八月一日 木曜日

 僕の意識はずっと微睡みの中にあった。沼の底から這い上がることが出来ず、覚醒しようとしても目覚められない。もがいても、足掻いても、そこに光があることは分かっているのに、どうしても手が届かない。現実と夢の狭間で、途切れ途切れの感覚を繋ぎ合わせ、どちらへも行けずに漂っていた。これが幽体離脱というものだろうか、けれど、何も見えない。世界は真っ暗なまま、鈍い感覚と遠い音だけがすべてだった。

 僕は篤志に抱きかかえられて車に乗せられた。しっかりしろと、何度も声を掛けられた。そのまま弐羽先生のもとへ担ぎ込まれた。ガタガタという山道の振動、通り過ぎる蝉の声。夏の音。

「弐羽先生、急患です」

 無機質に響く柏木さんの声。

「リョウちゃん、今朝迎えに行ったら倒れていて」

 取り乱した篤志の声。

「ひとまず診察室へ」

 妙に落ち着いた弐羽先生の声。

 鼓膜の奥にいつまでも、サウンドオブミュージックが流れていた。

 僕の意識はそこで一度途切れる、


 色とりどりの淡い光がモヤモヤと世界に揺れていた。霞の中の万華鏡のような光だった。

「そろそろ目覚めてはいかがです」

 柏木さんの声で光が弾ける。僕は目を開けた。消毒液の匂いがした。

「ごきげんよう」

 ぼんやりとした視界に、ぼんやりとした光が射し込んでいる。僕は顔を横に向けた。ステンドグラスから射し込む光が壁を虹色に染めていた。

 柏木さんは少し離れたところから僕のことを見ていたようだが、僕が目覚めたので戸棚から薬品を取り出して僕の元へ歩み寄った。

「随分と苦しそうですね」

 腕に伸びた点滴の雫が規則正しく落ちる。柏木さんの青白い手がそれを止める。

「この薬品を一滴。それで苦しみから解放されますよ」

 柏木さんの冷たい瞳が僕を見下ろした。僕は、柏木さんの持つ薬品を見詰めながら尋ねた。

「二滴なら?」

「さて、どうでしょう。どちらへも行けないのでは?」

 ただのビタミンですよ、と柏木さんは肩をすくめ、僕の腕から点滴を外した。

「おふたりなら買い物です、ご心配なく」

 柏木さんは手際よく僕の血圧や体温を測った。

「相も変わらず、生きているのが不思議という数値で、羨ましいばかり」

 その言葉に僕はぼんやりとしたまま柏木さんを見た。柏木さんはやはり無機質で、人形のようだった。喜怒哀楽は言葉でしか判断できない。けれど、その言葉さえも何が本心なのか分からない。不思議な人だった。けれど不気味というよりも、ステンドグラスの光に照らされて、むしろ神秘的に思えた。

「現代の医学や科学で解明できない謎をその身体に秘めているということ、少しばかり気分が高揚したって良いではありませんか」

 そう言う柏木さんは、果たして本当に気分が高揚しているのだろうか。僕には普段との違いが分からない。

「厄災を封じる器だとしても、ハコとはすなわち、選ばれた者です。不運を嘆くことはいつでも出来ますが、どうせなら状況を楽しんだ方が良いかもしれませんよ。そのほうが呪いを打ち返す力になるでしょう。なにはともあれ、特別なのですから」

 真っ当なことを言っているようにも聞こえたし、おかしなことを言っているようにも思えたし、それこそ僕が置かれた状況を楽しんでいるだけのようにも聞こえた。僕は困り果ててステンドグラスの光を目で追った。色彩は豊かで、静かに広がる虹色が、とても綺麗だった。

