Track1:空も飛べるはず‐2

高価な楽器を触らせてもらう時のように指先が震える。

過去にそんな機会が一切なかったとは言わないが、やっぱり何度あっても結局はまだ清い身、童貞にとっては緊張の一瞬に違いはないのだとつくづく思う。


彼女の薄く日に焼けたような肌は想像していた以上に柔らかかった。しっとりとおれの指先に吸い付き、指紋の一筋一筋の間にまでその感触が染み込んでしまうんじゃないかと思う程に水分を含んでいる。

その手触りや体温を確かめるように彼女の頬を何度も何度も撫でていると、手の甲をそっと押さえられた。何か大切な物に頬擦りするようにおれの意気地なしな右手を両手で包み込んだ彼女は、長めの前髪の隙間から上目遣いにこちらを見つめてくる。


「くすぐったいよ、もう、だめ」


少しハスキーな甘い声が、やや震えているのがいじらしくて、おれはまた捕らえられた右手の指先で執拗に撫でてしまう。目尻の下がったアーモンド型の大きな目がうっすら潤んだかと思うと、長いまつげを伏せて彼女は切なそうに笑った。


亜麻色、とでも言っただろうか。蜂蜜のような光沢で淡い色に染められた肩までの髪が揺れる。おれは窓を開けっ放しにしている事に気付いたが、そんな事で今この一世一代の瞬間をムードぶち壊しにする訳にはいかないと頭の中からかなぐり捨てた。毛先に入った綺麗な内巻きのカールが、カスタードプリンみたいな首筋のなまめかしさをいっそう強調していた。


「カズくん?」


不安そうな声が鼓膜を揺らし、おれは我に返る。空いている方の手で彼女の髪を撫でてごめんごめんと笑うと、彼女は不安そうな顔のまま開いている窓に視線を移し、「あ、窓開いてるね、寒い?」と小首を傾げた。


「あたし閉めてくるね」


おれのリアクションも待たずに立ち上がろうとする彼女を慌てて引き止め、模様替えをしたばかりで洗濯上がりのグリーンのラグマットに座り直させ、ベッドに寄りかからせた。毎晩おれのやるせなさを受け止め続けている見慣れたベッドに、こんな可愛い女の子が寄りかかっていると言う事実だけで脊髄液が沸騰しそうな程、おれは興奮し、緊張していた。


「窓なんてええから、おれ、キヨミちゃんの事、見てたい」


我ながらド阿呆感極まりない口説き文句である。しかしおれの純情な感情を伝えられる語彙は、語彙はあるのだけどそれを使いこなすバイタリティが足りなさすぎるので、三分の一も伝えきれない。甘い台詞も上手い事も言えない悲しい程に不器用なおれの言葉に、それでも彼女は呆れるでもなく目の下をきゅっと赤く染め、くすぐったそうに笑った。


彼女がきちんと正座していた脚を崩し、黒いレース模様のショートパンツから剥き出しになった太股の上に両手を重ねる。身体を傾けておれの顔を覗き込むと、オーバーサイズの淡い紫色のTシャツの襟からショートパンツと揃いのキャミソールの肩紐が覗いた。


「カズくん、」アメリカのグミみたいに甘そうな、赤い唇がおれの名前を呼ぶ。なに、と応える声は情けなくも掠れていた。彼女はズボンが短すぎるのが気になるのか、Tシャツの裾をちょっと引っ張って脚を隠そうとしているのだが、その度にはだけた襟から褐色の細い肩が片方だけ覗くのでおれは目のやり場に困りまばたきを繰り返す。そんなおれが面白いのか、彼女は道端の花が綻ぶように微笑み、おれの額に自分のそれをひっつけるようにして小さな声で言った。


「見てるだけじゃ、だめだよ」


スプーンの先から蜜が溢れるような囁きから、ただならぬ気配を察したおれの身体はその場から身動きを取れなくなった。おれは今日、そうなる事を期待して、望んで彼女をわざわざ我が家に招いたのだ。人生何度目かの覚悟を決め、今回こそはと意を決してその瞬間を待っていたのに、いざ目の前にしてみると彼女の真心を上回る男らしさを見せる事など到底出来そうもない。あぐらをかいたマネキンのように微動だにしないおれの乾いた唇に、彼女のそれが優しく重なった。


如何とも形容しがたい柔らかさがおれの唇を包む。鳥がついばむようにちゅ、ちゅ、と繰り返されると、胸の奥に滞った血液が脳味噌までぶち抜けて全身が粟立った。打ち上げで勢いで飲んだビールが回って理性が吹っ飛んだ時のように、全身の血管を巡る酸素すら熱を持っているような錯覚に陥る。

おれはいても立ってもいられなくなって彼女の細い肩を両手で掴み、自分からキスをした。


彼女の唇の、煮込んだイチゴのような柔らかさが現実味を帯びてくる。むしゃぶりつくように下唇を食み、前歯がぶつかり合わないように細心の注意を払いながら上唇をなぞる。時折鼻にかかった小さな小さなうめき声が「ん、ん、」と滲み出し、おれの使い慣れない熱情を余計に掻き立てた。


狂いそうな正気をギリギリの理性でコントロールしながら可能な限り紳士的な口づけを心がけていると、彼女の息遣いに若干の変化を感じておれは思わず唇を離した。何かがおかしい。


