8-4 少女の切り札
あれは今から、八百年ほど昔だろうか。
私が思い出せる記憶の初めにはすでに、監獄島バイファルは存在していた。当時はしがない一般人だった私は、島について一般知識以上のことを何も知らなかったけどね。
あの時代は今と比べて大きな戦争や種族ごとの諍いが絶えず、政変も頻繁にあったらしい。
そういう時世だから、世界中で政敵や思想犯の流刑が多くてね。ライヴァン建国王の父親も、そういう一人だったという話を聞いたことがある。
当時の国名も関わった人物の名も、もう忘れてしまったよ。とにかく彼はとても賢く精霊に愛された人物だったらしいが、早くに亡くなったようだ。
その息子は、母親譲りの卓越した剣技と父親譲りの賢さを併せ持った、稀有な人物だったよ。––––少々、口が悪くて乱暴モノだったけどね。
彼はまだ若かったし、あの島で生涯を終えることを良しとはしなかったのだろう。
無論、当時だって券がなければ門は開かず、結界に阻まれ魔法で脱出することも不可能だった。大抵の者はそれ以上を試みて命を危険にさらすまでは望まず、試みたものの自由と引き換えに命を失った者も数知れない。
だが、彼は生き延びた。
若い頃に何度か会って話したことや剣を交えたことはあるが、私は彼とは親しくなかったから、どのようにして島を抜け海を越えたか詳しく聞く機会はなかったが。
彼は
彼はその子を恩人と呼んでとても大切にしていたから––––、そうだね。彼が通った道を、
ただ、安全に開かれた道でないのは確かだ。
そうでなければ、あれから八百年以上経つ今でさえあの島が監獄島として成り立っているはずが、ないのだから。
「もしかして君は、ムルゲアに会って建国王の通った道を訪ねるつもりなのかい?」
穏やかな黒い目がルベルを見る。
少女は頷かなかった。黙ったまま、強い瞳で建国王を見返す。
「ムルゲアが知ってるってコトは、……泳がなきゃ行けないってコト?」
アルエスが恐る恐る尋ねた。ルベルは泳げなかったはずだ、あの不安そうな瞳がはっきり記憶に残っている。
ルベルは答えなかったが、握った拳に力が込められたのが判った。
サイヴァは穏やかに息をつき、言葉を続ける。
「君のお父さんが陥っている状況を私はよく知らないが、そんな危険を冒してまで行かなくてはいけないのかい? もっと待てば、あるいは別の手段を探せば、危険を冒さず済むようにはならないかね?」
少女は一瞬視線を落とし、そして目を上げサイヴァを見た。
「建国王さまは、もし世界が明日壊れるとしたら、何をしたいですか?」
「……世界が?」
唐突すぎる質問に、サイヴァは何と答えたものか分からずセロアを見る。
けれどセロア自身もルベルの問いの意図を掴みかね、思わずフリックを見た。
「オ、オレだったら景色いい場所で思いっきり美味いモン食って、心残りないように過ごすかなー……、って聞かれてないよなっあは、スイマセン」
見られたフリックはつい答えてみたものの、緊迫した空気に押されてだんだん声がか細くなり、最後は意味もなく謝罪。
けれどルベルはそんな彼ににこりと笑いかけた。
「ルベルは、パパに逢いに行きます」
「……ってルベル、世界は壊れる予定なのか?」
当惑した声でリンドが尋ねる。彼女の問いは揚げ足取りではなく、純粋に興味を刺激されたのだ。
少女の視線がリンドに向かう。
「授業で、『ライヴァン帝国とティスティル帝国は、
かたりと扉が動いてゼオが入って来た。きんいろの瞳が一瞬セロアを睨み、次いでルベルを見る。
少女はそれには気づかず、本気の瞳を女王へ向けて続けた。
「世界なんて、いつ終わってもおかしくないです。終わってからじゃ、パパに逢いに行けません。だからその前に、ルベルは、パパに逢いに行きます」
空気が凍ったような、沈黙。
少女は泣かなかった。茜色の双眸に揺るがぬ意志を映して、ただまっすぐに女王を見ている。
サイヴァがわずかに身じろぎした。溜息のように、老いた建国王は呟く。
「そうだね」
その黒い両眼は、帝国の始まりより昔にあった『世界の危機』を見てきたに違いなかった。
「君はまだほんの子どもなのに、難しいことを考えているんだね」
呻くようなその言葉に込められていたものは、過去の痛みか郷愁か。
「世界の終わり、……ってそりゃ、ロッシェの口癖だろ」
不意に、ゼオがぽつんと呟いた。
ルベルは弾かれたようにそちらを見、ゼオを睨む。
