第二話 星降る夜に見ゆるもの(3)

 ジューンの願いだからといって、スヴィまで宇宙を目指さなければいけない道理はない。だが博物院の北ホールで懇願されて以来、スヴィは周囲にもそれとわかるほど宇宙への興味を示し出し、熱心に勉強に励むようになった。


 スヴィの変化に最も戸惑ったのは、間違いなくミゼールだった。天敵と見做していたはずの相手が、彼のアイデンティティとさえ言える領域にずかずかと踏み込んできたのだ。それだけなら今まで通りに真っ向から反発すれば済んだのだが、彼の調子が狂わされたの理由は別にあった。


「お前は恒星間航法ってやつを、根本的にわかっていない!」


 ミゼールが机を叩きつけて、声を張り上げる。彼の向かいには不服そうな顔のスヴィと、その隣りには澄ました顔で柑橘茶を啜るジューンがいる。


「どうしてさ。宇宙はあんなに広くてすかすかなのに、恒星間航法が使える宙域は限定されてるっておかしくない?」

「お前の目が見える範囲で考えるなよ。すかすかに見えても、ちょっとしたデブリや空間の歪みがあるだけで事故が起きる。周囲に計算外の質量が計測されない、何万キロ範囲の宙域ってのは、まず見つけるのが大変なんだ」


 口を曲げて承服しかねるスヴィに、ミゼールはひとしきり頭を掻き毟ってから、やがてジューンに泣きついた。


「ジューン、お前からも言ってやってくれ」


 ミゼールの懇願に対して、ジューンは視線だけ明後日の方向に向けながらもない。


「恒星間航法のことなら任せておけって自慢してたのは、どこの誰だったっけ」

「こいつに宇宙の話をしたのはお前だろう?」


 そう言ってミゼールはスヴィに、今度は非難がましい視線を向ける。


「だいたいお前も、ジューンにお願いされたからって安易すぎるだろう。しかも俺に教えてくれってのは、どういう了見だ」

「そんなこと言ったって、この手の話に一番詳しいのはあんたなんだろう。あんたに話を聞くのが一番手っ取り早いじゃないか」


 スヴィは口を曲げたまま、だが悪びれもせずそう答えた。


「いいからあんたは知っていることを、教えてくれればいいんだよ。全部吐くまで解放するつもりはないからね」


 それが教えを請う人間の態度か、というミゼールの反論も虚しい。スヴィの興味に一度火がついたら誰も止められないということは、彼もよく知っている。ミゼールとスヴィがいちいち角突き合わせ、ジューンが間を取りなすということはいつしかなくなり、代わりに三人が揃って真剣な顔で机を囲む光景が当たり前になっていく。


 ジューンからの涙ながらの願いは、スヴィにとっては切欠に過ぎなかったのだろう。いざ興味を向けてみれば、宇宙とは彼女の好奇心を刺激する格好の対象であった。もはやジューンとの約束の存在など忘れてしまったかのように、スヴィは宇宙に関する知識を貪欲に吸収していく。そんな彼女の姿勢に、ミゼールがいい加減でいられるはずがない。彼は態度こそぞんざいだったが、その講義内容については彼の知りうる限りの知識を存分に披露してみせた。

 ふたりは時折り意見の食い違いで白熱することはあったが、それは以前のような単なる意地のぶつかり合いではなかった。むしろ自分たちが宇宙に出るため、未知の惑星の調査隊員となるための幼いながらも真剣な議論であり、そういう場にジューンが立ち会った場合は、彼女自身も積極的に議論に加わった。ただしふたりだけで議論の折り合いがつくことは少なかったので、最後に審判を下すのはやはりジューンの役目であった。


 極小質量宙域ヴォイドに向けた無人探査機が、いよいよ静止衛星軌道上の宇宙ステーションから進発することになったのは、ちょうどその頃の話である。


「無人探査機の出発を、なんとか地上から観測出来ないか」


 ミゼールの切実な願いを切欠に三人が調べたところによれば、市街地から離れた南西の岬からなら、夜半に望遠グラスを使えば観測出来る可能性があった。


「望遠グラスなら博物院にあるはずだよ」

「キンクァイナ師にお願いすれば、一晩ぐらい借りれるんじゃない?」


 そうと決まれば話は早い。三人の行動は迅速だった。キンクァイナに相談し、それぞれの保護者を説得して、探査機が出発するその夜に、天体観測という口実の下に岬にキャンプを張る了承を取りつけたのだ。


「今時分は天候も穏やかだから大丈夫だとは思うが、ここら辺は時折り強い海風が吹く。くれぐれも崖の端には近寄らないように」


 目的地まで三人を車で送り届けたキンクァイナは、そのほかにも注意事項を言い含めてから、翌日の昼過ぎに迎えに来ると約束して再び車で去っていく。残された三人は興奮した面持ちのまま、慣れないキャンプの準備を始めた。

 悪戦苦闘しながらテントを張った後は、夕食に取りかかる。三人とも料理に長けているとは言い難かったから、用意したのはポトフとリゾットの簡易食だ。ポータブル現像機プリンターに材料をぶち込み、設計図レシピを登録して再現するだけだったが、非日常的なシチュエーションで友人たちと囲む食事が美味しくないはずがない。

