10.魔獣の領海
10-1 ウサギの受難と姫の挑戦
「で、これがぁ、ゼーオ、……で、これがぁ、セロア」
船室の床で虎型になって無気力に寝そべっているゼオの隣、フリックはだらだらとメモ帳に落書きをしている。
『うざいゎテメ離れろ』
「うぇー、動きたくねーもん」
お互い会話するのも怠いのか、相手を邪魔にしつつどちらも動く気配はない。
船旅は、順調といえば順調だった。穏やかな天候に恵まれ船は調子よく進み、予定通りの航海が続いている。
とはいっても、中を覗けば小さな問題は幾つもあった。
例えばの問題は、普段なら料理担当と張り切るフリックがこの通り、船酔いでダウンしてしまったことだ。ゼオも海上という相性の悪い場所のせいで消耗し、かさばる虎型で船室にこもったまま二人で活き悪く時間を潰している。
本人たちの言うことには、甲板から波の揺れる様を見ているだけで気分が悪くなるらしい。
初めのうちこそ、傍目におかしな虎とウサギという取り合わせをネタに、食物連鎖コンビぃとか空元気を出していたフリックだったが、もう今はそんな気力すら残っていないのだろう。
そんな二人のいる部屋の戸をバァンと押し開けて、ルベルが飛び込んできたのは昼近く。
「フリックくん、ゼオくん、生きてますかっ」
「おぅよ! ……だいじょぶだぜー……」
簡易テーブルに突っ伏してひたすら落書きで気を紛らせていたフリックが、瀕死としか思えない弱々しさでパタパタとメモ帳を振る。
床のゼオはすでに、ぴくりとも動かない。
ルベルは目を丸くして二人を見ていたが、腕にバスケットを抱えて船室に入ってきた。
「ゼオくんはご飯イラナイけど、フリックくんはちゃんと食べなきゃダメですっ。ルベル、お昼の差し入れに来ました!」
「おっ、さんきゅールベルちゃん! ……ところで、コレの中身ナニ?」
差し出されたバスケットを受け取ってフリックが恐る恐る尋ねたのには訳がある。
ルベルは胸を張って、答えた。
「セロアさんは手伝ってないから、大丈夫です! リンドちゃんとルベルで作ったサンドイッチだもん」
「お、おぅっ……。姫ちゃんお姫サマなのにすげーな……、あははは……」
船酔いのフリックが早々に脱落し、厨房に誰が立つかという話になって、セロアの破壊的な不器用さが判明した。一緒にいたリンドの証言によれば、筆舌に尽くしがたい大惨事が起きたらしい。
セロア本人はかすり傷一つ負わず、リンドもうまく回避して被害には遭わなかったのだが、心配のあまり様子を見にきたフリックに崩れた食器が襲いかかったというのだから理不尽だ。
当然セロアは厨房立ち入り禁止になり、仕方なく女性陣三人で……と決まりかけた矢先、今度はシィの暴露でアルエスのぶきっちょが判明し、結局消去法でリンドとルベルが食事担当に、という顛末だった。
まあ、アルエスの不器用さは人並みだからともかく。すでに人災扱いのセロア本人が呑気にそれを受け止めているのでは、どうもこうもない。
意外なところで、生粋の王族であるリンドが料理洗濯家事掃除オールマイティーだったりと、良くも悪くも新発見がいっぱいだ。
そんなオイシイ旅の最中に船酔いでへたり込んでいるなんて、やっぱりウサギはアンラッキーだとしか言いようがなかった。
バスケットの中のサンドイッチは中身もカラフルで普通に美味しそうだったが、どうにも食欲が湧かないフリックは、ため息とともに再びテーブルへ突っ伏してしまった。
ルベルが心配そうに覗き込んでくる。
「フリックくん、さっき船のそばをピンクのイルカが通ってったです。お昼食べたら、早く見に来てくださいっ。リンドちゃんは一緒に泳ぐって言ってました」
「ぅぇ!?」
船酔いも吹き飛ぶ報告にガバッと顔を上げ、フリックはひきつり笑いでルベルに聞き返した。
「泳ぐって、この船速いんだから置いてかれちゃうじゃーん!?」
「うん。そうですよねっ、止めた方がいいですかっ!」
『あたりめーだッ!』
うろたえるウサギの代わりに、床から吠えるようなゼオの声が響いた。
かくかく頷くフリックの合意も確認し、ルベルは弾かれるように踵を返すと船室を飛び出していく。
後ろ姿を見送る姿勢のまま、再度扉が開いて少女が飛び込んでくるまで結局フリックも固まったままだった。
「止めてきましたっ」
「……はぁぁ……」
なぜ、こんなに具合悪い時に心臓に悪い思いをせねばならないのか。こんな一大事にセロアは何をしているのか。
再びテーブルと仲良しになったウサギを心配そうに覗き込んでいたルベルだったが、やにわに彼の指先からメモ帳をひょいと取り上げた。
「あッ、何すンだよっルベルちゃん」
「ノリモノ乗ってる時に下見てると、よけい具合悪くなるです! だから、これは没収っ」
ええっと抗議の声を上げるウサギの手をかいくぐり、少女は身軽に棚台へ腰掛けるとメモ帳をパラパラめくり出した。
書き付けられているのはくだらない小ネタばかりなのだが、それを真剣に読み込まれるのはどうしようもなく居心地悪い。フリックは息が抜けるような呻き声とともにヘロヘロと腕を伸ばす。
「うわーぁ、ちょー恥ずいから返してくれって、ルベルちゃんー!」
「ぜんぜん恥ずかしくないから大丈夫ですっ。フリックくん、ルベルもラクガキしていいですか?」
「ぅえっ? そりゃ全然オッケーだけどッ?」