「口癖じゃないです! パパは五年前に世界が終わらないよう、一生懸命がんばってたもんっ」
なぜか憤る少女の様子にゼオは肩をすくめたが、それ以上は何も言わなかった。が、今までのやり取りをずっと黙って聞いていた黒曜が、ゼオが口に出した名前に表情を変えた。
「ロッシェて……、ルベルちゃんのお父さまってレジオーラ卿ですの?」
今までの突き放すような口調がいくらか和らいだところ、その名は彼女の興味を引いたようだ。ルベルがぱっと黒曜に向き直り、勢いよく頷く。
幼顔の女王は視線を落とし口元に指を添え、逡巡しているようだった。
伏し目がちに物憂げなその表情からは考えを読み取ることができず、食い入るように見守るルベルの頭をセロアはそっと撫でてやる。
重苦しい数刻ののち。黒曜は顔を上げ、少女を見た。
「そうでしたの。––––解りましたわ」
祖父を見、長兄を見、セロアを見、そしてルベルに視線を戻し、女王はふんわりと笑った。
「御覚悟、よっく聴かせていただきましたわ。そして、わたくしの覚悟も決まりましたわよ。監獄島への旅渡券、書いて差し上げようじゃありませんの」
驚いたようなオスヴァルトとサイヴァ、そしてセロアやフリック。
ルベルの目がまんまるく見開かれる。
「ホントですかっ!」
悲鳴みたいな歓声をあげて跳び上がる少女を黒曜は黙って見、そしてセロアに視線を向けた。
「これは取り引きとして考えてくださいませね、セロア様。レジオーラ卿についてならば、まみえたことこそありませんけれど以前から存じておりますの。わたくし、ルベルちゃんと言葉を交わしてみて、父親としてのかの方にとても興味を惹かれましたわ。……ですから、あなた方は必ず無事に卿を連れ帰り、わたくしに会わせてくださいませ」
彼女がレジオーラ卿をどんな人物として知っていたのかを、セロアは知らない。けれど黒曜は、ルベルを育てた父としての彼に興味を覚えたのだろう。
その心理は自分と共通するものがあるだけに、セロアにも理解できる。
「それが、券発行の代価ということでしょうか」
穏やかに笑んで聞き返せば、女王はえぇと頷いて立ち上がった。
「それと、渡航のための船や必要物も、わたくしたちの方で揃えて差し上げますわ。明日まで時間をくださいませね。よろしくて?」
「……それは」
期待を上回る申し出にさすがのセロアも目を瞠ったが、黒曜は断る隙も口を挟む隙も与えず、にこりとセロアに笑顔を向ける。
「遠慮など不要でしてよ、セロア様。わたくしが決めましたのですもの。お気になさらず存分に甘えてくださいませね」
曖昧に笑い返す賢者の隣、目を丸くして見上げるルベルにも彼女は微笑みかけ。
次いで視線を巡らせて、茫然と成り行きを眺めていたリンドに言った。
「リンド、少しお時間いただけますかしら。わたくし、あなたに話しておくべきことがありますのよ」
「はい、……話ですか?」
きょとんとリンドが応じる。
流れから察するに旅への同行に関する話だろうと予想し、セロアはフリックを視線で促して、黒曜に言った。
「では、私たちは席を外しましょう。また、夜か明日の朝、改めて御礼に参ります」
「お気遣い感謝いたしますわ、セロア様。それでは明日の朝に、時間を取り分けておきますわね」
黒曜と自分の間に流れる空気は相変わらず張り詰めていたが、それでも初めの頃に比べればずいぶん和やかになった、と思う。
––––あの魂を削がれるような緊張も、森へ出掛けたことも、ひどい剣試合も全部、無駄ではなかったと考えていいのだろうか。
ぼんやりと思い巡らしつつ傍らに視線を落としたら、それに気づいたルベルが自分を見上げ、そして嬉しそうに笑った。
この、小さな身体に。
この子はどれだけの理解と想いを仕舞い込んでいるのだろうか。
それを思うとセロアは居た堪れない気分に囚われる。
けれどもルベル自身がそれを決して言葉にしない以上、膝を突き合わせて問い尋ねるのも甘い言葉で慰めるのも、今必要なことではないとセロアは理解していた。
「行きましょうか、ルベルちゃん」
だから、自分も今はただ、行くべき先を見据えて迷わずに進むのだ。
「はい!」
この子はきっと、望みを叶えるまであきらめることも泣くこともしないのだろう。
––––それならば。
叶えたときにルベルは、泣くのだろうか。
セロアには解らなかった。
to next.
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