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6.記憶の残滓

6-1 炎の夢


 ––––そこは、劫火ごうかだった。

 激しく燃え盛る真中、立ちふさがる人をただただ斬り殺し、前に進む。


 ––––戦場にしてはあまりに静かで、火事にしては凄惨せいさんな。

 紅蓮ぐれんの中を、銀の刃がひるがえる。三日月の軌跡は機械的な正確さで、一撃のもとに人の命を狩りとってゆく。


 散り狂う火の粉と濃く満ちる煙。

 魔法による護りがなければ、髪や衣服に火が移り焼死するであろう、高温。

 それでもなぜか、恐怖はなかった。



 斜めに傾いで燃える扉を手でつかみ、こじ開ける。熱さは感じるが、炎が手を焼くことはなかった。今は、まだ、魔法の効果が続いている。

 部屋の中にはまだ、炎は達していなかった。かしいだ扉が音を立てて燃え落ち、一瞬だけ鼻腔びくうをくすぐる甘い花の香。


 広い部屋の中央に、彼女はひとり座っていた。

 その小柄な姿が視界に入った途端、全身が金縛りにあったように、硬直する。


「––––ロッシェ、キミだったの」


 穏やかなアルトヴォイスが鼓膜を震わせた。この灼熱しゃくねつの中でさえ全身の血が凍るような感覚と、同時に、喉をふさぐ胸の圧迫感。

 全身を侵食するその感情の名前を、彼はまだ知らない。

 一歩、二歩と、引き寄せられるように彼女の元へ行き、崩れるように膝をつく。

 指が貼りついたかのように固く握りしめていた三日月刀シミターが、手から抜け落ち、床に当たって硬い音を響かせた。


「……そうだったの。陛下の懐刀ふところがたな暗殺者アサシンって、キミだったのねロッシェ」


 彼女が呟いて、細い腕を伸ばし彼の首を抱いた。びくりと震え、それでも彼は振り払うことも抱き返すこともできずにいる。


「世界なんて終わってしまえばいいって、ずっと思ってた」

 耳をくすぐるように、彼女が囁いた。


「二十年生きられないって、うんと小さいころお医者さまに言われたの。だから、お父さまもお母さまも、いつもわたしには優しかったわ。どんなワガママで困らせても、最後には聞き入れてくれた。本当ならわたし……こんなに生きてキミに逢うなんてありえなかったの」


 ––––初めて、彼女の口から語られたその事実に、彼は驚愕きょうがくで目をみはる。

 その衝動に突き動かされてか、垂れ下がっていた腕がぎこちなく持ち上がり、彼女の背に回される。そして無言のまま強く、抱きしめた。



 舞い散る火の粉と肌をなでる熱風の中、ふたりきり。

 閉じた未来を宣告された彼女が夢想し続けていたのは、穏やかでありふれた平凡な、生。

 叶わぬと知りつつ夢を描いた彼女と、閉じた世界から抜け出すすべを知らなかった自分が、出逢い、惹かれあったのは、運命なのか必然なのか。


 首に感じる彼女の体温に、自分が本当はどれだけ彼女を好きだったのか––––痛感した。

 彼女の両親を殺し、家の者たちを殺し、家畜に至るまでもすべての命を奪った自分に、ゆるされる想いではないと知りつつ。


「……ごめん」


 感情が押し出した謝罪の言葉。なんて卑怯で、残酷な響きを持つのだろうと思った。

 なのに彼女は、ただ穏やかに笑ってそれを否定する。


「残りわずかだったわたしの時間。どうせなら、大好きなひとと過ごしたいじゃない?」

 問い掛けの形でありながら、言い含めるような強さをも内包ないほうして。


「わたしとキミと、そしてこの子、––––わたしたち、本物の家族なのよ」

 彼女は当然のように、言い切るのだ。


 ––––家族、なんて。

 そんな資格など、あるはずがないのに。


 死神という存在があるのなら、自分はまさしくそういうものだ。彼女からすべてを奪い、そして彼女自身の命すら奪おうとしている。

 それを自覚した途端、喉がひどく苦しくなって視界が溶けた。彼女がそっと顔を寄せて、彼のまなじりに優しく口づける。


「わたしの最期の時に隣にいてくれたのが、キミでよかった」


 カーテンを燃やす炎が天井に移り、バラバラと音を立てて炎の欠片が落ちる。いくら魔法の保護下といえど、館が燃え崩れてしまえば助からないだろう。


 ––––それでもいいと、不意に思う。

 そうなれば、自分は彼女と共に、終われると。


 ふわ、と笑った彼女が、手を伸ばして血濡れた三日月刀シミターを拾い上げた。彼は茫然ぼうぜんとそれを見守る。

 彼女の意図が、解らなかった。


「キミには負わせない」


 もしも解っていたなら、止めただろうか––––?

 答えは、もう永遠に見つからない。


「だからキミは、わたしの分も引き受けてこの子を愛して」


 微笑んだ彼女は、幸せそうだった。銀刃が閃き、鮮血が散る。

 もう思い出せない記憶のはじめから繰り返し繰り返し見慣れたはずなのに、その瞬間を彼は止めることも目をそらすこともできなくて––––、



 最期の時に共に在れて、わたしは幸せだった。

 キミはきっと生きている限り、わたしのことを憶えてくれるでしょう?