 ところで、と柏木さんが話題を変えた。

「涼弥さん、あなたは弐羽先生のことを信用していませんね」

 射貫くような鋭い瞳が僕を貫いた。僕の視線は最適な答えを求めて泳いだ。しかしそんな僕のことを柏木さんの眼差しは逃がさないだろう。

「責めているわけではありません、むしろ、良い判断です」

 思いがけない言葉に僕は柏木さんを見た。柏木さんの視線はすでに僕から外され、ガチャガチャと片付けを始めていた。

「ホラー作品において医者ほど怪しい者はない、これはひとつの真実です。多かれ少なかれ恐怖の原因を生み出しています。あと銃火器の扱いに長けた者は頼りにしなさい、それもまた真実。いずれにしましても、弐羽先生のことを信じることが得策とは思いません。あくまでわたしの個人的な意見ですが、どうぞご参考までに」

「それは……」

「不可思議な信仰のある町で一番古い医者の家が、その信仰を保つ基礎を担っていないわけがありません。そうでしょう?」

「そう、ですか……?」

 僕は曖昧に首を傾げた。だが、柏木さんの言葉を否定するだけの信用が僕にはなかった。

「わたし、この町の出身ではないので信仰や神事にはこれっぽっちも興味はありませんが」

 柏木さんはそう前置きして続ける。

「よくこの町に戻ってきたねと言ったあの言葉が、涼弥さん自身にとって幸福な意味を持つとは到底思えません。ですが、あれは先生の本心でしょう。先生はこの町の人間です。ハコが祭のある夏に正しく戻ってきた。信者にとってこれほど心震える夏は無いでしょう。あなたの帰郷は、この町のひとたちにとってあなたが思っている以上にずっと価値のあることなのです。今更、その身体で逃げることも出来ないでしょう。あなただってもう、いえ、生まれたときからずっと、この町の、信仰の一部なのですから」

 重い、言葉が、現実が、ずっしりと重く僕にのしかかってきた。息が苦しい。僕は、うまく息が出来ないままにただ虹色の光を見た。光が徐々に滲む。

 言葉にならない心がどうしようもなく、僕は両手で顔を覆った。

 しばらくすると弐羽先生と篤志が帰ってきた。僕が目覚めているのを見た篤志は、僕に縋り付いた。僕はあと何度、篤志を不安にさせれば良いのだろう。ごめんを繰り返しながら、僕はこの先に待ち受けている永遠に僅かな思いを馳せた。

 弐羽先生の診察は、優しく、けれどネチネチと、丁寧で、僕は逃げ出したい気持ちを必死に堪えた。まるでやっとの思いで手に入れた壊れやすい宝物に触れるような手付きだと思った。抵抗する気力も無く、そんな体力も無く、問診も半分ほどしか答えられずに僕は診察台の上でぐったりと動けなかった。ステンドグラスの光はきらきらと揺らめいていた。それはまるで水中から見上げた空のようだったし、淡い夢のようにも、あるいは遠い思い出のようにも思えた。

 悲しい色に見えた。


 安静にすることだけが、今の僕に出来る最善のことだった。

 僕は篤志の車に乗せられて、家へと帰った。すでに太陽は西に傾いて、篤志の一日を無駄にしてしまったことが申し訳なかった。眠って構わないと篤志は言ってくれたけれど、僕は眠れなかった。

 空腹は感じていない。ただどうしようもない気怠さが全身を鉛のように重く変えている。熱、吐き気、辛うじて生きているという状態。息を吸って吐き出すだけで、身体の奥が滲むように痛んだ。

 篤志の車はいつもと同じように古い映画音楽だった。マイフェアレディの曲が流れる中、薄暗い道を走る。家路を急ぐ子供たちが釣り竿を片手に駆けていく。家々の灯りがチラつく。

