8-3 直訴
広い客間に、豪奢と言うほどではないが趣味良い調度品に囲まれ設えられた、大きなソファ。
そこに腰掛けた老人は、森の庵で会った時よりもずっと小さく見えた。
建国王の傍らには控えるようにアルトゥールが立ち、向かい側には黒曜姫が座っている。常と違い、借りてきた猫のように不安げな表情で祖父を見つめていた。
リンドの父オスヴァルトは開けっ放しの扉に程近い位置におり、リンドと姉エルフリーデはひっそりと紅茶の準備をしている。
イアルゥと一緒に––––より正確に言えばイアルゥに連れられ戻った五人が見たものは、その、なんとも形容し難く気まずい状況。
セロアもフリックもさすがに部屋へ踏み込む気にはなれず、入り口で顔を見合わせ足を止めてしまった。
隠居の二人がなぜ城を訪れたのかこの場にいる全員が薄々気づいているはずだ。だから問題は、この重苦しい空気を割って口火を切るのは誰か、という点だろう。
ゼオは離れた場所で、壁に背をもたれて腕組みしたままこちらに来る様子もない。ルベルとアルエスも立ち止まった男二人の横で、所在なさげに立ち尽くすだけだ。
イアルゥはそんな空気には構わず、エルフリーデの傍へ行って声をかけた。
「エリー、あなたは座っていていいわ。後は私がするから、エリーもリンドもソファに掛けて、曾お爺ちゃんの話を聞きなさい」
エルフリーデは顔を上げて頷き、リンドもそれに従う。
イアルゥはカップに湯を注ぎながら、入り口で立ち尽くす四人に言った。
「あなたたちも入ってらっしゃい。まずは、落ち着いて話しましょう?」
「そうですね」
セロアが応じて声を返したのと、傍らにいたルベルが唐突に行動を起こしたのは、ほぼ同時だった。
少女は早足で部屋に踏み込むと、誰かが止める間もなく黒曜の傍に駆け寄り、そして。
「女王さまっ、ルベル宛てに旅渡券を書いてください! お願いしますっ」
そう言ってぺこりと頭を下げたのだ。
黒曜だけでなく、その場の全員が動きを止める。イアルゥでさえ、手を止めてその様子を見つめていた。
フリックが焦った様子でセロアを見るが、賢者は黙ったままその場を動こうとしなかった。
永遠にも思える一瞬の、沈黙の後。
黒曜が、深く息を吐き出してルベルに向き直る。そして言った。
「……貴方は、発行の手順を知っていますのね。王族にしか伝えられない事を知れるほど王家に近しい立場にありながら、なぜそれをライヴァンのフェトゥース様に仰らないの?」
アルエスが泣きそうな顔でセロアを見たけれど、彼はそれでも何も言わずその場を動かない。
ルベルは顔を上げ、女王の強い瞳をまっすぐ見返した。
「ライヴァンでは旅渡券を発行できません。もう二度と使えないように、パパが魔法を壊してしまったから、ライヴァンじゃ駄目なんです!」
少女の口から語られたその、言葉が意味するところは。
フリックは驚きのあまり再度セロアを見たが、賢者は一瞬身じろぎしただけでなおもその場から動かない。
黒曜の瞳に動揺が走る。
「魔法を、壊すなんて、不可能ですのよ。これは失われた古代魔法ですもの」
言い含めるように答えた彼女は、それでも動揺を隠し切ることはできないようだった。ルベルからわずかに目を逸らし訴えるように祖父へと視線を向けるが、サイヴァは黙って首を振る。
ルベルはしばし言葉を探すように黙って、小さく深呼吸をし再び口を開いた。
「完全には壊せないから、パパは戻ってこれません。だからルベルは、逢いに行くって決めました。島の地図も持ったし、セロアさんもみんなも助けてくれるって言うけど、旅渡券だけは女王さまに書いていただくしかないんですっ」
誰も何も口を挟まない。
真剣に訴える少女と、真偽を見極めようと見返す女王––––瞳の強さは双方変わらず、それゆえに今、第三者が口を挟んで良いはずがない。
フリックの窺うような視線とアルエスの潤んだ瞳が、行かなくていいのかと訴えているのは解っていた。さすがのセロアも、この事実がルベルの口から明かされるとは予想だにしていなかったのだから。
彼女はどこまで真実に気づいているのか。
