第二話 琥珀の眼差し(3)

「色々と言いたいことはあるでしょうけど、まずはお掛けになりませんか」


 イェッタの白い指先に促されて、ディーゴは無言のまま彼女の向かいに腰を下ろした。酔いが醒めてきたような気がしても、まだ彼の顔は赤黒いままだろう。イェッタとの初めての会話をこんな有様で始めなければならないのが悔やまれる。


「それで、どうしてあんたはこんなところに居るんだい」


 今さら挨拶を交わすような流れでもないだろうし、アルコールで曇った頭にそんな余裕もない。ディーゴは単刀直入に尋ねた。


「あんたが、俺の行きつけのクラブに入店したばかりのホステスだったら、店長に言われて待ち構えていたのかとでも思って納得できる。だけど実際には市民議事堂というお堅い場所で、ほんのちょっと目が合っただけ、言葉も交わしたこともない間柄だ。あんたがどうして俺の家を知っているのか、知っていたとしてわざわざ待ち伏せしている理由がわからない」

「目が合ったから、それが理由です」


 イェッタは口元に微笑をたたえながら、そう言った。


「嘘ではないんです。あの報告会で、皆さん私の説明が進むにつれて内心竦んでいたというのに、あなただけはどうでもいいという感じで、私の容姿ばかりを気にしていました」


 やはりばれていたのか。ディーゴは自分の赤黒い顔が、さらに赤面するのを感じた。胸中にもたげてきた羞恥心を取り繕うには、イェッタの顔を睨み返すしかなかった。


「そんな下卑た男の元を、こんな時間に訪ねようだなんて正気じゃないな。魂胆はなんだ」

「私のことを保護してもらうためです」


 ディーゴの直截な疑問に対して、イェッタの回答もまた直截だった。


「保護? どうして、誰から守る必要がある?」

「惑星開発計画推進派から、です」


 ディーゴに睨みつけられながら、イェッタは少しも怯むことなく真剣な眼差しで答える。


「既に帰国後のメディカルチェックで入院していた時から、計画の継続を促す方向で報告内容に手心を加えるよう、圧力をかけられていました。その場では頷いてみせましたが、実際の報告会では包み隠さず真実を報告したのはあなたも見聞きした通りです。報告会が終わる直前にこっそり逃げ出してなかったら、多分今頃は彼らに拉致されていたでしょう」


 イェッタはそこまで言うと、わずかに眉をひそめた。


「先ほど、サスカロッチャ区の実家から連絡がありました。グレートルーデ・ヴューラー議員に連絡を取るように、と」

「サスカロッチャ? ヴューラー?」

「サスカロッチャ区はヴューラー議員の選挙区なんです。彼女が推進派議員のリーダーであることはご存知でしょう」


 当然という口調で同意を求められて、ディーゴは曖昧に頷いた。ご存知どころか、実はグレートルーデ・ヴューラーという名前すら薄ぼんやりとしか記憶にない。彼のあやふやな態度に気づいてか知らずか、イェッタは話を続ける。


「私の実家はサスカロッチャで農場を営んでいます。父は地元の農業共同体の幹部を務めており、その共同体はヴューラー議員の有力な支援団体です。おそらく実家もヴューラー議員からなんらかの圧力を受けています」

「それでヴューラーたちからの圧力を躱すために、俺に助けてほしいと。そういうことだな」


 ここまで説明されて、ディーゴはようやく合点がいった。それにしても唐突だという感想は否めないが、一通りの筋は通っている。同時に彼女もまた、これまで彼の地位や金を目的に近づいてきた女と大した違いがないのだという、失望に似た感情が湧き起こってしまうのもどうしようもないことだった。


「なるほど、俺には、というより俺の父には、推進派に対抗できるだけの力も、多分そのつもりもある。だけどそれなら、俺ではなくて父の元に駆け込んだ方が早いだろう」


 そう言って大袈裟に肩を竦めるディーゴの顔には、ありありとした自嘲が浮かんでいた。自分自身にはさしたる力はない。市長の七光りに過ぎないという評価は、誰よりもディーゴ自身が最も納得している。


「父の秘書なら今からでも連絡がつく。呼び寄せておくから、あんたは彼について行けばいい」


 だがイェッタは彼の言葉に首を振った。


「いえ、私が縋りたいのはあくまでディーゴ・ソーヤ、あなたです。あなたのお父上ではありません」

「俺個人には何も出来ないよ。ただの親の脛齧りだ」

「お父上――市長の元に行っても、最初は助けてもらえるかもしれません。でも推進派を抑え込むことが出来たらその後は、おそらく用済みになって放り出されてしまうでしょう。そういう意味では失礼ながら、市長もヴューラーたちと立場が異なるだけで、いつまでも頼れる相手ではないのです」

「それは俺も同じだろう。どうして俺が君の面倒を見続けるものと言い切れる?」


 ディーゴにとっては当然の問いかけだった。だがイェッタは彼の台詞を受けて一瞬押し黙ると、不意にソファから立ち上がった。


「あなたはそれで良いのですか?」


 彼女が何を言いたいのか、ディーゴにはよくわからなかった。訝しげに顔を上げた視線の先で、イェッタは自身の胸元に右手の親指を突き立てている。思った以上にタイトなシルエットのワンピースが、ソファから見上げるディーゴの目に、彼女の形の良い乳房と細く引き締まったウェストのラインを強調して見える。天井の照明を受けてやや翳ったイェッタの顔には、まるで内心を見透かすかのような、自信とも挑発ともつかない微笑が浮かんでいた。


「あの場でただひとり、私の女の部分にばかり興味を示していたあなたが、この機会を逃すとは思えません。例え政治的に用済みになったとして、その後も私を手放そうとはしないだろうという人を、私は見込んだつもりです」


 自信満々に言い切られて、ディーゴは呆気にとられていた。彼女が口にした台詞は、無礼千万と切り捨てられても仕方のない内容だった。ディーゴのことを美しい女に執着する男だと決めつけて、その上で彼の立場を利用させてもらおうという宣言だ。ここで激怒して席を立っても、彼を責める者はいないだろう。


 だがディーゴの口から漏れ出たのは、思いがけない笑い声だった。


 最初は小さく低く、やがて呵々大笑となって深夜のロビーに響き渡る。糸が切れたゼンマイのように笑い続けるディーゴは、しばらくすると喉をかすれさせて立て続けに咳き込み、やがて笑うのを止めた。その間イェッタは立ち尽くしたまま、彼の哄笑を黙って眺めていた。


「あけすけな女だとは思っていたが、ここまで馬鹿正直だとは予想外だった」


 笑い過ぎて目尻に浮かんだ涙を拭いながら、ディーゴはイェッタの顔を見返した。


「あんたは女として見られることを何よりも嫌がるタイプだと思っていたんだが、そいつは俺の見立て違いだったかな?」

「いえ、あなたの仰る通りですわ」


 そう答えるイェッタの口調は、思いがけず明瞭だった。


「でもこれは取引です。あなたが私を守ってくださるのなら、私は喜んでこの身体からだを差し出しましょう」


 下世話極まりない申し出だというのに、彼女の琥珀色の瞳にはいっそ清々しいほどの輝きがたゆたっている。その潔さには苦笑するしかない。


 あれほど脳裏を覆い尽くしていた酒精の靄は、今やすっかり晴れて澄み渡っている。ソファからゆっくりと腰を上げて、ディーゴはロビーの奥、エレベーターの乗降口へと恭しく手をかざしてみせた。


「どこまでご期待に添えるかはわからないが、いいだろう。あんたを保護することを約束する。では俺の部屋で続きといこうじゃないか」

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