23 ピアノのかたち

「ヴァイオリンとチェロ、どっちが大きい?」


 どうやらこちらの世界にはピアノ以外にも多くの楽器があるらしく、さらにライザがそれらを知っているようなので、例え話に先ほど彼女が口にした楽器を用いることにした。


「そりゃチェロだね」

「なんでだ?」

「なんでってそりゃ……なんで……?」


 楽器の形や大きさについては“そういうもの”という認識が強く、なぜそうなっているのかについて考える機会など、普通の人にはあまりないだろう。


「弦というのはな、長ければ音が低く、短ければ音が高くなるんだ」

「へええ。だから長い弦を張らなくちゃいけないチェロのほうが大きいんだ?」

「そういうこと」


 さらにいえば音の高低には弦の太さも関わってくるのだが、いまはピアノの形の説明途中なのでそれには触れなかった。


「さて」


 今度は蔵人が立ち上がり、ピアノの横に立つ。


「よいせ……っと」


 大屋根を開いて突き上げ棒で固定したが、薄暗くて中があまり見えなかった。


「悪いけど、ちょっと明るくしてくれるか?」

「うん」


 ライザが立ち上がり、その場を離れてまもなく、ピアノの内部が見える程度に明るくなった。

 とはいえさすがに全体の照明をつけたわけではないので、明るいのはピアノが置かれてある当たりだけだが。


「おまたせ」


 そう言って小走りに駆け寄ってくるライザだが、先ほどまで薄暗くてそこまで見えなかった、はためくガウンの内側で揺れるものが蔵人の目に飛び込んでくる。


「――っ!?」


 蔵人の視線に気付いたライザは慌ててガウンの前を閉じた。


「……スケベ」

「いやいや、そんな格好してるライザが悪いんだろ?」

「むぅ……」


 蔵人が言うことももっともなので、ライザは口を尖らせながらも抗議をやめた。

 ガウンの腰紐は用意していなかったらしく、常に手で前端を抑えておく必要があった。


「まぁ、とにかく、中を見てみろよ」


 蔵人の隣に立ったライザは、ガウンがはだけないよう胸郭のあたりで重ねた前端を押さえながら、ピアノの内部をのぞき込んだ。


「あ、ほんとだ。手前にくるほど弦が短いね」


 鍵盤を正面に見た場合、ピアノの音は左から右にかけて――ピアノの右側に立つライザから見て奥から手前にかけて――音が高くなっていく。

 その高さに合わせるように、弦は左から右へと短くなっていき、その弦の長さに合わせるように側板は曲線を描いているのだ。


「なんか奥のほうは斜めに交差してるね?」

「ああすることで、弦の長さを確保してるのさ」


 ピアノの弦は基本的に手前――鍵盤のある側――から奥に向かって、やや斜め左に向けて張られているのだが、低音弦のいくつかは、それらと交差するような形で斜め右に張られている。

 そうすることによって、ピアノの大きさをある程度コンパクトにしたまま、長い弦を張ることができるのだ。


「ちゃんと意味があるんだねぇ」

「ああ。ピアノに限らず楽器は全部そうだ」


 多少の装飾はあるだろうが、その楽器のベースとなる形にはちゃんとした意味がある。


 感心したように何度か頷いたあと、ライザが再びピアノの前に座ったので、蔵人は突き上げ棒を外して大屋根を閉じた。

 彼女は先ほどふたりで並んだときのように椅子の右側に座り、左側を空けていた。


「あたしもね、このピアノがウチに来てしばらくして、自分でも弾いてみたくなったんだ」


 そして彼女はまた、拙い手つきで鍵盤を何度か叩く。


「いろんな人がこいつを弾くのを見たんだけど、子供心に羨ましくなっちゃったのかな」


 でたらめなようで、やはりどこか聞き覚えのある音の羅列。

 ただ、座る位置のせいか、先ほどまでよりは1オクターブ高いところを弾いていた。


「誰かに習えばよかったんだろうけど、なんか恥ずかしかったんだろうね。当時のあたしは、父さんに頼んで簡単な楽譜を買ってもらったんだ。五線譜はなんとなく読めたから」


 右手でガウンを押さえながら、左手でトントンと鍵盤を叩く。


「ちょうど町を出ようとした行商人がいて、たまたま楽譜を扱ってたから、買ってくれたんだけど……」


 そこでライザは手を止めて顔を上げ、蔵人を見て少し照れたような笑みを浮かべた。


「父さんもピアノに詳しいわけじゃなくてさ、片手で弾ける曲だから簡単だろうって買ってくれたのがこの曲のピアノ譜だったんだ」


 そして再び鍵盤を叩き始める。


「最初のほうの音符がいっぱい重なってるところはさ、難しそうだから、真ん中当たりの簡単そうなところ選んで練習したんだけど……やっぱり難しくてね。才能ないと駄目ね、こういうのって」


 その言葉でなにか思い当たることがあったのか、蔵人は少し小走りに移動し、ライザの隣に座った。

 そして彼女が弾いていたのと1オクターブ下の鍵盤を、左手で弾き始める。

 そのメロディーを聴いたライザは顔を上げ、目を見開いて蔵人を見た。


「やっぱりこれだったか」


 手を止めた蔵人は、自分を見るライザを見返し、苦笑を漏らした。

 長くピアノに触っていなさそうな彼女が、いまでもなんとなく覚えているくらいだから、それなりに練習したのだろう。

 だがいくら頑張っても上手く弾けないから、ついに彼女はピアノを弾くことを諦めてしまった、といったところか。


「よりによってラヴェルの『左手』とはなぁ」


 モーリス・ラヴェル作『左手のためのピアノ協奏曲』

 彼女が弾こうとしていたのは、ちょうど曲の真ん中あたりに出てくる、低音が印象的なピアノパートのメロディーだった。

 たしかにこの曲のピアノパートは片手――左手――だけで弾けるが、そもそもこれは戦勝で右手を失った達人ヴィルトゥオーソの依頼で作曲されたものだ。

 初心者が手を出していいものではない。

 

「そっか……。やっぱそういうことだったんだね」

「ああ、そうだ。いくら才能があっても初心者に弾けるもんじゃないぞ?」

「ちがう、そういう意味じゃないんだ……」


 蔵人の言葉に、ライザは軽く頭を振った。


「クロードは、その曲、知ってるんだね?」

「ああ、まぁ、な……」


 少しのあいだライザはじっと蔵人を見つめた。

 彼はちょっとした居心地の悪さを感じていたが、なぜかこのときは何も言えず、無言で視線を返した。

 ほどなくライザは、なにかを悟ったような、穏やかな笑みを浮かべた。


「クロード、あんた渡人わたりどだね」

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