第四話 暗雲(4)
ともかくもシャレイドが今日まで無事であることをこの目で確かめることが出来て、モートンはひと安心していた。ジェスター院の
モートンが安堵の表情を浮かべるのを見て、シャレイドはベープの煙を吐き出しながら唇の端を皮肉めいた形に曲げる。
「ジェゼルの実家はネヤクヌヴで食品雑貨の小売店を営んで、そこそこ成功していたらしい」
「成功していた?」
表現が過去形であることに気がついて、モートンはシャレイドの言葉を反芻した。
「ネヤクヌヴでいくつも店を出して、地元じゃちょっとした名士扱いだったそうだが、ある日突然全てを失った。彼女の実家を支援していた企業が、融資の延長を突然断ったんだ」
シャレイドはそう言って持ち上げたベープ管の先を、冷ややかな目で見つめる。
「そのまま小売店は丸ごと取り上げられて、彼女の実家は無一文になった。父親は絶望して自殺し、母親も心労で倒れ、彼女が代わりに働きに出たものの元々が世間知らずだからな。散々騙された挙げ句に、今はこんなところで男を取る生活だ。ネヤクヌヴには小さい弟や妹もいるらしいが、もう連絡も取れないらしい」
シャレイドはまるで世間話でもするように、軽い口調で語る。だがその内容の重苦しさに、モートンはどんな顔で反応すれば良いのか戸惑っていた。一ヶ月ぶりに会ったばかりで切り出される話題としては、いささか深刻すぎる話だ。
「そんな身の上だから、ジェゼルも俺のことを匿ってくれたのさ。納得いっただろう?」
ジェゼルという女性がシャレイドの逃亡を手助けしている理由を説明するためだとしても、詳細に過ぎるし何より生々しい。自分自身以外のことには何につけ突き放した態度を取ってきたシャレイドだが、一ヶ月も逃亡生活を過ごして、何か思うところもあったのだろうか。
シャレイドの印象が、どこか院にいた頃とは異なることについて、モートンはそう推測するしかない。
「そこまでお前のことを親身になって助けてくれたなら、俺も後で彼女に礼を言わなくちゃな」
モートンは無難な台詞を選んだつもりだったが、シャレイドは大きく首を振った。
「やめておけ。彼女の親から店を奪ったのはテネヴェの企業だ。万が一お前がテネヴェ人だと知られたら、何をされるかわからない」
シャレイドに非難の意図はないだろう。だがそう言われると、モートンは口をつぐむしかなかった。
「
再びベープ管の吸い口を咥えながら、シャレイドの言葉は止まらない。
「企業だけじゃない、連邦そのものが平気で
立て板に水とばかりに語り続けるシャレイドだが、モートンに口を挟ませない語り口それ自体が、既に彼が平静でないことを示していた。モートンの知るシャレイドは、感情に任せた言動を見せるような男ではない。
「シャレイド」
低い、だがその場を圧するような声で、モートンは無理矢理にシャレイドの言葉を断ち切った。
「何があった」
するとシャレイドはそれまで浮かべていた皮肉めいた笑みをすっと収めて、無表情になった。そのままふたりの間にしばしの沈黙が流れたが、やがてシャレイドの口が無機質に動き、ぼそりと一言口にする。
「兄貴が死んだ」
淡々と告げられた言葉から、モートンは後頭部に強烈な一撃を受けたような衝撃を受けた。驚愕に凝り固まってしまったモートンの顔を前にしても、シャレイドの無表情は変わらない。唇の間からは、淡々とした口調の言葉が紡ぎ出されていく。
「保安庁の取り調べでぼろぼろになって、ほとんど投げ捨てられるような感じで釈放されたらしい。ジェネバが引き取ったときにはもう虫の息で、そのまま意識を取り戻さないで死んじまったそうだ」
そう言ってシャレイドはおもむろに口元を笑みの形に歪めたが、その目は欠片も笑っていなかった。
「なあ、モートン。兄貴は俺なんかと違って真面目で寡黙な、でもただの現像工房の採掘係だよ。それがどうして、そんなぼろ雑巾みたいな死に方をしなきゃいけないんだ?」
