9-5 船出の朝


 ティスティル帝国での最後の朝食を終え、アルトゥールに連れられて馬車で向かった港には、一隻の船が停泊していた。

 さほど大きくはないが、見ただけでも仕様の良さがよく分かる。


「本当なら航海士や操舵手も派遣してやりたいところだが、帰りの事を考えるなら乗り捨てられる方が気楽だろ? 代わりに、可能な限りの保護魔法を掛けてある」


 アルトゥールがそう、説明を加える。

 島の周辺海域は『魔獣の領海』と呼ばれる危険地帯だ。安全な航海を望むなら軍用船並みの装備が必要だと言われるが、さすがのティスティル帝国でもそこまでは用意できない。

 であれば、可能な限り身軽で小型な船にありったけの魔法防御を施す方が、ずっと効果的だろうとの結論だった。


 一般に魔法というものは範囲や対象が広がればそれだけ不安定になり、高い技量を要する。安全性と小型化を秤に掛ければ、これがギリギリの妥協ラインだろう。

 とにかく、往路さえ無事に辿り着ければ良い。旅渡券がある限り、帰路はライヴァン直通のゲートが使えるはずだ。島に入ってしまえばもう、少女たちの幸運を祈るしかできないのだから。

 彼の話を聞きながら、予想外のあれこれにセロアが言葉を失くして船を見上げていると、一足先に港に来ていた黒曜が彼らを見つけてこちらにやって来た。


「いかがでして? セロア様。豪華客船とまではいきませんけれど、空調完備、防水防弾仕様を施した優良品ですのよ。旅の守りも掛けてありますけれど……これは魔物相手にしか効果がありませんの。だから、くれぐれも気をつけてくださいませ」


 ひたすら茫然としていたセロアは、その黒曜の言葉に何とも中途半端に笑った。


「非常に有難いことではあるのですが……女王陛下。ここまで、して頂く訳には」

「あら、心配することはありませんわ」


 幼顔の女王はその彼の表情に満足したのか、艶やかに微笑んだ。


「船体代に魔法効果を付与したサービス料を上乗せして、のちほどライヴァン帝国へ請求書を送付致しますから、費用のことはなにも心配なさらずとも宜しくてよ」


 その言葉に今度こそセロアは固まり、その様子をゼオはにやにやしながら眺めて言った。


「マスターも少しはアタマ悩ませりゃいいんだ、自分だけ机の前で楽しやがって」


 その認識は誤認だと言ってやりたかったが、今、黒曜から目を逸らすわけにはいかない。だからとりあえず聞き流す。


「……いえ。あの、ですから」

「もちろんわたくしたちの好意、無下になさったりしませんわよねセロア様。送り出すなら最良の餞別と万全の備えを––––、わたくしたちの考え、どこか間違っておりまして?」


 黒曜の笑顔には一分の隙もなく、セロアはただ頷くしかなかった。

 やり取りを見ていたアルトゥールが隣で忍び笑いを噛み殺しつつ、説明を続ける。


「船の名は『アビスワーク』、中位精霊のアビスサーペントが航路を導いてくれる。ただしバイファル島の結界圏内に入ったら契約は終了だ。島の周辺は未知の海域で何が出るかまったく解らねぇし、一度入ったら移動魔法で結界を越えることはできない。無事を祈る、くれぐれもリンドを宜しく頼んだぜ」

「姫さま! 兄さま! ありがとうございますっ」


 セロアとしては言いたいこともいろいろあったが、心底嬉しそうなリンドや船に見入っているルベルとアルエスの手前、それ以上は胸に仕舞って終わらせることにした。

 とにかくは、無事に帰ることだ。

 生きて無事に帰りさえすれば、きっと全部笑い話で終わらせることが出来るはずだ。ルウィーニだって施政家の端くれ、頼りない国王をフォローしつつ上手くやってくれると期待しよう。


「ありがとうございます。では感謝して、使わせて頂きます」


 セロアが礼を述べた、その時。黒曜が不意に、微笑んだ。

 それは、ここに来てからずっと見せていた隙のない微笑とは違う、少女らしい屈託のない笑顔で。

 虚を衝かれた賢者に、女王は言った。


「ルベルちゃんの願いが届きますようにと、わたくしもこの地でお祈り申しあげておりますわ。気をつけて、いってらしてくださいませね」


 ふわりと穏やかな風が通り抜けたようだった。

 セロアもにこりと笑って答える。


「はい。女王陛下には大変お世話になり、感謝しています」


 また一歩、道が近づいたとセロアは思った。

 緑玉エメラルドの目を傾け、アルエスの服の裾を掴んで船を見上げているルベルを見やって、我知らず口元に笑みが上る。


「……さ。名残惜しんでても仕方ねぇし、さっさと行こうぜ」


 ゼオの言葉が出発の合図になった。

 フリック、アルエス、リンドの順で礼を言い船に乗り込み、ゼオが気乗りしなさそうにその後を追って、ルベルとセロアだけがその場に残される。


「行きましょうか、ルベルちゃん」


 穏やかに促され、少女はセロアを見上げて頷いた。その大きな茜色の両眼が決死の様相に見え、セロアはなんだかどきりとする。––––それは一瞬だけだったが。


「女王さま、アルルくん、みなさん、……ありがとうですっ」


 大真面目な顔でルベルは言って、ぺこりと深く頭を下げた。

 アルトゥールが黙って目を伏せて笑い、黒曜がふんわりと微笑む。


奇跡の精霊ラヴェールがあなた方に、最上級の幸運を賜りますように」

「はい! 頑張りますっ」


 最後までルベルの返事はどこかずれていて、けれどその台詞がこの船出に最も相応しい気がして––––……、

 セロアは穏やかに笑んで、少女の頭に手を乗せる。


 そして。

 黒曜姫とリンドの家族に見送られながら、六人はアビスワーク号を伴に、ティスティル帝国を後にしたのだった。






 to next.

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