 ––––言葉にされなかった想いは、彼にどれだけ届いただろうか。


 託されたのは、小さな命と、それに伴う無限の未来。

 燃え落ちる館の中からかろうじて逃れ、崩れゆく炎のかたまりを前に、熱風と冷たい風の混じり合った夜気に触れて、そこで何かのたがが外れたように。


 若い暗殺者アサシンは地に膝をつき、吠えるように号泣した。




 +++




「……ロアさん、セロアさん大丈夫ですか」


 額にひんやりとした感触と、心配そうな少女の声。

 目覚めた賢者は一瞬、自分が今どこにいて何をしているのか認識できなかった。


「セロアさん、具合悪いですか?」


 寝起きだからか、いつものツインテールではなくオレンジの髪を肩に流しただけの少女の顔が、炎の中の女性に重なる。


「––––ぁ、ルベルちゃん」


 ああ、ここはティスティル王城だ。父に逢いに行くと家を飛び出した少女のお供で、旅渡券について交渉中の、第一夜。

 では、あれは、本当に夢だったのだ。

 そうは思えないほど鮮明な血の匂いと炎の熱さを思い出し、恐ろしさが胸を満たしてセロアは身震いした。


「ルベルちゃん、私、うなされてましたか?」

 心配そうに覗き込む少女に聞いたら、大きな瞳が泣きそうに潤む。


「はい、それもだけど……、セロアさんすごい汗です」


 言われて初めて気がつく。

 全身にひどく汗をかいていて、髪が額に貼りついていた。濡れたタオルが乗せられていた理由をそれで理解する。


「大丈夫ですよ。もう、大丈夫です」


 額のタオルを押さえながらゆっくり上体を起こしてみる。

 気怠けだるい感じはあるが、熱っぽいとか動かないとか痛みとかはない。着衣がべたついて不快なくらいだ。

 常ならば不可解な……むしろ不吉なこの現象をすんなり受け入れられる気がしたのは、昼にルベルの話を聞いていたからだ。


 記憶を拾う、妖精族セイエスの子ども。では、この記憶は。

 そういうことか––––、と思う。

 館を灰燼かいじんした炎は、すべてを見ていたのだ。




 リンドに頼んで軽く風呂で水を浴び、着替えて朝食の席についた後も、セロアは終始無言で上の空だった。

 もともと不器用なのに、集中力までなくなっては危険極まりない。フリックとアルエスは食事中ずっと冷や冷やしたままその様子を見守っていたが、セロアはそれにも気づく様子はなかった。


 ––––なにしろ、あんな中途半端な記憶の断片を見せられたのだ、まとまる考えも纏まるはずがない。

 セロアは早々に席を立ち、柱廊を抜けて中庭に向かった。




「こんにちは、良い天気ですね」


 穏やかな声に翼族ザナリールの青年が振り返る。

 そこに立つ賢者然の人間フェルヴァーを見て、彼も表情をなごませた。


「本当ですね。あなたは、セロア=フォンルージュさんでしたっけ」

「はい。ご挨拶が遅くなりましたが、昨日はありがとうございました」


 それを聞いて、シェルシャは柔らかく笑んだ。


「僕は、何も。スゥの能力はいまだ未知数な部分が多くて––––、驚かせてしまったんじゃないかと」

 セロアは言葉を探すように、しばし目を伏せた。


「その能力のことで、お話をうかがえれば、と思いまして。実は、気になる夢を見たんですよ」

 シェルシャは目を瞬かせ、視線を王宮に向けた。


「それなら、カミル様に直接うかがった方が良いかも。僕はあまり興味がなくて、説明できるくらいには理解していないので」

「解りました。白き賢者殿はどこにいらっしゃいますか?」


 翼族ザナリールの青年は、口の中で心当たりを挙げつらねながら考えていたが、結局あきらめたようにため息をついて、空に向かって声を掛ける。


「カミル様、来ていただけませんか?」


 途端、その場に音もなく白い魔族ジェマが姿を現した。移動魔法か何かなのだろうが、およそ人間離れした反応速度だ。

 カミルはシェルシャを見、セロアを見て、薄く笑みを浮かべた。


「何用かね。シェルシャ」

「セロアさんがスゥのことで、話をうかがいたいそうですよ」


 言われて、白い魔族ジェマは視線を傾ける。


「スーシアに記憶を拾われたか? セロア=フォンルージュ」

「いえ。……逆ですね、恐らく」

「ふむ?」


 カミルの口もとが楽しげにつり上がった。


「では、場所を移そうか。シェルシャ、おまえの部屋を貸せ」

「……カミル様、ご自分の部屋あるじゃないですか」


 ため息混じりに応じるシェルシャに、カミルはさも当然という顔で答える。


しばらく使っていないから片付けが面倒だ。かといって書庫では空気も悪かろう?」

「私は、書庫でも構いませんよ」


 むしろ願ったり、という風なセロアの顔を見て、カミルは薄く笑った。


「そうか。では、そうするか」


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