七月三十日 火曜日

 弟の、話をしようと思う。

 俺の四歳年下の弟は、それはもう、誰よりも病弱だ。幼い頃からずっと元気に走り回るということさえ出来ない子供だった。体調が芳しくない日々ばかりが続き、一度伏せってしまえば布団から起き上がることも叶わなかった。成長すればするほど、症状は重篤になっていったが、どこの病院でも原因が分からなかった。最初の頃は、体力の消耗が激しく、すぐに熱を出すだけだったはずだが、いつしかその身体は常に熱を帯びるようになり、やがて血を吐き出した。

 弟の面倒を見るのは自分の役目だと信じて疑わなかった。それは両親が共働きだったからかもしれないし、四歳という年の差が丁度良かったからなのかもしれない。あるいは、祖父の影響かもしれないし、生まれ持った性格が、そう思わせていたのかもしれない。いずれにしても、病弱な弟のことを疎ましく思ったことなど一度もなければ、献身的に看病する良い兄を演じたかったわけでもない。悲劇の主人公を気取りたかったわけでもない。息を吸えば吐き出すように、当然のことだったのだ。

 弟が高校一年生、俺が大学一年生の時だった。五月。穏やかな季節だった。けたたましい携帯の着信音に、俺は講義を放り出して病院へ走った。搬送先の病院の無機質な寝台の上で、弟の真っ白だったはずのシャツは血に染まり、日焼けを知らない肌は命を感じさせないほどの青白さで、俺はただ、弟がこのまま死ぬのだと、その最期を鮮明に突き付けられて立ち尽くすばかりだった。

「涼弥」

 俺が枕元に立って名前を呼べば、弟は手探りで俺を求めた。俺は弟の冷えた手を握りしめて、俺はいよいよ、弟の命がこの手から滑り落ちてしまうのだと、鼻の奥がツンと痛んだ。

「……にいちゃん、ごめんなさい」

 消え入りそうなその声に、俺は、心臓を抉られるような衝撃を覚えた。

 可哀想だと思ったことは一度もない、と言えばそれは、嘘になるだろう。俺だって少なからず弟のことを不憫に思うことはある。だがそれは、同級生たちと同じことが出来ないということを憐れんでいるわけではない。走れないことは可哀想なことじゃない、修学旅行に参加出来ないことも、泳げないことも、みんなが当たり前のように出来ていることが弟に出来ないということは、可哀想なんかじゃない。

 弟が、弟の望む通りに生きられないこと、そのことに俺はやりきれなさを感じていた。夢を抱く前に諦めてしまうことが何よりも苦しかった。

 親戚や近所の人たちは、俺のことを良く出来た兄だと、立派だと、そんな言葉ばかりを投げかけてきた。けれども俺は、自分のことをそういうふうに思うことは出来なかった。

 俺は弟のことを救ってやれない。

 身体を蝕み続ける病魔の正体を明かすことも出来ない。

 願いを叶えてやれない。

 このまま一生、癒えることがないのなら全てとは言わない、せめてその半分で構わない、俺に、その苦しみを分け与えてほしい。

 それくらいしか出来ない。

 そんなことさえも、叶わない。

 謝るべきはずっと、俺の方だったはずなのに。


 弟の体調が悪化する中で祖父の家へ移ることを勧めたのは、これが最後のチャンスだと思ったからだ。この機会を逃せば弟はもう二度と祖父の家を訪れることはないだろう、そう感じていた。祖父は孫たちの中でも弟のことをとりわけ可愛がってくれた人だった。弟もまた祖父に良く懐いていた。祖父の家で過ごす日々に安心感を抱いていたことは傍で見ていれば明らかなことだった。俺も、祖父のことは好きだった。温かい人だった。

 縁起が悪いと叱られることは承知だ。だが、弟の症状が快復することはないと俺は思う。そんなにも好都合な未来なんて有り得ない。弟が死ぬ日は、そう遠くはない。どう足掻いたところで変えられない。若くしてこの世を去るだろう。

 薄情な兄だ。分かっている。きっと誰もが永遠を望む。それでも俺は弟の未来を信じられなかった。

 願えるものなら願っている。祈って叶うのならばいくらでも祈る。けれども弟の症状は俺に少しの希望も与えてはくれない。

 いっそ、手折る勇気が俺にあれば、今すぐにでも楽にしてやれる。そうして俺も後を追う。だが、出来なかった。なんて惨めで情けない兄だろうか。

 弟を田舎に送り出してから一週間が過ぎた。家に帰っても弟が居ない生活に、ようやく違和感が薄れ始めたが、次第に大きくなる孤独を感じるようになった。

 自分ではそんなことなどないと思い込んでいたものの、実際のところ俺自身は弟に強く依存していたのだろう。当たり前の存在が居なくなって、欠けた隙間を埋める手立ても持たず、漠然とした日々を過ごしていた。

 だが、無意味な時間を過ごしている暇などない。弟の代わりに行わなければならない手続きはまだ残っていたし、やるべきことは幾らでもあった。その忙しさで核心から目を背けようとしていたのかもしれない。

 摩耶さんから連絡があったのは、そんなときだった。

 弟の担当編集をしている摩耶さんは、おそらくは俺が今まで出会った中で一番、強い女性だ。芯の強かさが、聡明な眼差しが、この人になら弟を任せても大丈夫だろうと俺を安心させる。現に、摩耶さんと出会ってから弟の世界は一変した。