 ちょうど時刻は辺りが夕闇に染まる頃合いで、岬の端で食事を取る彼たちの目の前には、一面に広がる空と海が鮮やかな茜色に染め上げられている。三人は見事な眺望を堪能しながら、ジューンが手ずから淹れた柑橘茶に口をつける。


 だが本番は、彼らの周囲を夜の闇が包み込むように帳を下ろしてからであった。


「見ろ、ジューン、スヴィ。宇宙ステーションはあそこだ!」


 満天の星空の下、望遠グラスのレンズにしきりに目を当てたり外したりしながら、ミゼールが地平線すれすれ南方の夜空を指差してみせる。ジューンも同じようにグラス越しに目を凝らすと、大気に遮られて瞬く星の海の中でひとつだけ、定期的に微かに明滅を繰り返す明かりが視認出来た。


「宇宙ステーションの光って、地表から見えるもんなんだねえ」


 ジューンと並んでグラスを目に当てていたスヴィも、感嘆の声を上げる。


「なんとか観測出来そうで良かったね、ミゼール」


 ジューンに声を掛けられて、ミゼールはそれどころではないといった顔で振り返る。


「落ち着いている場合か! ふたりとも見逃すなよ、もうすぐ探査機が発進するぞ!」


 そう言ってミゼールが再びグラスに目を当てた、その瞬間――


 宇宙ステーションの明滅の脇に、ぽうっと小さく別の明かりが灯った。


 地表からおよそ四万キロメートル上空で出発する探査機の推進エンジンの光が、果たして地上から目にすることが出来るのか。内心では半信半疑だったジューンだが、その微かな、時間にすればほんの一瞬の光の動きは、確かに彼女の瞳にも認めることが出来た。


「見たか! 今、俺たちは探査機の出発を、この目で見届けたぞ!」


 グラスを目に当てたまま興奮の雄叫びを上げるミゼールに、スヴィが何度も確かめるように問いかける。


「なんか光ったけど、もしかして今の?」

「それだよ、それ! ちゃんと目に焼きつけただろうな? 今のが探査機の出発の明かりだ。人類の新天地を探る、希望の光だ!」

「あれで終わり? なんか一瞬でよくわかんなかった。もう見えないかなあ」


 グラス越しに星空を覗き続けるスヴィが、そう言って一歩、二歩と前に足を踏み出す。彼女の横でそれまで余韻に浸っていたジューンは、グラスを下ろしながらミゼールを振り返った。


「でも、多分あれだって光はわかったよ。そうかあ、探査機が出発するところ、本当に見れたんだね」


 てっきり目を輝かせて大きく頷き返すだろうと思われたミゼールは、大事な望遠グラスを投げ出して、必死の形相で、ジューンの視線のちょうど反対側に向かって駆け出していた。予想外の光景を目にして思わず固まるジューンの耳に、ミゼールの「スヴィ!」という絶叫が届く。その声でようやくジューンが反対に目を向けるのと、風に煽られて崖から足を踏み外しかけていたスヴィの身体からだにミゼールが後ろから抱きついたのは、ほぼ同時だった。


 スヴィの腰にがっしりと両腕を回したミゼールが、そのまま両脚を踏ん張って勢いよく尻餅をつく。ミゼールの上に背中からのしかかるような格好となったスヴィは、しばらく何が起きたかわからないという顔をしていたが、やがて上体を起こすと、背後で息を荒くしたままのミゼールに振り返った。


「ミゼール……」

「馬鹿野郎!」


 至近距離からの怒鳴り声に、スヴィがびくりと肩をすくめる。なんとか呼吸を落ち着けながら、ミゼールはさらに怒声を浴びせ掛けた。


「崖の端に近づくなって、キンクァイナ師も言ってただろうが! こんなところから落ちたら、死んじまうぞ!」


 唾を飛ばしながらミゼールが指し示す先には、切り立った崖下に黒い海が打ちつけて、白い波が泡立つ様が小さく見える。眼下の光景を目の当たりにして、再びミゼールに視線を戻したスヴィは、やがて細かく歯の根を震わせ始めた。


「ご、ごめん……」

「望遠グラスを覗いたまま歩くなんて、ここまで馬鹿だとは思ってなかっ……」


 まだまだ言い足りないという勢いだったミゼールの言葉が、不意に途切れる。事態を把握して、今頃になって腰が抜けてしまったスヴィが、座り込んだまま抱きついてきたためだった。スヴィはほとんどしがみつくようにしてミゼールの背中に両手を回し、今や身体からだ全体を小刻みに震わせている。ミゼールは最初呆気にとられて彼女の横顔を見返していたが、やがて宥めるかのようにその背中をぽんぽんと叩いてみせた。


「安心しろ、もう大丈夫だ」


 ミゼールが気遣うように声を掛けると、スヴィが青ざめた顔のまま微かに頷く。


 その様子を、ジューンは一歩離れたまま、ただ眺めていることしか出来なかった。


 ジューンはすぐ横にいるはずのスヴィが、崖から落ちそうになっていることに全く気がつかなかった。いや、もし気がついたとしても、ミゼールのように咄嗟に反応して助け出すことは出来なかっただろう。きっと身体からだをすくませたまま、声も上げられなかったかもしれない。


 スヴィの危機を見逃してしまったことと、その窮地をミゼールが救ったということ。そのふたつの事実を目の前に突きつけられて、ジューンは自分の足元こそがあやふやになっていくような感覚に襲われていた。

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