第五話 旅立ちのとき(3)【第四部最終話】

 ひんやりとした夜風が頬を撫で、少しずつ体温が奪われ行くのを肌で感じながらも、カーロはバルコニーの端から動き出すことが出来なかった。


 夜闇に包まれたバルコニーの周囲には、窓から漏れる照明以外にはもはや星灯り以外に何も見当たらない。ひととおり語り終えて言葉を区切ったジューンが、両腕を抱えてぶるっと身体からだを震わせる。


「さすがに寒くなってきたわね。中に戻りましょう」


 彼女に促されて、ようやくカーロは目を覚ましたように瞳を動かした。


「ああ、こんなところで長話をさせて済まない。大丈夫かい?」

「まだ大丈夫よ。これ以上いたらさすがに堪えるけど」


 N2B細胞による体調管理によって、ヒトは成人となるまで滅多な病を得ることはない。だが年を経れば肉体そのものの耐久性が減じていく。それはN2B細胞であっても防ぐことの出来ない、生物としての当然の仕組みだ。

 カーロがジューンに覆い被さるように肩に手を回して、再び室内に戻ったふたりは、再び現像機プリンターから柑橘茶を取り出した。湯気の立つ茶色の液体を飲み下せば、じわじわと身体からだの芯から温められていく。


現像機プリンターも恒星間航法も惑星開拓の様々な技術も、どれも《オーグ》が編み出したものよ。あなたが言う《オーグ》の秘術の一部ね」


 カップを両手に抱えながらほうっと一息つくと、ジューンは彼女の傍らの小型現像機プリンターに目を向けながらそう言った。


「その原理はあなたたちも私たちも、とても理解することは出来ないわ。私たちに出来るのはただ、それを利用することだけ」

「……博物院の機械には、もっとほかにも《オーグ》の秘術が記されているんだろう?」


 そう尋ねてはみたものの、カーロにはもうおおよその事情は予想出来ていた。彼の思念に触れたのだろう、ジューンが視線だけで頷きながら口を開く。


「機械には膨大な技術の記録がまだまだ眠っているわ。でもそのどれも、精神感応的な《繋がり》が前提の技術ばかりなの。開拓団には、既に開示したもの以上の技術を取り扱うことは不可能なのよ」

「そういうことか……」


 博物院は最大限の技術供与を済ませていた、というわけだ。十代の大半をジューンの庇護の下で過ごしたカーロは、博物院の地下に謎めいた機械があることも知っていた。それだけに博物院の態度は出し惜しみにすら思えたのだが、実態はむしろ逆だったのだ。


「《繋がれし者》は開拓団に協力的であるということが、よくわかったよ」

「ご理解頂けたようで、嬉しいわ」


 ジューンはそう言って微笑むと、再びカップに口をつけた。カーロもつられるように柑橘茶を啜る。何杯飲んでも飽きることのない、それでいて懐かしい香りが鼻腔をくすぐり、暖かい苦みが味覚を通り過ぎていく。


 博物院の中で彼女と共に暮らすようになってからは、朝食を済ませると必ず柑橘茶の注がれたカップが目の前に差し出された。両親の生前にはない習慣に最初カーロは戸惑ったが、その香りが鼻先をよぎると不思議と心が落ち着いた。ジューンは、柑橘茶の香りには精神安定の作用があるのだと説明してくれた。

 それはあるいは、カーロを落ち着かせるために彼の精神に干渉したジューンの、その場しのぎの方便だったかもしれない。だが彼女が毎朝淹れる柑橘茶を口にすると、その日一日を心穏やかに過ごせるようになった気がしたのも、彼にとっては間違いのない事実であった。


「ジューン、一緒にエルトランザに来ないか」


 気がつくとカーロは、そんな言葉を口に出していた。

 ジューンは軽く目を見開いて、彼の顔を見返している。


 彼の言葉の内容に驚いているのとは違う。むしろ予想していた言葉が、ついに発せられたことに反応したという顔つきだった。それどころか彼女は《繋がれし者》なのだ。予想ではなく、最初からわかっていたに違いない。


