22 入浴

 ちゃぷん、と湯が音を立てる。

 蔵人は湯を張った湯船に浸かっていた。


『クロードがウチに来てからこっち、忙しくって【浄化】とシャワーだけだっただろう? 明日は休みでゆっくりできるから、今夜はお風呂に入ろうよ』


 蔵人はほぼ毎日シャワーを借りていたので、浴室に湯船があることには気付いていた。

 できれば湯船に浸かりたいと思ってはいたが、こちらの人たちの入浴習慣がわからないため、言い出せずにいたのだ。

 そこにきてこの提案である。

 蔵人は一も二もなく了承したのだった。


「やっぱお風呂はいいね」


 蔵人にもたれかかり、一緒に湯に浸かるライザの声が浴室内に響く。

 乳白色の湯のせいで胸元から下は見えず、湯温が体温より高いせいで彼女の温もりは感じられないが、浮力によってほどよく軽減された重みや、柔肌の感触が心地よかった。

 どうやらこのあたりの入浴に関する習慣は日本に近いものがあるらしく、入浴剤まで存在した。


「お店も落ち着いてきたからさ、毎日入りたいよね」

「そうだな。風呂はいいな……」


 10日以上も共に過ごしていれば、最初のころのような初々しさは鳴りを潜める。

 しかし寝室とはまったく雰囲気の異なる場所で、肢体を見られるのはやはり恥じらいがあるのか、蔵人が先にいた浴室にあとから入ってきたときのライザは、なんとも可愛らしかった。

 ただ、そのことをからかうと機嫌を損ねそうなので、蔵人はあまり言及しなかったのだが、それはそれで居心地が悪かったのかも知れない。

 ぎこちない動作でシャワーを浴びて軽く汗を流し、蔵人が浸かっている湯船に入るころには吹っ切れたのか、あるいは身体を湯に沈めて落ち着いたのか、いまはゆったりとした様子で、彼に身を預けていた。


「にしても、風呂場も湯船も広いよな」

「まぁ、父さんがお風呂好きでね。随分こだわったみたい。湯船は夫婦で一緒に入れるようかなり奮発したみたいだよ」

「へええ」


 そんなとりとめのない話をしながら、ふたりはしばらくのあいだ入浴を楽しむのだった。


**********


 その夜中に、蔵人はピアノの音で目を覚ました。


「ん……ライザ……?」


 ここしばらくのあいだ、いつも傍らにあるはずの温もりがないことに気づき、身体を起こす。

 そのとき再びピアノ音が聞こえてきた。


(ライザが……?)


 自身の経営するバーにピアノが置いてあるのだから、彼女がピアノに触れることは何らおかしな事ではない。

 幼少期からあったというし、あるいは過去にレッスンを受けた経験などがあるとも考えられる。


(にしてはピアノの知識が薄すぎるか……)


 幼少期に少しピアノ教室に通っていた、という程度ならピアノの構造について知らないということはよくあるが、さすがにダンパーペダルの役割すら知らないということはあり得ないだろう。

 ならば彼女が誰かに師事していたということは考えづらい。


(……というか、なぜこんな夜中に?)


 暗くて壁に掛けられた時計は見えないが、夜のかなり深い時間であることはわかる。

 こんな時間になぜ起き出してピアノを弾いているのか。


(とりあえず、ちょっと様子を見に行くか)


 なにより先ほどから聞こえる拙いピアノの音に、なにか聞き覚えがあるような気がするのだ。


 下着だけを着て階段を下り、ホールへ出る。

 ピアノ周りにだけ軽く照明をつけただけの薄暗い店内に鎮座するピアノの前に、ライザの姿はあった。

 ガウンだけを羽織り、そのガウンも前を開いた状態のまま、ピアノの前にうつむき加減に座るライザの姿は、なんともいえず艶やかだった。

 彼女は右手をだらりと下ろし、左手だけで鍵盤を叩いていた。

 リズムも何もなく鍵盤を叩く姿は、ただでたらめに音を出しているように見えた。


「ライザ……?」


 蔵人が声をかけると、ライザは手を止めて顔を上げた。


「あ、クロード」

「どうした、こんな遅くに?」

「えっと……」


 ライザはいたずらを見られた子供のように、どこか居心地の悪そうな表情を浮かべた。


「なんとなく、目が覚めちゃって……」

「そうか」

「あ、ごめん。勝手にピアノ触っちゃって」

「いや、この店のピアノなんだから、ライザが触るのは問題ないだろ?」

「それも、そうだねぇ」


 蔵人が近づくと、ライザは椅子の上で少し横にずれた。

 横に長いピアノ椅子だが、大人ふたりが並んで座るには心許ない大きさである。

 が、蔵人は気にせずライザの隣に腰を下ろす。

 風呂から出てすぐは入浴剤や石けんのいい香りがしていたのだが、そのあとに汗をかき、【浄化】をする間もなく疲れて眠ったせいか、密着したライザからは甘酸っぱい匂いが漂ってきた。


「ピアノってすごいよね……」


 そう言いながら、ライザは再び拙い手つきで鍵盤を打っていく。

 それはでたらめに音を出しているように聞こえたが、どこか聞き覚えがあるような気もするのだった。


「ウチはさ、結構いろんなところからお客が来るの。まぁこの町は旅人がよく通るからね」

「へぇそうなんだ」

「うん。でね、中には音楽家だってたくさんいるんだ」


 ヴァイオリン、チェロ、トランペット、サキソフォーン、クラリネット、フルート……。

 ライザの口から聞き覚えのある楽器の名前が次々に飛び出し、蔵人は驚きのあまり声を上げそうになった。


「いろんな楽器に触らせてもらったことがあるんだけど、どれも音を出すだけで大変なんだよね」


 蔵人の驚きを知ってか知らずか、ライザは淡々と話し、また鍵盤を叩く。


「でもピアノはさ、こうやって鍵盤を押せば、誰にだって音が出せるんだよね」

「ああ」

「ずっと当たり前だと思ってたけど、これって実は凄いことだったんだなって、このあいだ蔵人に教えてもらって改めてわかったんだ」


 そこで言葉を切り、すっと立ち上がったライザは、ゆらりと歩いてピアノの側面に立った


「それにピアノってさ、不思議な形してるよね……」


 言いながらライザは、愛おしげな視線を向けながら、艶めかしい手つきで側板がわいたの曲線をなぞる。


「このへんの形とかさ、最初に考えた人は有名な芸術家かなにかなのかな」


 そんな事を呟くライザにしばらく見とれていた蔵人は、ふと我に返り口を開いた。


「いや、楽器の形にはすべて意味があるんだよ。ピアノのその曲線にだってな」


 半ば独り言のつもりで呟いた言葉に返事があったのが意外だったのか、ライザは少し目を見開いたが、すぐに興味深げな表情と少し妖しい笑みを浮かべて、ふたたび蔵人の隣に座った。


「どんな意味があるの? 聞かせて……」


 蔵人にしなだれかかり上目遣いに彼を見るライザの瞳には、橙色の照明が映り込み、それがわずかに揺らめいていた。

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