七月三十一日 水曜日

 ご近所の南さんが朝顔の鉢植えをくれた。僕はそれを庭の一角に置いた。篤志が雑草を刈ってくれたおかげで、庭は随分とサッパリしていた。

 よく晴れていた。扇風機が熱風をかき混ぜる。蝉時雨の中に、風鈴の高い音が響く。

 庭の片隅に黒い箱が見えた。その空間だけがまるでぽっかりと何も無いかのような、不思議な感覚だった。暗いのか、黒いのか、もはや区別も付かない。これが無というものなのかもしれないと、僕はそれをじっと見ていた。

 起き上がる体力が無い。気力も無い。僕は畳の上に寝転んだまま、夏の庭を見ていた。変わらず高い平熱と、鼻血。酷い頭痛に耳鳴り。血を吐かないのは何も食べていないからかもしれない。昨日からずっとこの調子だ。すべての感覚が曖昧で、これはまだ夢の続きかもしれなかった。

 けれどもどれほど夢であれと願ったところで、これがただの現実であることを僕は嫌というほど知っている。

 黒い箱はずっとそこにあった。近付くこともなく、消えることもない。僕の様子を窺っているときの座敷童と似ている。その座敷童は今、僕の背後に立っている。

 背中に貼り付けられた悪寒も、もう慣れた。座敷童は相変わらずで、気配はすれども姿を捉えることは出来ない。たとえば僕が今、急に振り返ったとしても、そこ立っているはずの座敷童は消えてしまうだろう。

 しかし、座敷童も黒い箱も、相手を出来るほどの元気が僕には無い。浅い眠りを繰り返す。太陽はゆっくりと動いていた。真白な雲は点々と空を泳いでいた。

 風が吹くと机の上の原稿用紙がパラパラと捲れては戻った。


 午後六時を過ぎても、外はまだ明るかった。いつまでも畳の上で寝ていてはいけないと、僕はようやく起き上がった。頭が痛い。内側からガンガンと突き上げてくるような痛みだ。眩暈で世界が回る。起き上がってからも、しばらくはぼんやりとしていた。思考も感覚も散らばっていて、ひとりの黒岡涼弥になってくれない。僕は唸りながら台所へ向かって果物を食べた。水分補給も忘れなかった。いくらか気分がすっきりしてきたので、今のうちにシャワーを済ませておこうと、僕は風呂場に向かった。

 僕の身体は痩せすぎていて、自分でも不気味に感じる時がある。呪いなどというもので死ぬつもりはないと思う一方で、僕の身体は確実に弱っていた。どう足掻いても無駄だった。食べても美味しくはないだろうな。鼻血がシャワーのお湯に混ざって流れていった。

 シャワーから上がってタオルで身体を拭いていると、不意に何か妙な気配を感じた。何が奇妙なのかと聞かれても説明できないのだが、とにかく違和感があった。僕は少し緊張しながらドライヤーで髪を乾かした。

 視線、だろうか。僕はタオルを片手に持ったまま台所へ向かった。水を飲む。心が落ち着かない。自分の家なのに居心地が悪い。

 部屋に戻ろうとした僕は廊下で足を止めた。この感覚の正体が分かった。

 黒い箱はまだ庭にあった。

 その周りに黒い人影が立っていた。何人も。黒い箱を囲むようにして立っている。およそこの世の者とは思えない。真っ黒で、まるで影だ。妙に背が高い。篤志よりもずっと。

 いけない、と思った。咄嗟に、彼らに見つかってはいけないと、本能がそう警告した。僕はゆっくりと後ずさりをした。しかし、古い家の床はミシッと軋んだ。

 影が一斉に僕を見た。目の無い顔が僕を見据えた。

 僕は転がるように逃げた。逃げながら振り返れば、足音も無く無数の影が追いかけてきていた。ゆっくりと、ゆらゆら揺れながら。僕は息をするのも忘れて脆い身体を必死に動かした。どこへ逃げれば良いのかも分からない。外は駄目だ、回り込まれている。ああ、逃げ場が無い。僕は家の奥、祖父の部屋へと転がり込んだ。

 脇目も振らずに押し入れの中に潜り込む。祖父の匂いが残っていた。膝を抱えて呼吸を整える。口の中は血の味がした。僕はガタガタと震えていた。タオルは途中で落とした。助けを呼ぼうにもスマートフォンは自分の部屋だ。こんなところ、袋小路だ、逃げたところで無駄だ、すぐに見つかる。けれど他にどうすれば良かったんだ。

