第七話 “通信端末いらず(アンチカフ)”(3)

 ヴァネットが口にした言葉を耳にして、ファナは身体からだを固まらせる。


「今、なんて……」


 辛うじて開かれたファナの唇からは完全に血の気が引いて、それ以上を口にすることが出来なかった。右手首を掴むヴァネットの手は予想外に力強く、多少振り回した程度では振りほどけない。代わりに手にしていたタンブラーが回廊の床に落ち、かつんという金属音と共に中身が零れ出す。その弾みでヴァネットのブーツにシードルが飛び散ったが、彼女は足元に目もくれない。


「あなたと弟とまとめて“通信端末いらずアンチカフ”だったわよね。最近はそう呼ばれることもないのかな」


 先ほどまでと全く変わらない苦笑めいた笑顔のまま、その口から吐き出される言葉は、ファナを混乱させるばかりであった。


「タラベルソでは単なるイレギュラーだったけど、その能力が本当なら確かめないわけにはいかないわ。《繋がら》ないあなたには不本意だろうけど、付き合ってもら……」

(逃げろ、ファナ!)


 硬直していたファナを目覚めさせたのは、ユタの叫びだった。


 同時にファナの左手が鋭くしなって、手にしていたタンブラーの中身をヴァネットの顔面にぶちまける。


 強炭酸のスカッシュを両眼に浴びたヴァネットが、右手首を掴む力が緩ませた瞬間を、ファナは見逃さなかった。すかさず彼女の手を振りほどくや否や、ファナは脱兎のごとく駆け出した。


(逃げなきゃ!)


 回廊を駆ける彼女の後を、追いかける人々の足音が聞こえる。そして行く手には彼女を阻もうとする人影がひとり、どこからともなく現れた。


 躊躇っている場合ではない。


 ファナはベストの内から万能工具を取り出すと、前に立ちはだかる中年男性に向かって突き出した。触れると同時にばちっという音と、そして小さな火花が飛び散り、男性が力なく崩れ落ちる。


 電気系統のテスター用電流を最大出力で浴びせたのだから、まともに食らえばどんな大人も失神するだろう。


(でもこんな使い方、あと二、三回もバッテリーが保たない)

宇宙船ふねまでなんとかたどりつけないのか?)

(タラベルソのときと違う、シャトルに乗らないと宇宙港まで行けないよ!)


 どこを目指せば良いのかもわからない。後ろを振り返れば、彼女を追いかける人々の群れが数を増して迫ってくる。その先頭にはヴァネットの姿があった。


(どうして……)


 ファナは逃げ惑いながら、自分でも気がつかないうちに涙を流していた。


(ヴァネットまで、どうして!)


 誰に対してぶつけるべきなのかわからない、唐突に訪れた理不尽な状況に対する感情が、彼女の目から次々と涙を溢れさせる。だが激情に身を委ねている場合ではなかった。目の前からも複数の人々が迫ってくる様子が目に入って、ファナはその場で足を止める。背後からはヴァネットたちの足音がもうすぐそこだ。追い詰められたファナは、回廊の手摺りに手を掛けて、ぐいと身体からだを持ち上げた。


(何する気だ、おい!)


 驚愕するユタの声に耳を貸す余裕もなく、ファナは幅二十センチもない手摺りの上にすっくと立ち上がった。


(あそこのエレベーターに飛び移る)


 万能工具の端から伸びる紐を右の手首に巻きつけて、ファナが涙で赤くなった目を向けた先には、地上直通エレベーターの緩やかなスロープがあった。飛び移れない距離ではない。だがエレベーターまでの空間には、はるか下の地上まで何も遮るものもない。


 それでもパニックで判断力が麻痺したファナにとっては、ここでジャンプすることが一番の解決策に思えた。


(工具の先で引っ掛ければ、届くよ)

「やめなさい、“通信端末いらずアンチカフ”!」


 背後から叫ぶヴァネットの声が、かえってファナの決断を後押しした。

 身体からだをぐっと縮めて、次の瞬間には渾身の力を込めて手摺りを蹴る。

 その足を掴もうとして、手摺りから身を乗り出したヴァネットの手が空を切った。

 宙を舞いながら全身を捻り、精一杯に右手を前に伸ばす。最大限に引き延ばされた工具の、鍵状に変形した先端は、派手な音を立ててエレベーターの手摺りベルトに引っ掛かった。勢い余って側壁に身体からだを打ちつけたファナの、右手首に巻き付いた紐が肌に食い込み、間接が外れそうなほどの衝撃が肩にかかる。


 激痛に顔をしかめながら、ファナが空いた左手で手摺りを掴もうとしたそのとき、背後で鈍い音がした。


 地上からだ。

 何かが地上に落下して、衝突した音だ。

 何かって、何が?


