第四話 暗雲(3)
端末棒から引き出されたホログラム・スクリーンには、ミッダルトの市街地の地図情報が映し出されている。
日が暮れてから降り出した雨は、ミッダルトの市街地一帯を覆って夜半の今も延々と降り続けている。この雨は明け方まで続くらしいという予報を聞いて、モートンは完全防水のフード付きの真っ黒なコートに長身を包んでいた。足元にはこれも防水の効いた、膝下まで完全に覆い尽くすロングブーツを履いている。雨天外出時であれば常識的な格好だが、シャレイドからもカナリーからも怪しいことこの上ないとよくからかわれたものだ。
夜半の外出はジェスター院の寮住まいには当然禁じられていたが、そんな寮則を気にしない輩もまた多い。シャレイドもそのひとりであり、同室のモートンもしばしば付き合わされたものである。おかげで院の敷地から抜け出すこと自体は苦もなかったが、目的地まではまだ距離がある。通常は市街地まで繰り出すのにオートライドを拾うものだが、モートンはあえて歩いて向かうことにした。オートライドを利用すれば交通システムにはっきりと履歴が残ってしまう。一時間以上を雨の中歩き続けることになるが、余計な足跡は残さないに越したことはなかった。
モートンがこの場所を訪れるのは、実は初めてではない。一回生の頃、一度シャレイドに連れられたことがあるのだ。モートンに女性との交際経験がないと知ったシャレイドが、有無を言わさずに彼を放り込んだ店が、この近くにある。もしかするとシャレイドなりの親切だったのかもしれないが、モートンにとっては思い返すのも憚れる経験でしかない。ただ様々な意味で衝撃的だったせいで、その後一度も訪れることはなかったというのに、その店の場所や外観は鮮明に覚えている。
夜半、しかも降雨で視界が遮られる中、辛うじて目に入るのは、ところどころでたむろする胡散臭い男たちや、無駄に光量の強いホログラム映像に映し出されたきわどい格好の女性の姿ばかりだ。細い路地裏で通り過ぎる人影と肩がぶつからないようにしながら、位置情報を確認しつつたどり着いたのは、案の定というべきか。かつてモートンが訪れたことのある店の前だった。
「あいつめ、冗談きついぜ」
苦虫を噛み潰したような顔でもう一度地図を確かめるが、位置情報が告げるのは間違いなくこの店の中だ。モートンは諦めの境地のまま店の入り口をくぐった。扉は古臭い蝶番を使った開閉式で、押し開けるにつれて耳障りな音が響く。この店ではどうやらその音がチャイム代わりらしく、ちょうど扉が閉まる頃合いに合わせて、けばけばしい彩りの狭いロビーの中央に妙齢の女性のホログラム映像が現れた。
『いらっしゃい。お客さんは見ない顔ね。ここは初めてかしら?』
わざわざ二回目だ、と言う必要もない。質の悪い電子合成音が織り成す出迎えに、モートンは極力無愛想に答えた。
「悪いが俺は客じゃない。
するとホログラム映像の女性は表情を止め、唐突にモートンの目の前から掻き消えてしまった。代わりにロビーの奥の陰から現れたのは、ホログラム映像の女性を二十年は熟成させたような、胸元がやけに開いたドレスをまとった濃い化粧の中年女性だった。
「あんた、名前は?」
フードを被ったままのモートンの頭から、足元のブーツまで露骨に探るような視線を向けながら、女は詰問口調で尋ねてきた。
「モートン・ヂョウ」
モートンもフードを下ろしながら、ぶっきらぼうに答える。女は彼の顔を食い入るように見つめていたが、やがて顎をくいと動かして背中を向けた。どうやらついて来いという意味らしい。尻まで見えそうな丸見えの背中には弛んだ贅肉と染みが目立ち、彼女が結構な年配であることを物語っている。おそらくこの店の主人なのだろう女の後を、モートンは黙ってついていった。