 僕はただ息を殺していた。恐怖が通り過ぎるのをただ祈るしかなかった。

 耳を澄ませたって何も聞こえない。禍々しい気配だけが漂ってくる。押し入れの襖の向こうがどうなっているのか分からない。何も分からない。この襖を開けられない。僅かな隙間からぼんやりとした光が差し込んでいるけれど、それもいつまで届くか分からない。もう夜になる。真っ暗になる。暗闇に飲み込まれる。

 僕は自分の腕を噛んだ。そうしなければ声を漏らしてしまいそうだった。

 怖い。

 耳の奥に速い鼓動が響く。

 怖い。

 あの影たちは確実に僕を見た。捕らえようとしていたのか、何なのか知ったことではないが、あれが僕の味方だなんて到底思えない。それが僕の妄想に過ぎないと誰か言ってくれ。あんなものは存在しないと、否定してくれ。あれほど篤志のことを怖がりだと言っておきながら、このざまだ。けれど分かってしまった、あれが、あの黒い影は、僕を殺すには充分過ぎる。

 音の無い暗闇で僕は震えていた。

 けれど、僕の祈りも無駄で、襖がゆっくりと開けられた。何かが僕の足首を掴んだ。冷たい手が、僕の足首を掴んで、僕を押し入れから引き摺り出す。僕は踏ん張ってみたものの、それの力のほうが圧倒的に強く、ずるずると引っ張られる。身を捩って床に爪を立てても、何の抵抗にもならない。僕は押し入れから部屋の中へと引き摺り出された。しかし、暗くて相手が見えない。

 掴まれた足首から徐々に身体中の熱が奪われてゆくようだった。触れられているところがピリピリと痛む。僕はなんとか柱にしがみついた。

 星明かりが家を照らした。僕は足首を掴む者を見た。そこに居たのは無数の影。その奥に佇んでいる、子供。座敷童が影たちの奥に立っていた。

 少年だったのか。

 何故か僕の心には一番にそんなことが思い浮かんだ。君は、少年だったのか。

 座敷童は味方だと思っていた。理由も無く、ただ、そう思い込んでいた。それは正体の分からない存在を座敷童だと認識したために起こった錯覚だったのかもしれない。座敷童は善なる者であったとして、これが座敷童でないのならば、善でなくとも構わないのだ。もはや座敷童と呼んで良いものか。しかし、それ以外の呼称が無い。

 すべて僕の勘違いだった。座敷童はこちら側ではなく、ずっとあちら側だったのだ。裏切られたような気分は確かに感じていたけれど、それ以上に清々しい気持ちがあった。ようやく座敷童の姿をはっきりと見ることが出来たのだから。

 柱を掴む僕の腕を影たちが無理矢理に引き剥がした。影には粘り気があった。僕が吐き出したあの黒い生き物のようだった。けれども僕は自分でも驚くほどに冷静で、影たちに好き勝手されながらも目では座敷童を見詰めていた。座敷童は何も言わず、冷たい眼差しで僕を見詰め返していた。僕は座敷童の顔に誰かの面影を見ていた。

 君は、僕か。僕の子供の頃と似ているような気がした。

 違うな、兄ちゃんか。口元が僕よりも兄と似ている気がしてきた。つまり、僕たち一族と似ているのだ。

 影たちは僕を黒い箱のほうへ連れて行こうとしているらしかった。僕にはもう抵抗する力も無く、されるがまま引き摺られていた。鼻血が出ているようだが、どうにも全身の感覚が鈍い。

 そうして僕は座敷童の前に引き摺り出された。影たちが座敷童に道を譲る。座敷童はゆっくりと僕に歩み寄った。僕は畳の上に転がされたまま斜めの世界を見ていた。

 座敷童の瞳は冷酷に僕を見下ろしていた。僕は曖昧な笑みを浮かべた。好きにすれば良いと、諦めの心だったかもしれない。あるいは、少しの間でも共に過ごした同居人への挨拶だったかもしれない。

 座敷童は身を屈めると僕の喉に手を伸ばした。冷たい手が僕の首を絞める。

 ずっと、その手は僕を救ってくれているのだと信じていた。呪いを遠ざけて、呼吸を取り戻して、僕の傍に居てくれる存在だと、そう信じていた。

 そうではなかったことが、無性に悲しい。

 首を絞める手に力が込められる。息が出来ない。苦しい。視界も思考も朦朧とする。遠のく意識の中、両親や兄のこと、マヤさんや篤志のことが思い出された。これが走馬灯というものか。これで、終わるのか。

 意識が途切れる瞬間、誰かの声が微かに聞こえた。何を言ったのか分からない。それはいつか僕に目を瞑れと囁いた、あの声だった。

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