素数砂漠 その2
「すみませんが、予定変更です」
xさんは通信機をしまった。
「いきなりですが、仕事をしてもらいましょう」
ええー、あたしまだ、道も覚えてないのに!
「そんな不安そうな顔をしなくても大丈夫ですよ。私も一緒ですから」
xさんは胸ポケットから、小さいメモ帳と万年筆を取り出した。
「まずは、現場へ移動しましょう。私の服をつかんでください」
「え? は、はい」
よくわからないまま、あたしはxさんのジャケットの裾をつかんだ。
「このホテルを移動するには、紙とペンがあれば十分です。必要条件ではありませんけどね。これで、先程彼女が言った場所へワープしましょう」
わ、わーぷ?
xさんは綺麗な字で、さらさらと数式を書いた。
グイッと、あたしの体が何かに引っ張られた。
バランスを崩したあたしは、xさんの体に抱きついてしまう。
「わ、わ、ごめんなさい!」
パッと離れる。
「大丈夫ですよ。それに、もう着きました」
え、もう?
でも、前には廊下があるだけで、砂漠なんてどこにもない。
xさんが、あたしの後ろを指差した。
あたしは振り返った。
「うわっ!」
砂漠だ!
廊下が途切れ、そこから先は砂の世界。砂の上にぽつんぽつんと立っているのは、ドアだ。客室の入り口っぽい。
「な、なんでホテルの中に砂漠が……?」
「ここには色々な物がありますからね。宇宙もありますし、青春の夢もあります。砂漠くらい、あっても不思議ではありません」
xさんは冷静だった。
「支配人さん、やっと来たのです!」
あ、さっきの子だ。
砂山を作って遊んでいた女の子たちが、xさんを見つけて走ってきた。
「連絡ありがとうございます、四則さんたち」
xさんは、腰に抱き付いてきた女の子の頭を撫でた。
「あ、さっきのおねーさん!」
わーちゃんがあたしを指差した。
「おや、もう会っていたんですね?」
「えーと、会ってはいたんですが……。え、この子達は、従業員なんですか?」
「そうですよ。nさんの先輩になります」
この幼女さん達が先輩とな。
幼女先輩たちは横一列に並ぶと、あたしにお辞儀した。
「四則演算の
元気な挨拶だ。
「四則演算の
クールな挨拶だ。
「四則演算の
高飛車な挨拶だ。
「四則演算の
おどおどした挨拶だ。
四人の服は幼稚園の制服に見えたけど、言われてみればホテルガールの服だ。
「あたしは自然数nです。今日来たばかりで正も負もわからないのですが、ご指導よろしくお願いします」
あたしは真面目な挨拶をして、頭を下げた。
「任せるのです!」
+先輩が胸を叩く。
「私達のことは、気軽に『たーちゃん』『ひーちゃん』『かーちゃん』『わーちゃん』って呼んでいいわ。私達も、その方が呼ばれ慣れてるから」
×先輩が髪をかきあげながら言った。
「わかりました、かーちゃん先輩!」
あたしが会釈しながら早速呼ぶと、かーちゃん先輩はむずがゆそうに照れた。
「さて、四則さん達。お客様はどこですか?」
xさんが聞く。
「あそこなのです!」
たーちゃん先輩が、遠くのドアを指差した。
遠くてよく見えない……。
けど、どうやら、ドアの前に誰かいるようだ。ドアの前を行ったり来たりしている。
「では、行ってみましょうか」
xさんが歩き出す。あたしと幼女先輩たちも、あとをついていった。
「それで、どうしてここが砂漠なのか、わかっているのですか?」
xさんがたーちゃん先輩に聞く。どうやらこの子が、四人のリーダー的存在らしい。
「もちろんなのです! 部屋番号を見るのです!」
言われた通り、あたしはドアに書かれた数字を見た。
145183092028285869634070784086308284983740379224208358846781574688061991349156420080065207861248000000000000000027
いや、なんだこれ! 何桁あるんだよ!
「ここにあるのは、ぜーんぶ、合成数なのです!」
「合成数」
あたしが繰り返すと、わーちゃん先輩が割って入った。
「はにゃ。ご、合成数とは、自分を含め、三つ以上の数で割れる自然数のことです。反対に、二つの数でしか割れない自然数のことを、素数と呼びます」
うん、うん、それはなんとなく知っている。
あたしは、自然数のことなら少しは詳しいのだ。
でも、これが全部、合成数?
あたしは廊下の途切れ目から、反対の砂漠の果てまで見渡した。
廊下の一番端にある部屋の番号は、
145183092028285869634070784086308284983740379224208358846781574688061991349156420080065207861248000000000000000001
だ。
「あの端にある自然数は、素数なの?」
「はにゃっ。は、はい。割れません!」
砂漠の上に立つ最初のドアの番号は、
145183092028285869634070784086308284983740379224208358846781574688061991349156420080065207861248000000000000000002
で、これはどうやら合成数。
そのあとも、ずーっと、合成数ってこと?