 摩耶さんは弟の世界を広げてくれた人だ。

 指定されたカフェに行くと、摩耶さんは窓際の席に座っていた。夏の太陽は夕暮れになってもまだ強い光を保ったままで、俺は流れる汗をタオルで拭いながら歩いた。

「摩耶さん。申し訳ない、遅くなりました」

「お兄様、ご無沙汰ですね」

 摩耶さんはからからと笑った。手の中のアイスカフェオレもからからと氷を揺らした。

「さあ、何でも注文して、どうせ経費なのだから」

 そう言って摩耶さんは俺にメニューを渡した。俺はストレートのアイスティーを注文した。摩耶さんは追加でチーズケーキを頼んでいた。

「先生に会ってきたよ。相変わらずだったが、それなりに元気そうだった。友達が出来たらしくてね、とても頼り甲斐のある青年だ」

「ああ、篤志のことは俺も聞いています」

「お兄様も会いに行くと聞いてね、先生は喜んでいたよ」

「すみません、弟離れの出来ない兄で」

「離れる必要なんてない、兄弟は他人よりも濃い絆で繋がっているのだから。羨ましいよ」

 俺は水を飲んだ。ほのかにレモンの味がした。

「私は先生の一番のファンだと自負しているし、敬愛している。先生の作品を世に送り出せたことは、摩耶有美子の生涯で一番の功績だ、末永く語り継がれることだろう。だから、先生のためならば、あらゆることをどうにかして手助けになりたいと思っている」

 普段から饒舌な摩耶さんは、いつにも増して熱弁を振るっていた。

「お兄様」

 摩耶さんが少し低い声で俺を呼んだ。

「ハコというものを知っているだろうか?」

 俺は首をかしげた。

 アイスティーとチーズケーキが運ばれてきた頃、俺の心臓はまるで凍り付いたように熱を失っていた。

「そんなもの、そんな……」

 言葉を紡ぐことも出来ずに俺は頭を抱えた。聞いたこともなければ見たこともない。そんなものがあると知っていたら、弟をひとり田舎には行かせなかった。

「お兄様が絶句するのも分かる。たちの悪い冗談だと私も疑ったが、それでもなお、その存在を認めてしまえば全てが繋がってしまう。説明が出来てしまう。この時代にオカルトが猛威を振るっているとは到底、信じがたいけれど、語り継がれる伝承というものには総じて理由がある、根拠がある」

「……俺は、なんてことを」

 酷い。酷い耳鳴りがした。

「会社の休みを……いや無理を言って取った休みだ、これ以上我儘は言えない」

「お兄様、あまり思い詰めるものじゃないよ。まだ結末が決まったわけじゃないし、物語は連載の途中だ」

 摩耶さんはそう言いながら鞄を漁り、テーブルの上に分厚い封筒をドサッと置いた。俺は摩耶さんを見た。

「出来る範囲で資料は集めてきた。時間はまだある。焦れば焦るほど、大切なものを見落としてしまうからね。着実に、堅実に、確実に」

 諭すように摩耶さんは言った。俺は頷いた。アイスティーの氷は溶けて、外の街並みには夜が迫っていた。


 すっかり日の暮れた夜道を俺はひとりで帰った。行き交う人たちは誰もが幸福そうに見えた。

 呪いなんて、笑えない。そんなホラー映画、今時流行りもしない。そんなものが長年の間、弟を苦しめていたかと思えば無性に腹が立った。無知な自分を殴り飛ばしたい。

 見えない、姿もない、形もない。憎しみや恨みの、その気持ちだけ。それが弟の命を蝕んでいるのなら、愛情が弟を救ってくれたって、理にかなっているじゃないか。どうして、なぜ。愛しく思う気持ちが、大事にしたいと願う心が、そんなものに負けるわけなどない。そんなこと有り得ない。

 電車の窓にもたれて、ぼろぼろと情けなく泣いた。声を殺すことは出来ても、溢れる涙を止めることが出来なかった。

「どうしたの、お兄さん」

 ひとりの女子高生が俺に声を掛けた。その子の友人たちは遠巻きに俺を見ていた。不審者ならば駅員に突き出そうとするような威嚇の眼差しだった。

「悲しいの?」

 その子は俺にティッシュをくれた。花柄の入った可愛らしいティッシュだった。親切な子だった。けれどもその優しさでは弟を救えないのだと、俺は一層悲しくなったが、大人が女子高生に迷惑を掛けてはいけないと、無理に笑顔を繕ってみせた。

「弟が、もうすぐ死ぬんだ。ごめんね、いい年した大人が、みっともなく泣いて」

「病気なの?」

「そうだね、治すことの出来ない病気だ」

「仲が良いのね」

「うん、今でも。共働きの両親に代わって、俺がずっと」

「すごいね、がんばってきたんだね」

 その子は真っ直ぐな瞳で俺を見詰めて言った。

「いや、がんばってきたのは弟のほうだ。俺は、救ってもやれないし、代わってやることも出来ない」

「その気持ちは弟君だってきっと同じなんじゃないかな」

「……どうだろうね」

 俺は女子高生に礼を言って電車を降りた。駅から家へ続く道をとぼとぼと歩く。家々の灯りが恨めしい。

 どうして。

 どうして弟じゃなければならないんだ。

 ハコが誰だって良いのなら、そもそも人間でなくとも良いのなら、弟じゃなくたって構わないはずだ。勝手に選んで、理不尽に苦難を与えて、神事で救って、そこに何の有り難みがあるんだ。仕組まれているだけじゃないか。そんなことくらいで今まで耐え抜いてきた苦しみが無かったことにはならない。

 どうして弟じゃなければならなかったんだ。

 俺はふと足を止めた。

 目には目を歯には歯を、と言うのならば、それならば呪いには。

 俺は抱えていた資料を握る手に力を込めた。スッと血の気が引いていくのを感じた。同時に、どうしようも止められない衝動が湧き上がった。

 もうすぐ、俺は弟を訪ねてあの町へ行く。

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