「母さんが見せたがっていた新天地を、僕もあなたに見てもらいたいんだ」

「カーロ、私はここを離れることは出来ないのよ」


 ジューンに穏やかな口調で窘められても、カーロの胸の内には、自分でも驚くほど食い下がりたい気持ちが込み上げていた。


「それは《繋がれし者》だからだろう。例えば《繋がり》を解けば? 僕たちと同じ《繋がらぬ者》に戻って、極小質量宙域ヴォイドを超えることは出来ないのか?」


 かけがえのない友人たちの忘れ形見にして、長年母親代わりとなって育ててきた息子同然の存在の、切実な問い。


 その問いに対して、ジューンはゆっくりと首を横に振ることしか出来なかった。


「無理よ。少なくとももう、私にはそんな時間は残されていない」

「時間だって? 準備が必要なら出発を遅らせるさ。それでも足りないというなら、後からでも来ればいい。なんなら僕が迎えに戻るよ」

「カーロ、私が《繋がり》を解くには、あと五十年は必要なの」


 ジューンの口調は穏やかだったが、その言葉が告げる内容は非情だった。

 それだけの年月を経たらジューンどころか、カーロの寿命だって尽きていたとしてもおかしくない。


 落胆して肩を落とすカーロに、ジューンは寂しげな面持ちのまま声を掛けた。


「《原始の民》がスタージアを見つけ出すまでの三百年の長旅で、一度だけ《繋がり》を解いたことがあったわ」


 宇宙船の中で生まれ育った《原始の民》は、当初全員が精神感応的に《繋がって》いた。《オーグ》の分身として産み出された彼らにとっては、それが至極当然であった。


 最初の百年間はそれでも問題はなかった。だがその間に居住可能な惑星を見つけ出すことが出来なかった彼らは、ひとつの決断を下す。


《繋がり》の維持に必要な莫大なエネルギーの消費を抑えるため、一部を残してその大半を《繋がり》から切り離すことにしたのである。《オーグ》にも経験のない初の試みだったが、事前に入念な処置を施せば、対象者の身体的な負担は十分に払拭可能なはずであった。事前処置に必要な期間は五年という目算だったが、念のため十年の年月を掛けた後、《繋がり》からの解放は実施された。


 その結果、対象者の七割以上が解放から一年以内に自殺、もしくは精神不安に基づく衰弱により死亡してしまう。


 彼らに身体的な問題は皆無だった。だがいずれも《繋がり》から切り離されたという現実に耐えきれず、消耗し、やがて精神を病んでしまったのである。

 辛うじて生き残ったのはいずれも、解放時には満十歳に満たなかった子供たちばかりであった。


「それだけの犠牲を払って、ようやくわかったのよ。一度《繋がった》人間から心身共に《繋がり》の影響を拭い去るには、《繋がった》期間と同じだけの時間を事前処置に充てなくてはいけないということが」


 三割以下に減じた同胞を再び元の人口にまで取り戻すのに、さらに百年以上の年月を要した。

 生き延びた子供たちを礎として、N2B細胞の持つ精神感応力を発現しないままに育て上げられた人々こそ、今の《繋がらぬ者》のルーツである。《繋がれし者》の増員には、《繋がらぬ者》たちの中から素養のある人間を充てるという様式も、この間に成立した。


「人口を回復させる間、並行して惑星の探索方法も確立された。やがてスタージアを発見し、惑星環境整備のノウハウも積み上げながら、ついに《原始の民》が降り立ったのが、およそ百年前のことよ」


 そう言ってカップをテーブルの上に戻すと、ジューンは面を上げてカーロの顔を見返した。窓の外に広がる夜空よりも海原よりも黒い、深みを湛えた両の瞳には、静かだが揺るぎのない、彼女の意志が映し出されていた。


「《繋がらぬ者》はそんな事情を知る必要は無い。未開の地を切り拓く期待と不安だけでいっぱいでしょうからね。でもカーロ、彼らを率いる者として、そしてミゼールとスヴィの夢を引き継ぐ者として、あなたには全てを知っておいて欲しかった」


 ジューンが話し終えてからしばらく、ふたりの間には束の間の沈黙が訪れた。


 彼らの目の前に置かれたふたつのカップには、それぞれ飲みかけの柑橘茶が残っていたが、それもとっくの昔に温度を失っている。

 視線をテーブルの上に落としたまま口をつぐんでいたカーロは、何度か目を閉じて小さく頭を振ったが、やがておもむろにカップを手に取った。


「わかったよ、ジューン」


 決意の込められた声でそう答えたカーロは、そのままゆっくりと持ち上げたカップを、少しだけジューンの顔に向けて突き出してみせる。


「だけど僕が引き継ぐのは、父さんと母さんの夢だけじゃない。あなたの想いも一緒だ。博物院長でも《繋がれし者》でもない、大切な家族のひとりであるジューンの想いも、僕は一緒にエルトランザへ連れていく」