あたしは砂漠の果てを見た。遠くて霞んでるけど、たぶん、百枚以上ドアが並んでいる。
こんなに長い間、ずっと合成数が続いているってことだろうか。
「お客様、いかがなさいましたか?」
あたしはハッとした。
幼女先輩たちと話しているうちに、お客様のところに着いていた。
「素数がないぞ……」
お客様は、うなされるように言った。
「素数がないんだ。ここはずっと、合成数だらけなんだ。まるで砂漠だ」
えーと、まるでも何も、砂漠なんですけど。
「素数がない、素数がないぞ、素数はどこだ……」
「あ、お客様!」
お客様は、ふらふらと砂漠の奥へと歩いていく。あたしが呼びかけても、振り向きもしない。
「無駄ですよ、nさん。お客様に、我々の姿は見えません」
え、なにそれは。
「それどころか、お客様はご自分がこのホテルにいることすら、知らないのです。ご本人は、ご自宅や散歩道や……とにかく、ここではないどこかで、数学をしていると思い込んでいます。本当は、このホテルにいるのに、ね」
なにそれ怖い。
xさんは気軽に言って微笑んでいる。あたしは寒気がするんですが。
「さあ、とにかく、お客様の『問い』を引き出しましょう」
問い? クエスチョン?
xさんはお客様に近付いて、その頭にそっと手を触れた。
すると、お客様の頭から、何かがニュニュニュッと出てきた。
ポンッと音がして飛び出した、雲のようなそれを、xさんがつかむ。
白くて、丸い。ふわふわしているけど、柔らかくはなさそう。不思議な見た目をしている。
「これは、興味深い問いです。実に面白い。読み上げましょう」
こほん、とxさんは咳払いした。
幼女先輩さん達が、急に真面目な顔になった。
あたしも真似して、真面目な顔でxさんの言葉を待った。
「問い。自然数列において、合成数が百個以上連続する領域を、素数砂漠と呼ぼう。
最も長い素数砂漠は、合成数が何個連続するか?」
むむむ? どういう意味?
台詞が急に漢字だらけになって、あたしは思案顔になった。
「つまりですね、私達が今いるような場所を、素数砂漠と呼ぶことにします」
「えーと、合成数の部屋が、百個以上続く場所ですよね」
「そうです。そしてこのホテルの中で、一番長い素数砂漠はどのくらいの長さか、と聞いているのです」
うーん、まぁ、問いの意味は分かった。分かったけど……。
「素数は、桁が大きくなるほど少なくなるのです。だから、桁が大きいところにうんと長い素数砂漠があるはずなのです」
「どうかな。そもそもここ以外に砂漠があるかどうかも疑問だよ」
「ふふん、ひーちゃんは相変わらず知能が欠けてるわね。砂漠は、少なくとも無限個存在するわ」
「引っ掛かる言い方だけど……どうしてだい?」
「だって、ここにひとつあるということは、ここの全部の自然数に2をかけたところにも、3をかけたところにも、同じ長さか、それ以上の長さの砂漠があるはずだもの」
「なるほど。うん、その通りだね。すると、問いに答える手っ取り早い方法は、ここの番号の倍数の廊下を全部調べることかな」
「おバカに磨きがかかってるわね。無限にあるのにどうやって調べるのよ。せめて有限時間で収まる方法を考えなさい」
おおう、幼女先輩たち賢いぞ。見た目に騙されてはいけない。
だけど、あたしにはひとつ、わからないことがある。
「あの! xさん!」
「はい、nさん、なんでしょう?」
「そもそも、どうして考える必要があるんですか?」
「え?」
あ、どうしよう。困らせちゃった。
「こっちにもお馬鹿がいたわ。お客様の発した問いを解く。それが私達の仕事じゃない」
「いや、そうじゃなくて……。だって、この問いって、このホテルのことですよね? xさんなら、このホテルにどのくらいの砂漠があるのか、知ってるんじゃないんですか?」
しん、としてしまった。
「そうですね、そこもまだ、説明していませんでした」
xさんは頭を下げた。
「実はですね、我々従業員の誰ひとりとして、このホテルの全容を把握している者はいないのです」
えっ!
「このヒルベルトホテルは、無限の過去から存在し、無限の広さを持っています。私も当然、全ては把握できていません。……砂漠があることも、今日初めて知りましたからね」
えぇ……。
「ですが、もしかしたらこの砂漠について、何か知っている者はいるかもしれません。ですから、まずはアレをやりましょう」
「アレ?」
「調査の基本、聞き込みです」
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