モートンは何も言えない。何を口にすれば良いのかわからなかった。シャレイドの張りついたような笑顔の中で、黒い瞳だけが今にも暴れ出さんばかりに小刻みに揺れ動いている。モートンが何を言ったとしても、その瞳の奥に燃えさかる強烈な感情を鎮めることが出来るとは、到底思えない。
シャレイドの目はしばらくの間、射すくめるようにしてモートンの顔に向けられていたが、やがてその面はゆっくりと伏せられていった。
「俺はジャランデールに戻るよ、モートン。なんとかして戻って、兄貴を弔わなきゃいけない」
「……そうか」
モートンの視線もまた、いつの間にか足元へと落ち込んでいた。シャレイドがジャランデールにたどり着くまでには、これまでの逃亡生活どころではない困難が待ち受けているだろう。だが友人の悲壮な覚悟を前にして、彼を翻意させうるような言葉を、モートンは持ち合わせていなかった。
「最後にお前と
誰よりも無念なのはシャレイド自身だろうに、そんな謝罪を口にする彼の顔を、モートンは見返すことが出来なかった。
言いたいことは全て言葉にし尽くしたのか、ついにシャレイドも口を閉じ、やがてベッドの傍らに脱ぎ捨てられていた衣服を拾い上げる。そのまま一枚ずつ袖を通し始めるのを見て、きっと着替え終えたらこの店から出て行くつもりなのだろうということに、モートンは気がついた。
急速に別れが近づいていることを察して、モートンはおもむろに顔を上げる。
「カナリーには? 何か言うことはないのか?」
肩越しに振り返るシャレイドに、モートンは喉の奥から声を振り絞るようにして問いかけた。
「カナリーはお前のことをずっと心配していたよ。あいつに伝えることはないか?」
ハンガーから下ろした黒いコートを羽織りながら、シャレイドは小さく笑った。
「そうだな、元気でいろ、とでも伝えてくれ」
「それだけか? もっと何か、言っておくことがあるだろう」
するとシャレイドは床に投げ出されたモートンのコートを手に取り、そのまま笑顔で手渡した。
「それで十分だ。カナリーの面倒はお前が見てくれ。お前に任せておけば、俺も安心だ」
カナリーの名前を耳にして、シャレイドの顔からは張り詰めていたものが束の間でも抜け落ちたように見えた。コートを受け取りながら、モートンが四角い顎を縦に振る。それを見て、シャレイドが再び笑う。
ふたり揃って黒い防水コートを羽織っている姿は、背格好以外はまるであつらえたかのようにそっくりだった。「この雨の中なら多分、お前がそのコートを着てくるだろうと思って、同じような奴を見繕っておいたんだ」とシャレイドは言う。
「俺の防水コートなんて、良く覚えてたな」
「その怪しげな見た目は、一度見たら忘れないさ」
つまりモートンの振りを装って、この店から出て行く腹づもりなのだ。だがモートンと並んでそっくりであることを強調するシャレイドを見ていると、それだけのためにこのコートを用意したわけではないようにも思える。このコートはふたりの友誼の証しなのだと思い込んでも、きっと間違いではない。
モートンは立てかけてあった
「こっちに裏口がある。ここからなら
シャレイドの言う通り、通路の突き当たりと思われた陰に曲がり角があり、すぐそこに表と同じような蝶番式の扉が見えた。そのまま扉を押し開けると、未だやむことのない雨が降り続く外の景色が目に入った。
「雨の夜道は視界が悪いからな。気をつけて帰れよ」
遊びに来た友人を見送るような、何気ない台詞だった。もしかすると今度こそ今生の別れとなるかもしれないのに、シャレイドの顔からは今やすっかり毒気が抜けて、見慣れた薄い笑みを浮かべている。
「そっちこそ。あんまり無茶するなよ」
モートンはコートに打ちつける雨音を感じながら、
「じゃあな」
「ああ」
お互いに頷きながら短い言葉を交わすと、モートンの乗る
シャレイドはきっと、モートンの姿が見えなくなるまで、扉を開けたまま見送り続けているだろう。かけがえのない友人の視線を背中に感じながら、モートンが駆る
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