眼を輝かせてルベルが言ってきたので条件反射的に答えたら、少女はメモについていたペンを外し、手慣れた仕草で何かを書き始めた。
何となしに眺めてれば、書き終えたのかくるりとメモの向きを返して見せられる。
「ルベルのパパです!」
少女があんまり得意げに宣言するものだから、床に潰れていたゼオまでが顔を上げた。小さな紙面に描いてある似顔絵を見て、フリックは一瞬息を呑む。
自分も絵は得意な方だが、普段描くのはイラストかスケッチだ。動植物覚え書きのメモ絵とか、思いついたネタ絵とか。
けれどルベルの絵は基礎をしっかり掴んだものだと分かる。
「へぇ、スゲーじゃんルベルちゃん。ついでにオレのも描いてくんねーかなっ」
「はい、りょーかいです!」
船酔いも忘れてわくわくしてきたフリックと張り切るルベルを片目で見やり。活きの悪い灼虎は再び、ぐたりと床に突っ伏した。
船上なのだから釣りを楽しもう、という案が浮上しなかったわけではない。
単に、そういうのが得意分野なフリックがこの通りだったのと、魚は友だち思考のアルエスから猛抗議があったのとで、あえなく霧散しただけの話だ。
快速で水上を滑る船の前後をついて来るピンクやライトブルーのイルカたちを眺めながら、リンドは一人船べりで物思いにふけっていた。
彼らはどうやら下位精霊らしく、時々キュルキュルと不思議な声を掛けてくる。
アルエスやシィは理解できるらしいのだが、リンドはまだ精霊語を聞き分けることはできなかった。
人懐っこそうな彼らと一緒に泳いでみたい、あわよくば海の中で面白い何かが見つかるかも。
そう心躍らせたリンドだったが、残念ながらルベルに止められてしまった。
こんなことならもっと魔法の修行に時間を割けば良かったとも思ったが、過ぎたことは仕方ないので考えるのはやめておく。
「つまらんなぁ」
溜息混じりに呟くと、くるりと身体を転じて船べりに背中を押しつけ、大きく両腕両てのひらを広げて伸びをした。
そうやって見上げた空は、見事な快晴。
ああ、この空を飛んでみたい。
不意に浮かんだ思いつきが、リンドの中で入道雲のようにむくむく膨れ上がる。
彼女はよしッと気合いを入れると、甲板を走り抜けてマストに手を掛けた。
驚いて視線を向けたアルエスが止める間もなく、まるで猫のような身軽さで垂直に立つそれを登り出す。
「えぇ!? ちょ、リンちゃんッ!」
焦ったアルエスはマストの下に駆け寄って叫んだが、引きずり戻すにも手が届かぬ高さだ。
危なげなく登ってく様は見事としか言いようがないが、同時に非常に心臓に悪い。
「危ないよぅッ! どこまで登っちゃうのっ!?」
「どうしました?」
騒ぎに気づいてか、折良く登場した賢者の声にアルエスの肩がびくりと跳ねる。
マストの根元に取り付くアルエスを不思議そうに見、そのまま視線を上に向けようとした、セロアの方に。
ガコン、と派手な勢いでバケツが飛んできた。難なくかわして彼は苦笑する。
「危ないですよ、アルエス」
「セロアさんは上見ちゃダメー!」
必死の形相で立ちふさがるアルエスの頭上に、リンドの声が降ってきた。
「なんだ二人とも登ってくればいいのに。素晴らしい眺めだぞ」
セロアは、今度はジャガイモを投げようと身構えているアルエスから目を離せず、はあ、と気の抜けた返事をした。
「帆柱に登ったんですか、リンド。私は登れませんから大丈夫ですよ」
違う違うッと言いつつジャガイモが飛んできた。再びそれをかわして、セロアは首を傾げる。
「違うんですか?」
「何がダメなんだ? アルエス」
セロアとリンドに同時に聞かれ、アルエスの顔がみるみる紅潮した。
「……ってッ、リンちゃん下から見えちゃってるもんっ!」
一世一代の大激白みたいな様相で息を荒げるアルエスからセロアは無言で目を逸らし、リンドは疑問符だらけの顔で首を傾げる。
ひどく気まずい沈黙が数秒、セロアは不意に方向転換して軽く手を挙げた。
「終わったら報せてください」
「何だ? 何が見えてるんだアルエス」
「もーっ、ボクにそんなこと言わせないでよぅ!」
腑に落ちない様子でマストの上から聞き返すリンドの天然具合に、応じるアルエスの声は悲鳴と化している。
そんな二人のやり取りを背中に聞きつつ、セロアは目のやり場に困って海へと視線を泳がせた。
まあ、……確かに。
リンドもれっきとした年頃の娘であるには間違いなくて、アルエスの反応はごく当然ではあるのだが。
––––あまりに勇ましくて、すっかり忘れちゃってましたよ。あはは。
とは、さすがのセロアも言えなかった。
そんなこんなで。
総じて大きなトラブルもなく、船旅は順調だった。
中位精霊の加護を受けた船は驚くほどの安定性で海路を進み、一週間ほどで監獄島の近海に到達した。結界を抜けると加護が終了するので翌日の朝に突入することに決め、その日は領海外で錨を下ろしてゆっくり休むことにする。
結界を越えた先は、魔獣の領海と呼ばれる。
その名称をセロアもフリックも、リンドも知っていたが、余りに順調な航海がその知識に目隠しをしたのかもしれない。
緊張感よりも、むしろ高揚感の方が勝っていた。
だが。
その順風さこそが加護のゆえであったと、この海域で彼らは思い知ることになるのだ。
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