それを思うと焦燥感で居た堪れない気分に陥るのを、かろうじて踏み止まるのはかなりの精神力が必要だ。
けれど。
会話の一切に応じなかった黒曜が理由を尋ねている。
だから今は口を挟むべきではない、そうセロアは直感のように確信していた。
そして、セロアが動かなければフリックもアルエスも動けない。
わずかな間隙がひどく長い空白に思える。全員が固唾を飲んで見守る中、女王はルベルを見返して口を開いた。
「戻って来れない、ですの? 戻って来ない、ではなくて?」
地雷にも似たその問いに反応して動こうとしたフリックを、セロアは手で制した。
それに対してフリックが抗議するより、早く。
「ルベルが、逢いたいんです」
まっすぐな言葉が、張り詰めた空気を震わせる。
しんと流れる静寂。黒曜は黙って、じぃっと自分を見るルベルを見つめる。
その、沈黙に。
「姫さまっ、私からもお願いいたします!」
ついにリンドが堪りかねてルベルの隣に駆け寄った。訴えるように言い募る。
「ルベルを行かせてやってください! そしてリンドも、ルベルの旅に同行したいのですっ、お願いです!」
「……リンド、それはどういうことだ?」
抑揚が少ないためそれと気づきにくいが、父オスヴァルトは末娘の決意を耳にし、動揺したようだ。
エルフリーデは何か言いたげに妹を見たが、リンドのひたすら真剣な瞳に今は黒曜以外、映っていない。
「姫さまっ、ルベルは私の大切な友人なんです! 私は友のため、出来るだけのことを行いたいのです!」
黒曜は話の中心が逸れたことに安堵したのだろう、溜息のように息を抜くと視線をリンドへと向けて答えた。
「その件は、家族で話し合うようにと言いましたわよね? 兄様も見たところ把握しておられないご様子ですし、わたくしから許可を出すことは出来ませんわ」
ぐ、と詰まるリンドを、サイヴァの穏やかな黒い双眸が見る。
話をかわされてしまったルベルは、体の脇に両てのひらを握りしめたまま視線を落とした。
居心地の悪い沈黙の中、もうこれ以上は限界だと悟ったセロアが部屋の中に踏み込もうとした、その時。
「……どうしても駄目なら、ルベルは旅渡券なしで行きますっ」
俯いたまま、少女はぽつりと言った。
え、と思わず聞き返したのはアルトゥール。黒曜は大きな
「どうやって?」
女王の静かな問い。イアルゥがティーカップをテーブルに置いて、そっとサイヴァの隣へ腰を下ろした。
セロアは無言で部屋に入ると、ルベルの傍らまで行って、俯く少女の頭にそっと手を置いた。
ルベルは一瞬肩を震わせ、そして顔を上げて黒曜を見つめる。
「ムルゲアを、捜します」
はっきり言い切った少女の大きな両眼に、涙は宿っていない。
黒曜含め皆がその言葉の意味を掴みかねる中、セロアが呻くように呟いた。
「ルベルちゃん、……それを、どこで」
「ムルゲアって精霊獣の?」
遠慮がちに問い返したのは、アルエスだ。
一般知識としてのその精霊獣については、幼い子どもでも知っている。
水の精霊王リヴァイアサンの使いと呼ばれ、アザラシの頭とクジラの身体を持つ巨大な海獣の姿をしており、性格は穏やかで賢い。
-–––が、広く行き渡った知名度とは裏腹に、その姿を実際に見た者はほとんどいない。
実際、黒曜もリンドも、バイファルの入島とその幻の精霊獣との間にどんな関連性があるのか、理解できずにいた。
ルベルはしっかり顔を上げて女王を見たまま、口を固く引き結んでいる。
これ以上話すつもりはないとの意志が見て取れるが、その瞳はやはりどこまでもまっすぐだ。
協力を得られぬ当てつけで突飛なことを言い出したのではないだろう。少女の瞳に宿った強い確信と、賢者の動揺がそれを表している。
フリックが眉を寄せて考え込み、思い至ったのか、あぁと小さく声を漏らした。
それまで黙って話を聞いていたサイヴァが、顔を上げる。
「そういえば、遠い昔……そういう話を聞いたことがあったなぁ」
想い出を懐かしむように、老いた建国王はゆっくりと口を開き話し出した。
遠い遠い、過去の話だった。
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