おれのただならぬ様子に気づいたか気づいてないのか、フッちゃんがそいつに呼びかける。


「おいキヨスミ、寿司食ってる場合じゃねえぞ! 自分にご褒美〜とかOLみてえな事言いやがって贅沢者め」


子供を叱りつけるような調子だが、その声音には面白がっているような響きが滲んでいる。口の悪いお人好しのリーダーの呼びかけに、寿司を貪り食っていたベーシストははたと顔を上げて笑い返した。


「あっごめんごめん、久々にこんなイイもん食べたからさ、ちょっとトリップしてたわ」


常温でとろけた生クリームのような、甘ったれた舌っ足らずの声がだらしなく裏返る。ヤツは箸を置いて自分の膝小僧の上に頬杖を突き、小首を傾げて言った。


「だって俺、超頑張ったもん、組長いない間」


おれはそいつの――平清澄たいら きよすみの生意気な笑顔と約二週間振りに向き合った瞬間、あの“恐怖の硫酸ピッチ野郎”に戻ってしまいそうになった。

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