第三章 濁流
第一話 音信不通(1)
テネヴェはエクセランネ区の中心に堂々と聳え立つ銀河連邦常任委員会ビルの一室で、ルスランは焦燥を隠しきれないでいた。
先刻開催された常任委員会では、タラベルソ=スレヴィア間の銀河ネットワーク開通の成功を受けて、銀河連邦全域でのネットワーク敷設が正式に採択された。それ自体はルスランも織り込み済みの結果だ。エルトランザとの密約を口外しない代償として、ランプレーからは自治領内のネットワーク運用権を総督府に移管する旨、既に確約を得ている。
自治領を除く銀河連邦全域の銀河ネットワークの運用は、現在のところ航宙局が管轄する目算が高い。実際、銀河ネットワーク計画の主導権は推進委員会の手を離れて、敷設工事は航宙局が指揮している。また
だがランプレーは銀河ネットワーク推進委員会をそのまま局に格上げし、自らも常任委員会入りすることを狙っている。裏取引を交わし合った者同士、彼女がルスランに秘密裏に協力を求める可能性は高い。今後の常任委員会の力関係を考えると、対応を熟慮する必要がある。
しかしそれすらも、ルスランにとっては些事に過ぎなかった。
常任委員会ビル内で彼に割り当てられた外縁星系開発局長用のオフィスで、彼が爪を噛むほど焦りを見せる理由は、別のところにあった。
「結局スレヴィアはどうなったんだ。《オーグ》とやらに《繋がった》のか」
苛立ちを浮かべた水色の瞳の正面にいるのは、豊満な
「はっきり言えるのは、
ルスランが着席する執務卓の上に、妖艶な事務局長がしなを作りながら腰掛ける。馴れ馴れしい振る舞いにルスランが無言で睨み返すが、ファウンドルフの表情に意に介する風はなかった。
「にも関わらず、スレヴィアは既に《オーグ》に呑み込まれた――《クロージアン》はそう確信している」
そう告げるファウンドルフの目には、若干の憐憫が込められていた。
「ラセンの件は同情するわ」
「……まだ、何があったと決まったわけじゃない」
ルスランの反論は、常の彼に比べればいささか自信を欠いていた。
トゥーランから届いた連絡船通信によって、ラセンたちがスレヴィアに向かったことをルスランが知ったのは、銀河ネットワーク開通試験の三日前のことである。
開通試験に当たって父ラージが公式な視察だけを信用することなく、ラセンたちに非公式な部分を見て回らせようとした意図はわかる。だがラージもラセンも、サカやタラベルソまで、既に
いずれにせよ、ルスランがスレヴィアに放った呼び掛けに対して、ラセンからの返信は未だない。
「私たちの立場としては、何かあったという前提に立たないわけにはいかないの」
プラチナブロンドの端をルスランの額に触れそうなほど近づけて、ファウンドルフが口にする言葉は冷徹だった。
「連絡が取れないのはラセンだけじゃないでしょう」
「『バスタード号』の全員だ。ヴァネットからもファナからも、返事はない」
「……それが一番の問題ね」
ファウンドルフは少しの間考え込んでいたが、やがて一層身を屈めると、彼女自身の鼻先とルスランの鼻先が触れそうになる距離まで顔を寄せた。
「スレヴィア星系近辺への軍の派遣について常任委員会に諮りたいって、安全保障局から打診があったの」
唐突に異なる話題を切り出されて、ルスランは少々面食らいながら尋ね返した。
「スレヴィアへ? 今このタイミングで、なぜ?」
「エルトランザ軍の動きが活発になっているのよ。ここのところデスタンザの守備隊と思われる一軍が、怪しい動きを見せてる。あなたがランプレーとのパイプを叩き折ったせいで、追い詰められているのかも」
「それについては唆した君たちも共犯だろう」
まるで彼の一存でエルトランザがヒステリーを起こしているかのような物言いは、ルスランには不服だった。
「あなたには先に言っておくけど、《クロージアン》はスレヴィアへの軍派遣を認める方向で働きかけるわ」
ファウンドルフの口調はさりげなく、いつもの若干気怠さを含んだ表情のままだったため、ルスランは一瞬反応に遅れた。
近すぎる彼女の顔から距離を取り、デスクチェアの背凭れに
「随分と直截だな。わざわざ僕に断らなければならない理由でも?」
「あなたの許可を得るわけじゃない、これは通告よ。あなたも知っておく必要がある」
ファウンドルフは腰を下ろしていた執務卓から床に降りると、そう言ってルスランに振り返った。
「スレヴィアへの軍派遣に合わせて、航宙局には銀河ネットワークの敷設計画にも修正を加えるわ。スレヴィアからこっち――イシタナとの接続は最後に後回しにして、まずはテネヴェからスタージアまでのネットワーク開通を優先させる」
「……連邦域内のネットワークが整うまでは、《オーグ》と《繋がる》可能性をぎりぎりまで排除するということか」
額に落ちかかる前髪を掻き上げながら、ファウンドルフは艶然とした笑みを浮かべて頷いた。
「《オーグ》が私たちの足元まで手を伸ばしたきたら、どうやって対抗するべきか。あなたは知ってる?」
その問いかけに対する正答を、ルスランは知っている。だが腕を組んだまま唇に薄い笑みをたたえるファウンドルフに対して、彼は即答しようとはしなかった。
