七月二十九日 月曜日
僕の思いとは裏腹に、座敷童は変わらずそこに居た。
少年だと思う時もあれば、少女だと感じる時もあった。座敷童はぼんやりとした輪郭で僕の様子を窺っていた。広すぎる家でひとり過ごす淋しさが紛れるような気もしたけれど、余計に淋しさが増してゆくような気分にもなった。
夏の暑さは衰えることを知らず、強い日差しは山々の濃い緑色を照らしていた。熱を帯びた風が家の中を通り抜ける。僕は涼しい場所を求めて、太陽の動きに合わせて家の中をうろうろと移動した。
マヤさんから仕事のことでメッセージが届いていた。両親や篤志からも連絡が来ていた。僕は床に寝そべって律儀に返信した。
『盆前に休みが取れた。本祭は行けないが、宵祭には行ける』
兄が来るらしい。僕はカレンダーを見た。
八月八日。
その日が無性に待ち遠しかった。
僕は座敷童に話し掛けてみた。
祖父の話、原稿の話、家事の話、どうでもいいことばかり。座敷童は何も言わなかった。周りからすれば、おかしな光景だろう。誰も居ないところへ向かって、ひとりで喋りつづける若い男。危ない薬でもやっているのではないかと疑われても仕方がない。
けれども、訪ねてくる人などおらず、近所の人たちだって家の中の様子までは分からない。僕は自由だったし、僕はひとりだった。
「君に名前を付けようか」
僕は背後に佇む座敷童に尋ねた。
「やめておこう、きっと、離れがたくなるだろうから」
座敷童は何も言わずそこに居た。
体調は、悪くはなかった。いつもと変わらず怠いのだけれど、熱は高くないし、咳も出ない。随分と穏やかだった。気分が良かった。こんな日には自転車で出掛けたい。けれども前科がある。また里見酒店の軽トラックで運ばれるのは嫌だった。
庭の片隅で無造作に広がっているノウゼンカズラの橙色が、晴れ渡った青空によく映える。夏が濃い。
僕は人知れず愉快な気持ちに浸っていた。
目に映るすべてが、夏だ。耳に届く蝉の声も、ひんやりとした床の温度も、切り分けた西瓜の匂い、真白な素麺。すべてが、夏だった。
そしてこの夏が、最後になるかもしれないと、心のどこかで感じていた。
終わりに対する不安はいつもある。来年の今頃はもうここに居られないのだろうという、漠然とした諦めが付きまとう。何も変わらずにまた同じ季節が巡ってくることなどない。明日になればこの病がついに僕のすべてを滅ぼすかもしれない。
これが最後かもしれないと、いつだって、心の奥に囁き声が響いている。だからといって、一日いちにちを大事にしよう、毎日を大切に生きようとは思えなかった。
終わりを意識すれば、何もかも、色褪せて見えた。不思議だった。終わりが見えたら色鮮やかになるのだとばかり思っていた。けれども、実際には、すべてのものが錆びて、凍て付き、くすんだ世界が待っていた。
ただ息をするだけでも精一杯のこの身体は、彩られた世界では生きられない。冷えた世界に沈み込んでしまう。
だから今、こうして夏を感じていることが、僕にとっては新鮮で、妙に嬉しいことだった。
僕が鼻歌混じりに筆を進めていても、座敷童は干渉してこなかった。そこに居るだけだ。
まるで影だ。
その日はとても穏やかだった。身体を蝕むものは何もないのだと思えるほどに、酷く穏やかな日だった。何でも出来るような気がした。僕は、庭の木陰でお昼ご飯を食べることも出来たし、家の中に残る祖父母の面影を探すことも出来た。麦わら帽子を被って近所を散歩することも出来た。
こんな日は久しぶりだった。
僕はひとりで笑って、ひとりで泣いた。
もう二度と、こんな日は訪れないだろう。普通の暮らしというものが、僕からは果てしなく遠いものだということを思い知らされる。
どれほど憧れて、恋焦がれたところで届くことなどない。そのことに気が付いてしまったからもう、色鮮やかには見えなくなったのだ。手に掴めると信じていれば輝きを放っていたことだろう。でも、僕は知っている。そんなもの、僕には用意されていないのだということを。
僕の最期は、吐き出す血もなくなって、指先を僅かに動かすことすら叶わずに、苦しみながら死んでゆくのだろう。白岡夕凪も、いなくなる。幻想は幻想のまま、想像は現実にはならない。在り得たかもしれない未来に少しだけ思いを馳せて、それで、終わる。
今日という穏やかな一日を噛み締めているようなつもりで、本当のところは、止めを刺されている。まるで最期に見るという、走馬灯のようだった。
夜の訪れより先に、僕の体力の限界が来た。さすがに浮かれ過ぎたと反省しながら、僕は早めにシャワーを浴びて、布団に寝転んだ。
太陽が沈んだばかりの東の空は、まだ少し明るい。虫たちは声を潜めて、風が昼間の熱の名残を運んできた。
座敷童は暗がりに佇んでいた。物音ひとつ立てないのに、そこに居るのだと分かる。不思議な気配があった。座敷童と、もっと仲良くなりたいという思いはあったけれど、そうして良いものかどうか分からない。僕が勝手に座敷童と呼んでいるだけで本当のところは危険な妖怪かもしれないのだ。
僕のことを見守っているとは限らない。見定めているのかもしれない。機会を窺っているのかもしれない。あるいは、そこに居るだけなのかもしれない。僕は、座敷童とは仲良くなれないのだろう。
それでも良いと思えるのは、ひとりではないという安心感なのだろうか。けれども、と僕は思う。ひとりで過ごすよりも、もっと孤独だと。自由だからこそ、淋しいのだろう。
僕は目を閉じた。古びた扇風機がガコガコと首を震わせていた。僕の意識はゆっくりと夜の闇の中にほどけていった。
僕は飛び起きた。寝汗が酷い。夢を見た。悪い夢、とても怖い夢だったように思う。僕は暗闇の中で呼吸を整えた。握った手にも汗が滲んでいる。僕は無意識のうちに座敷童の気配を探していた。けれども座敷童はどこにもいなかった。
乾いた喉を潤そうと、僕は台所へ向かった。月明かりもない廊下は真っ暗で、僕は灯りを点けた。眩しさ目を細めながら、僕は水を飲んだ。
心臓が怯えたような鼓動を鳴らす。耳の奥がざわつく。気持ちが落ち着かない。夢の内容など憶えてはいないのに、それでもなお、怖いという感覚だけは鮮明に残っている。形のない恐怖が、僕の心を掴んで離さない。怖い、と口にすれば、恐怖が輪郭を持つような気がした。僕は何もない暗闇を見据えて深呼吸を繰り返した。
しばらくの間、そうして台所に突っ立っていた。裸足の足先が冷えていた。引いた汗で寒気を感じてようやく、僕は布団に戻った。座敷童はやはりどこにもいない。僕は布団を握りしめた。
怖い。
恐れるべきものが何なのかさえ分からないことが、底知れず恐ろしい。
僕は布団の中で震えながら恐怖が過ぎ去るのを待った。手が震えていた。気配もなく近付く何かが、僕を絞め殺そうとしているように思えた。
もうすぐ八月だというのに、僕の身体は酷く冷え切っていた。
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