「篤志」

 車は本郷を抜けて下郷まで来た。僕は篤志の名を呼んだ。

「ん?」

「神社の麓に、子供が見える?」

 僕の視線は神社の麓にある大きな石鳥居に縫い付けられていた。

「……どこ?」

 篤志がいぶかしげに車のスピードを落とす。

「石鳥居の下」

「……誰も居ない」

 怖いこと言うなよと篤志は言うが、僕の目にはその姿が鮮明に見える。

 座敷童がそこに居た。

「止まって、篤志」

 僕が頼むと篤志は車を鳥居の手前、参拝者用に設けられた駐車場に車を入れた。砂利で車がガタガタと揺れた。

 ヘッドライトが石鳥居を照らす。紫色と金色が混じり合った黄昏が辺りを静かに包んでいた。

「リョウちゃん……」

 篤志の小さな声に僕は篤志を見て、それから石鳥居を見た。篤志にはあれが見えないのか。僕は無言のままシートベルトを外して、車から降りた。

「リョウちゃん!」

 そういえば篤志に運ばれて車に乗せられていた僕は裸足だった。けれど構わずに石鳥居へと歩く。足の裏はチクチクと痛かったが、気にしていられなかった。僕は迷わず歩いた。僕が近付くと座敷童は踵を返して参道を駆けていった。

 灯りがひとつ消えた。篤志の車のライトだ。エンジンを切った篤志が僕を追いかけてきた。

「戻ろう、リョウちゃん、帰ろう」

 篤志が僕の腕を引く。けれど僕はその手を振り払った。そんな力がまだ僕に残っていたなんて。僕に払いのけられた篤志は、その場に立ち尽くしているようだった。

 見えていない篤志からすれば、おかしいのは僕のほうだっただろう。だが、見えている僕からすれば、おかしいのは篤志のほうだ。僕は座敷童を追いかけた。

 森へと続く砂利の参道は曲がりくねっていた。いくつものカーブを通って、ようやく本殿へ続く階段が現れる。その階段も真っ直ぐではなかった。見上げると階段の途中から赤い鳥居が始まっていた。祖父に背負われて通り抜けた記憶は曖昧だが、稲荷神社ではなかったはずだ。ただ、ここに祀られているのがどんな神様なのか、僕は知らなかったが、複数の形式が組み合わさって出来ているような神社だった。奇妙で歪な場所だ。僕は石段に足を乗せた。足の裏がひんやりと冷たかった。

 ざわわっと生温い風が吹いた。一瞬、世界から音が消える。一秒が随分と長い時間のように感じた。

「リョウちゃん!」

 篤志の声が風を裂いた。僕は振り返った。篤志が顔を歪めていた。その瞳には明らかな恐怖があった。

「頼む、帰ろう」

 ほとんど泣きそうな声で篤志は言った。僕は篤志に手を引かれて参道を戻った。神社を振り返れば参道の真ん中に佇む座敷童が嘲笑っていた。

「……あのさ、リョウちゃん」

 ぽつりと篤志が言う。

「お願いだから、自暴自棄にならないでくれよ」

 篤志の体温は僕より低く、繋がれた手が冷たく感じられた。

「リョウちゃんが、もう死にたいって願ったとしても、そのときオレ、どうしたら良いのかなんて分からないからさ」

 何が正解なのか分からないと篤志は言った。正解なんて無いのだと僕は思ったけれど、口には出さなかった。そんな言葉は篤志を傷付けるだけだと思ったからだ。何が正しくて、何が間違っているのか。きっと最期の瞬間まで答えは出ない。あるいはその先にも答えなんて存在しないのかもしれない。

 僕が途中で投げ出すことを篤志は正解とは認めないだろう。

 けれど、僕がこのまま呪いに蝕まれることもまた、正解だとは思っていないはずだ。

 有り得るとすれば正しさは、この呪いが解け、僕に平穏が訪れることだろう。

 そんな結末が本当に存在するのであれば。

 僕たちは車に乗って神社を後にした。篤志は何も言わなかった。


 僕の家に帰る途中、里見酒店に寄った。僕は車で待っていた。日は落ちてすっかり暗くなり、窓を開けると昼間の暑さの名残が風に絡まっていた。夜道を犬と散歩するおじいさん。街灯に集まる虫。蛙の声。篤志は店の中で何か話しているようだったけれど、聞き取ることは出来なかった。