 右手一本でぶら下がったまま、振り返ったファナが見下ろした目に飛び込んだのは、地上に横たわる人影であった。


 ひしめく群衆がそこだけぽっかりと輪のように遠巻きにして、中心で俯せになった身体からだの周りには鮮やかな血漿が飛び散っている。一目で絶命していることがわかる人影の頭髪は、遠目にもよくわかる茶色の、ソバージュヘア――


「そんな……」

(ヴァネット……)


 半開きになった唇からは、言葉にならない声しか出ない。ファナは顔面から血の気を失って、地上から目を逸らすことが出来なかった。ユタの思念も茫然としたまま、言葉を失っている。


 だから工具の把手を握り締めていた右手から力が抜けそうになったことに、ユタもファナ自身も気がついていなかった。それとわかったのは、落下しかけたファナの右手首を、大きな手ががっしりと握り締めたときであった。


「大丈夫か」


 そのまま乱暴に引っ張り上げられて、エレベーターのステップへと下ろされたファナは、生気を欠いた表情のまま仰ぎ見る。


「ラセン……」

「こんなところで幅跳びしようとは、無茶をする」


 ファナの身体からだに覆い被さるようにして立つラセンの巨躯は、いつにも増して大きく見える。だが屋根を透かして降り注ぐ明かりを背にして、その顔はどんな表情を浮かべているのか、ファナにはわからなかった。


「ラセン、ヴァネットが、ヴァネットが……」


 ファナはただ地上を指差しながら、うわごとのようにヴァネットの名を繰り返し口にした。


「ああ」


 そう言って手摺り越しに地上を見下ろしたラセンが、ぼそりと一言「気にするな」と口にして、ファナは自分の耳を疑った。


「気が急いてしまった、こちらのミスだ。彼女には申し訳ないことをした」


 この人は、何を言っているのだろう。


 淡々と語るラセンがいったいどういうつもりでそんな台詞を口にしているのか、ファナにはわからなかった。


 いや、本当はわかっていた。

 だがそれは最悪の、今のファナにとっては認めたくもない予感であった。


「しかし“通信端末いらずアンチカフ”のお前まで失わずに済んだのは、不幸中の幸いだった」


 理解を拒み続けていたファナの耳に飛び込んだのは、決定的な一言だった。


 その呼称は、ウールディにしか教えていない。ほかに知る者と言えば、かつて双子が幼少期を過ごした、タラベルソの養護施設の職員ぐらいしかいないはずなのに。なのに――


 最悪の予感が、確信へと変わる。


 その場にへたり込んでしまったファナの顔を、巨体を屈めたラセンが覗き込んだ。今まで慕い続けてきた男の表情は、相変わらず陰になって判然としない。


「これ以上被害を出すわけにはいかない。悪いがしばらく眠っていてくれ」


 その言葉と同時に腹部に何かが突きつけられた。それが万能工具だと気がついた次の瞬間、電撃が全身を駆け抜ける。ファナの身体からだは糸が切れた人形のごとく、そのままエレベーターのステップの上に崩れ落ちた。


 だらりと力を失ったファナの身体からだを、ラセンが軽々と抱え上げる。無表情の彼の視線の先では、未だ興奮冷めやらぬランプレーのホログラム映像が、観衆に向かって演説を振るっている最中であった。


「……この銀河系人類社会を文字通りの意味で繋ぐ銀河ネットワークは、無限の可能性に充ち満ちています。この可能性を皆さんと共に味わうべく、銀河連邦一丸となってネットワークを全銀河系に推し進めていくことを、私はここに誓いましょう!」

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