燃ゆる顔

安良巻祐介

 

 火顔の来る夜が近づいていたので、一人暮らしの部屋を出て、通りの向かいの卵ホテルに一晩きりの宿をとった。

 住人の大半は、間近で見るのが乙なものだと言って、アパートに残ったまま当夜を迎えるというが、隣室の捩じり頭巾の親父がそれで焼死してからというもの、俺は絶対に当日をアパートでは過ごさないようにしていた。

 比喩ではなく実際に顔の赤々と燃えているあの不可思議な人物は、なぜおれたちの住んでいる、何の変哲もない安アパートに、月末にだけ律儀に現れるのだろう。どれだけ調べても、それらしい変死事件などが過去にあったわけでもなし、管理人はどこにでもいるような五十過ぎの親父だが、あの怪人の名前を知っているだけで、外の事は何もわからないと言い、どうも嘘をついている風でもない。あれを理由に出ていきたいのなら構わないという事だが、普通にしている限り、特に目立った実害はないのだから、その勧告によって出ていくのは決まってお化けの怖い女学生や信心深い老人だけということであった。

 実際、俺もこうして、アパートの廊下をゆっくりと移動していく火顔の赤い光を、卵ホテルの窮屈な殻窓から眺めつつ、崩れ酒の肴にしているくらいなのだ。

 それくらい、あれは、恐ろしいというより、全く別の印象を与える。

 誰も何も言わないが、恐らく、皆知っている。

 隣室の親父はなぜあのような災禍に逢い、真っ黒い炭の塊となって斃れるようなことになってしまったのか。

 それは、火顔が恐ろしいのではなく、美しかったからこそだと。

 親父は、あれに接吻しようとしたらしい、と、誰からともなく、アパート内に伝わっていた。

 あの光を見ていると、それも分かる気がしてくる。

 だから、俺は、月末になると、アパートを出ることにしたのだ。

 それでも、実のところ、逃れられないことを、俺は知っている。

 眼を閉じる。

 脳裏の暗い廊下にゆらり、燃ゆる人が立っている。

 その顔。

 花紅蓮に、或いは金色に燃え盛る光の中で、朧ろの目鼻口が、ゆるり、と溶けている。

 笑っている。

 それは、笑っている。

 炎の中で崩れ揺れる目や口のかたちが、何故か、異様にはっきりと見えて、そして。…

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燃ゆる顔 安良巻祐介 @aramaki88

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