それはラハーンディの一族の中でも直系にしか伝えられていない。ラセンもウールディも知らない、ラージとルスランしか知らない答えだ。
初めて父から伝え聞いたときにはどこか別の次元の、架空の出来事と笑い飛ばしたような話だ。でなければ《オーグ》などというふざけた存在以上の、狂人の妄想以外のなにものでもない。
「今一度確かめさせてくれ。《オーグ》とは、実在するのか? もしかしたら《スタージアン》も《クロージアン》も、そして私たちも、大昔の幻想に振り回されているだけじゃないのか?」
「そういう常識的で冷静なところ、あなたの美点ね」
ファウンドルフの声音に皮肉はない。だが懸命に現実的であろうとするルスランに、彼女の青い瞳から注がれる視線には、どこか憐れみさえまとって見える。
一瞬だけ奥歯を軋らせてから、ルスランは一言一言を噛み締めるように口を開いた。
「……《オーグ》に対抗するにはただひとつ、《オーグ》の計算資源の許容量を超える大量の思念を、可能な限りひとまとめに叩きつけること。何度聞かされても、馬鹿げた方法にしか思えないよ」
憮然としたルスランの顔を見て、ファウンドルフは大袈裟に肩をすくめた。
「私たちだって《スタージアン》がどこまで本気でそんなことを言うのか、未だに判断つきかねてるわ。ただ彼らは銀河ネットワークを有用な手段と考えて、推し進めようとしている。ならば私たちが反対する理由はない」
「スレヴィアとタラベルソを除く、全ての銀河連邦加盟国を銀河ネットワークで結びつけようというわけか。そしていざというときのための武力も配備しておくと」
エルトランザ軍の動向とやらは、軍を出す口実に過ぎない。《クロージアン》の意図を見抜いたルスランは、苦々しげに首を振った。
「《オーグ》の科学力とやらが音に聞くほどなら、どれほどの軍で迎え撃とうとも大した意味はないんじゃないか」
「直接対抗出来るとは考えてないわ。でもスレヴィア=イシタナ間に勝手に
「《スタージアン》と《クロージアン》が手を取り合って、《オーグ》に立ち向かう構図は整ったというわけだ。美しい話だな。せいぜい僕の知らないところで、《オーグ》でもなんでも叩きのめしてくれればいい」
デスクチェアを軋ませながらそう答えるルスランの顔は、唇の端をかすかに歪めて、どこか自嘲めいていた。
《オーグ》を未だに実感出来ない彼にとって、《オーグ》ありきで行動する《スタージアン》も、それを許容する《クロージアン》も、それぞれ理解の埒外にある。そんな突拍子もない枠組の中で、現実的に彼に出来ることといえば限られていた。
「だとすると、君たちにとって残る懸念は自治領だけということだな。父は――総督は今でも、自治領外との銀河ネットワーク接続については慎重だからね」
トゥーラン自治領内に銀河ネットワークが敷設されたとしても、銀河連邦全域と独立したままでは、《スタージアン》が描く青図も完成しない。つまりラージの説得こそが、ルスランに求められていることなのだろう。
だが彼の案に相違して、ファウンドルフの返答はさらに踏み込んだものだった。
「総督相手なら交渉の余地があるわ。でもルスラン、あなた自身がもう、《オーグ》との関わりからは逃れられない」
「どういう意味だ」
ファウンドルフの言葉に、ルスランは訝しげに眉をひそめる。
「僕には精神感応力なんてものはないし、《繋がる》こともない。ただのオルタネイト
「ならラセンたちはどうするの。《オーグ》に呑み込まれてしまったかもしれないのに、このまま放っておくわけ?」
まさかファウンドルフから、ラセンの件を切り出されるとは思っていなかった。答えに窮するルスランに向かって、ファウンドルフはさらに言葉を投げかける。
「誰よりもあの双子の姉が《オーグ》の手中に落ちたのだとしたら、今後への影響が大きすぎる」
「……君たちが恐れているのは、それか」
なぜ彼女がラセンの件を持ち出したのか、ルスランはようやく得心がいった面持ちで問い返す。
「彼らの能力が解析されることを恐れているのか? だがあの力は彼らの間でしか発動しない、言わば閉じた力だ」
「《オーグ》の科学水準は《スタージアン》も及ばない。私たちはシャレイド・ラハーンディからそう聞いているのよ。《オーグ》が双子の能力を思いのままにする、その可能性から目を逸らすことは出来ないわ」
ファウンドルフはルスランの反論を一顧だにしない。
だが理路整然とした言葉と、彼女が見せる顔つきは必ずしもそぐわないかに思えた。プラチナブロンドの髪を揺らしながら、その青い瞳には一瞬悩ましげな表情がよぎったようにも見える。
「《クロージアン》はラセンたちを取り戻すことを考えているし、《スタージアン》にも異論があろうはずがない。だからルスラン、あなたも協力しなさい」
ファウンドルフの言葉に頷きながら、ルスランは胸中に芽生えたかすかな違和感を拭い去ることは出来なかった。
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