女はロビーの陰に入り口を開けた階段を、地下へと降りていった。深さはさほどないが、階段の先に延びる通路は店の外観に比して思いの外長い。扇情的な照明が灯る通路の両脇には、何枚かのドアが連なっている。それぞれの部屋は防音もろくに効いているとは言い難く、あちこちから艶めかしい声が聞こえてきた。そういえばこんな内装だったかな、とモートンの記憶が嫌でも呼び覚まされる。
女は一番奥の右側のドアの前で立ち止まると、不機嫌そうな口振りでドアに向かって声を掛けた。
「お客さんだよ。お待ちかねの、モートン・ヂョウだ」
彼女の声が聞こえたのかどうか、ドアの向こうから聞こえる嬌声は止む気配がない。モートンはどうしたものかと立ちすくんでいると、女は彼を置いてその場を離れようとする。困惑した視線を送るモートンに対して、女はばさばさの睫毛に縁取られた瞳から冷たい視線を寄越した。
「さっさとあいつを連れ出しておくれ。うちの一番人気が身銭を切ってまで入り浸ってるから、迷惑なことこの上ないよ」
吐き捨てるような言葉を投げかけると、女の剥き出しの背中はそのまま通路の奥へと消えていった。後に残されたモートンは苦い顔のまましばらく待ちぼうけていたが、部屋の中では房事が一向に尽きる様子を見せない。いい加減に痺れを切らして、モートンは部屋のドアに拳を叩きつけた。
「いつまで待たせる気だ、シャレイド!」
するとようやく室内の声が止み、しばらくの間ごそごそという音がしたかと思うと、ドアが力任せに開け放たれた。
「いいところだったのに、邪魔すんじゃないよ、全く」
白い肌がほとんど透けて見えそうな薄い肌着をまとった若い女は、モートンの顔を見るなりそう言い放つと、ところどころ青や紫のメッシュが入った赤毛を翻しながら、彼の脇を通り抜けていった。初対面の女たちに立て続けにきつい言葉を浴びせ掛けられて、モートンは釈然としない面持ちのままのそりと部屋の中に足を踏み入れる。
「よう、モートン」
一ヶ月ぶりに見るシャレイドは、辛うじて下着だけは身につけていたが、寮でしばしば目撃する羽目になったときの様子と全く変わらない。
室内には男と女の残り香が濃厚に立ちこめて、換気が追いついていなかった。明度の落ちた暖色の照明が照らし出すのは大ぶりなベッドと、小テーブルにふたり掛けが精々のソファがひとつ。壁にはシャレイドのものにしては地味な、黒のコートがハンガーに掛かっている。奥のドアの向こうはシャワールームだろう。いかにもな部屋の中で異彩を放っているのは、隅に立てかけられた
モートンはそれが彼自身のものであることを確かめると、フード付きのコートを脱いでそのまま床に投げ出し、憮然とした顔のままソファに腰を下ろした。
「久々の再会だっていうのに、不景気な顔してるな」
「そう思うなら、もう少しシチュエーションを選んでくれ」
仏頂面で答えるモートンを見て、シャレイドの口元にふっと笑みが浮かぶ。
「まあ、そう怒るな。俺がここでこうしているのも、やむにやまれずって奴だ」
そう言うとシャレイドはベープ管に手を伸ばし、おもむろに一口吸い込んだ。やがて吐き出された煙は、霧散するよりも先にするすると換気口に吸い込まれていく。
「実際のところ、逃げ出したはいいが、その後どうしたものか何も考えてなかった。しばらくはいくつか店を渡り歩いたり野宿したりもしたが、途中でジェゼルのことを思い出したんだ」
「ジェゼル?」
「さっき、お前と入れ違いになった彼女だよ。前に彼女がネヤクヌヴの出だって聞いて、星は違えど同じ
「たいした女
感心するべきか、呆れるべきか、モートンは肩を竦めるしかなかった。
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