 篤志が戻ってきた。

「泊まる」

 短くそう言って後部座席に荷物を放り込む。僕が呆気にとられていると、おばさんが出てきた。

「あらあら、鉄平さんから聞いていたけれど、まあ、具合が悪そうねぇ。せっかく帰ってきたのに気の毒だわ」

 おばさんはそう言いながら僕の額に手を触れた。その間にも篤志は店と車を行ったり来たりして荷物を積み込んでいく。

「あらら、熱いわね。氷、持っていきなさい。そうよ、おかずも」

 慌ただしく店に戻っていったかと思えば、おばさんは発泡スチロール箱を抱えてすぐに出てきた。

「うちの、こき使って頂戴。いいのいいの、気にしないで。そういう性分なんだから。それに涼弥君が帰ってきてから毎日、楽しそうにしているのよ。あなたの話ばっかり。ほら、こんな田舎じゃ同年代の子なんて居ないでしょう、家業を継がない子たちはみんな町の外に出ちゃって」

 おばさんが話をしている間、篤志は少しムスッとしていた。照れているのか、機嫌が悪いだけか。篤志が車に乗り込んだので僕はおばさんに別れを告げた。

 夜道を照らすヘッドライトを虫が横切る。僕たちはふたりとも喋らなかった。

 家に帰ると真っ暗だった。当たり前だ、朝早くに篤志が迎えにきてくれて、それからずっと出掛けていたのだから。鍵も窓も開けっ放しだった。泊まると言った篤志は荷物をせっせと運び入れた。僕は家中の灯りを点けて回った。あの黒い影たちの気配は無く、痕跡ひとつも残っていない。僕が倒れていた説明が付かないけれど、そのほうが篤志には好都合かもしれなかった。黒い影が揺らめいていたり、黒い水溜まりがあったりすれば、怖がりの篤志にはトラウマになってしまうだろう。

 それから台所へ行き、冷蔵庫から冷えたお茶を取り出してグラスふたつに注いだ。それを両手に持って濡れ縁へ向かう。篤志はそこに居なかった。

「篤志」

 僕が声を掛けると篤志は後ろから現れた。また律儀に玄関を回って入ったのだ。そんなことしなくても良いのにと僕は思うが、篤志にも譲れないルールがあるのだろう。僕はグラスを片方、篤志に差し出した。

「顔色」

 グラスを受け取った篤志が言う。

「少し良くなっている」

 僕は空いた片手を自分の頬に当てた。

「今朝、リョウちゃんを迎えに来たとき、オレ……死んでいるっていうより、殺されているって思った」

 篤志の視線が下に落ちる。

「倒れているリョウちゃんを担ぎ上げようとしたら、首に、手の跡が、小さい、手の」

 篤志の声が震えていた。その瞬間を鮮明に思い出しているようだった。篤志は口を噤んだ。僕は何か言わなければと思って口を開いたが、僕より先に篤志が言葉を続けた。

「リョウちゃんが、神社に行こうとしたとき、連れて行かれるって思った。オレには霊感とか、そんなの無いけれど、ああ、リョウちゃんが連れ去れるって、命が持って行かれるってそう、感じたんだよ」

 僕は篤志をじっと見た。あのときの篤志の瞳は、喪失を恐れていたのだ。篤志はグラスの中身を一気に飲み干すと、項垂れたままその場に座り込んだ。

「リョウちゃん、頼む。お願いだから、呪いなんかに殺されないでくれ」

 その声は普段の篤志からは想像も出来ないほどに弱く、脆く、儚い音だった。僕は、どうしたものかとグラスを持ったまま、庭を見遣った。星明かりが照らす夏の庭の片隅に座敷童の姿があった。今はもうはっきりと認識できる。その眼差しに込められている感情が憎悪であることも分かる。だが、もうひとつ分かったことがある。

「大丈夫だよ、篤志」

 僕は座敷童を見詰めたまま言った。

「篤志の祈りは、呪いの力なんかよりも強いらしい」

 座敷童は苦々しげに唇を噛んだ。あれは、篤志が居ると僕には近寄れないのだ。確かに僕の周りで、僕の命を祝う力が、僕のために戦ってくれていた。少し離れたところから僕をおびき出さなければ、僕を連れ去ることも叶わない。

 僕は苛立つ座敷童に背を向けて、真っ直ぐに篤志を見た。

「篤志、どうか僕を生かしてくれ」

 僕の言葉に篤志は顔を上げて、深く頷いた。

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