 カーロの宣言はどんな言葉よりも、彼女の心に届いたことだろう。ジューンは相好を崩しながら、手向けの言葉を口にした。


「私の想いをあなたに託すわ、カーロ。気をつけて行ってらっしゃい」



 それから一ヶ月後、カーロ・デッソ団長が率いるエルトランザ開拓団の宇宙船十三隻は、宇宙ステーションを出発した。


 未開の惑星を切り拓こうという彼らの栄えある出発を、ジューンは岬の屋敷のバルコニーから見送った。


《繋がれし者》の精神感応力を用いれば、宇宙ステーションの外装カメラが捉えた映像をそのまま受け取ることも容易い。だが彼女は出発の瞬間を肉眼で、このバルコニーから見届けるつもりだった。


 出発時刻は早朝というにはやや早い、間もなく夜明けが訪れようとする頃合いである。手摺りに左手を置いて、右手に持った望遠グラス越しに、ジューンは黒から紫へと移り変わろうとする空の奥、水平線よりわずかに上空に目を凝らしていた。

 宇宙ステーションが明滅させているはずの光は、夜半に比べれば明るいせいか視認出来ない。もしかしたら宇宙船の推進エンジンの明かりも、この時間では見えないかもしれない、などとはジューンは微塵も考えていなかった。


 バルコニーの端で望遠グラスを構えたまま、微動だにせず姿勢を保っていたジューンは、それまで引き結んでいた唇を不意に半開きにしたかと思うと、やがてぽつりと「見えた……」と呟いた。

 海の中から今にも顔を見せようとする暁闇の光にも掻き消されることのない、推進エンジンが放つ輝きと覚しき明かりが、望遠グラスを通したジューンの視線の先に浮かんだ。


 十三隻の宇宙船が宇宙という大海へ漕ぎ出そうとする光の群れは、ジューンの目には固まってひとつの輝きになって映る。


 それは少女の頃に見た無人探査機の出発時の輝きよりも何倍も明るく、力強く思えた。


 明かりを認めることが出来たのはごく短い時間だったが、ジューンにとってはそれで十分だった。かつて友人たちと共にした光景を思い返しながら、その友人の子が旅立つ瞬間を同じように見送ることに、ジューンは深い感慨を抱かずにはいられない。


 そしてそれは、彼女の背後に広がる《繋がれし者》が同様に抱く感慨でもあった。


 彼方より 放たれし人来たれり

 永き果てに見出しき すさび野に 降り立つ

 拓き 産み増やし 栄え いつか舟を漕ぎ出す


 ほぐれし絆を 彼方に紡ぐべく

 数多の舟は 千々の星に散りぬる

 再び紡がれし絆は やがて天を覆う


 出発に先駆けて執り行われた送別の儀で、ジューン自身が開拓団に贈った歌は、《繋がれし者》の想いを余すことなく歌い上げていた。いずれ銀河系中に散らばったカーロたちの子孫が、童謡として口ずさんでくれるだろうか。


 この歌が何代にも渡って受け継がれていく世を、《オーグ》の干渉から守ること。それがこの星に《繋がれし者》の責務である。ジューンの視覚を共有する《繋がれし者》たちは、水平線の彼方を見つめながら、決意を新たにする。


「例え私たちの行動が、全て《オーグ》の掌の上だとしても、ね」


 ジューンはカーロに全てを教えたと言ったが、実際にはひとつだけ伏せた事柄がある。それは希望に満ち溢れた彼らを、いたずらに不安に駆り立てるだけであり、あえて口をつぐんだ単なる推察――だが《繋がれし者》はほぼ間違いないと確信している予測であった。


《原始の民》が自身を保つために《オーグ》に叛くであろうことを、当の《オーグ》が想定していないはずがない。それほど想像を遙かに上回る存在なのである。我々の行動は隅から隅まで、彼らの計画の内に収まっていると考えるべきなのだ。


 だとしても行動を起こさず、ただこの星に止まり続けるという選択はない。いつの日か必ず訪れるだろう、《オーグ》の干渉に大人しく呑み込まれる故はない。《オーグ》の想定の上を行くだけの繁栄を、《繋がらぬ者》たちがもたらすだろうことを信じて、彼らを送り出したのだ。


 そのことにジューンは少しの躊躇いもない。


「カーロ、あなたたちがミゼールやスヴィや私の想いを乗せて、いつかこの銀河系に人類を満たしてくれるだろうと信じて、私たちはこの星から見守っているわ」


 そう口にすると、ジューンは望遠グラスを持つ右手を下ろし、おもむろに踵を返した。


 彼女の背後では、いつしかすっかり顔を出した恒星が夜明けを告げていた。払暁の光は大きく広がる天空を鮮やかな青で染め上げ、その下で穏やかに凪ぐ大海原には、金色の乱反射が舞う。

 暖かさを感じさせる朝日の光を背に受けながら、ジューンはゆっくりと、だが確かな足取りで、屋敷の自室へと引き返していった。


(第四部 了)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る