「……どうした?」


出来るだけ落ち着いた声音で問いかけると、耳まで真っ赤にした彼女は唇を尖らせ、困ったようにぽつりと漏らした。


「くちが、あつい」


「あつい」と言うよりは「あちゅい」と表記した方が近いような舌ったらずな発音に思わず生唾を飲み込みかけたおれは、次の瞬間驚きで息を呑む羽目になる。

なんと、彼女のさくらんぼの薄皮にも勝る柔らかさの唇が、熱いスープでも飲んだ時のようにぺろりとただれていたのだ。

おれは咄嗟に両手で自分の口を押さえてあとじさった。さっきまで甘いシャンプーと柔軟剤のフルーティな香りに包まれていた部屋に微かにマッチを擦り損なったような匂いが充満する。昔から鼻だけは良いおれは自分の右手が匂いの根源である事にすぐ気付いた。手を置いていた彼女の洋服の肩口がほんの少しだけ焦げて綻んでいる。ギリセーフ、このまま気付かなければ生まれて初めてのカノジョに大火傷を負わせていたかもしれない。


…………いや、アウトやろ。


大火傷を負わせずに済んだァ? クソ野郎が、それ以前にキヨミちゃんの可愛い可愛い唇に、おれのサンクチュアリに無残にも傷を負わせてしまったではないか。

大きな被害を防げれば小さな犠牲は致し方無しとするその戦時中の官僚的態度、恒久平和を最上級の美とする現代社会では万死に値する! そこに直れ、その全時代的なアナクロの背中DTMで叩ッ斬ってやるわと支離滅裂に叫びながら平成時代の象徴PCを担ぎ上げ姿も見えない敵に向かって振り下ろそうと考えた矢先、目の前にちょこんと座り込んで不安そうな表情を浮かべている彼女の目と目が合い、おれは心の中で振り上げた鈍器をそっとデスクの上に戻した。


「カズくん……?」


ヒリヒリ痛むのだろうか、右手の指で唇に触れながら今にも涙を零しそうに潤んだ大きなおめめでこちらを見つめる彼女は、当惑したように言葉を失っていた。当たり前だ、付き合いたてのカレシにチューを許したら口を火傷するなんておれだって聞いた事も無い。

焦ったおれはなんとか彼女を安心させようと、とりあえず笑顔を作って口を開く。


「あ、え、えっぼ」


案の定噛んだ。舌も噛んだ。痛い。痛いがこれで彼女の痛みを少しでも肩代わり出来たのなら本望だ。


「えっと、おれ、その、初めてやさかい、ちょっと強かったみたい、その、きゅ、吸引力が」


しっかり言葉を噛み締め、アンダンテなスピードで話す。しかし自分で言っておいてあんまりな表現力だと思うし彼女にも案の定笑われた。


「面白ぉい、カズくんダイソンみたい」


よりにもよって掃除機か……。おれは思わず苦笑したが、強張っていた彼女の表情が一気に緩み、いつものスズメがさえずるような笑い声を聞かせてくれただけでも良しとする事にした。これだけ幸せそうに笑ってくれると非常にボケ甲斐のある良いカノジョだ、と心底思う。


散々笑い転げた彼女は、はぁ、と小さく溜息を吐く。おれはふと不安になった。やっぱりこの子、無理しておれに合わせてくれているのではないだろうか。おれはちょっと勉強が出来て高校時代に空手で都大会までいった事がある以外には只の音楽好きな専門学校生だし、ミュージシャン志望なんて正直将来性も何もない。母親にだって何度言われたことか。カズくん、将来は潰しの利く職業に就きなさい。アンタは頭がええんやから資格とか取っといた方がええで。


髪を毛先だけ染めてアレキサンドロスのボーカル気取りな(そのくせ体脂肪率五十パーセントの)見掛け倒しデブには、女の子ひとり幸せに出来る自信すらあるはずもなかった。鼻の頭を脂汗が滑り降りて、黒縁メガネがずり落ちる。ちょっと、ちょっとだけ、泣きそうだった。

そんな、感情がどうしても表情に出てしまうタイプのおれのきっと見苦しいに違いない顔をきゅっと覗き込んだ彼女は、たんぽぽの綿毛が舞うように微笑んで囁く。


「じゃあさ、練習してきてね。優しいの、出来るように」


その柔らかな声音に、全身の血液が頬と脳味噌に大集合するのがわかった。本気で涙がちょちょ切れそうになり、無意識が全力で叫んだ。


ベタな言い回しなのはよく判っている。しかしあえて言わせてくれ、地上に天使が舞い降りたとしたらそれは君だ、キヨミちゃん!!!!!!


おれは音大生十九歳女子の母性にすっかり不器用な小学六年生のかずまさくんに戻ってしまったような気持ちだった。初恋のケイコ先生、元気かな。

などと戯れ言を並べる間髪も入れず「うん!」と幼児丸出しで元気いっぱい頷いたおれに彼女は更に優しく笑いかけ、今すぐにでも幼稚園の先生になれそうな甘いトーンの声で「よしよし!」と言いながら頭を撫でる。

小さい割に指の長い手のひらがおれのブリーチで傷んだ髪をくちゃくちゃにする度、その今にも折れてしまいそうな儚い感触に目頭が熱くなった。


ああ、おれは今、人生で一番幸せな季節に生きている!

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