憧憬
父親の笑った顔というものを、一度も見たことがなかった。
ドアチャイムに迎えられて扉をくぐり、いつもの喫茶店に入ると、ウェイトレス嬢が明るい声でいらっしゃいませを言う。
カウンターの向こうには店のマスターがいて、営業スマイルを貼り付けた顔でこちらを見ていた。
「やあ、久し振り。君のお陰でここ数週間忙しかったものだから、しばらく来れなかったよ」
「それは大変でしたね。そんな多忙の中、わざわざお越しいただき感謝ですよ」
「ああ、大いに感謝してくれたまえ」
相変わらず隙のない笑顔で、本音なのか辞令文句なのか判断し難いことを言う。
応ずるこちらも皮肉を込めた冗談返しだから、お互い様だが。
そんな遣り取りを交わしている内に、店の奥で気配が動いた。どうやら待ち合わせの相手が、僕の入店に気づいたらしい。
「
畏まった口調ながら、満面に喜色を浮かべて立ち上がったのは、僕の部下。
成人していない娘でありながら、表沙汰にできない特技を沢山持っている。
だからといってそれを目的に雇い入れたのではなく、彼女自身の強い希望と某腹黒
「待たせて悪かったね。ちょっと雑用に手間取ってさ」
「あ、いえっ……待ったというのは待たされたという意味ではなく、心待ちにしていたという意味です」
「うん、解ってるよ。ありがとう」
いきなり真に受けて表情を焦らせる彼女の様子に、自分の無意識な話し癖は気をつけた方がいいなと考える。
ここのマスターと話した勢いで無音と話して、嫌われては大変だ。
皮肉も揚げ足取りも多分に無意識だから困ったものだと、まるで
「何か頼んだのかい?」
一応尋ねるが、答えは大方予想がついている。
案の定彼女は否定を示して首を振り、先んじる訳に参りません、と付け加えた。
「了解、それじゃ一緒に頼もうか。無音はレモンティーでいいね」
「……いえ、私が主の分も一緒に頼みます。何が宜しいですか?」
「んー、じゃこうしよう。僕の頼みたい物を言い当てられたら、今日は無音がおごるといいよ。もし当てられなかったら、僕が無音の分も頼むからさ」
「
おや、見抜かれてるらしい。
「まさか。だって、僕が嘘をついても君は見抜けるだろう?」
「未熟な私にそんな高度な技術はありません」
「そうかな? だとしたら、嘘が嘘でも真実でもそうだと解らないのだから、この条件でいいじゃないか」
「いいえ、よくありませんっ」
僕の部下は頑固だ。良くも悪くも生真面目で、こういう些細な事でも僕に甘えようとはしてくれない。
逆を返せば、それがゆえに僕の切り札はいつでも有効打になるのだが。
「仕方ないなぁ。それじゃこれは、上司命令だ。今日はレモンティーに決定、オッケー?」
「……命令でしたら、仕方ありませんが」
無音の表情に微妙な悲壮感が漂う。
うーん、これではまるで僕が彼女を苛めているみたいだ。天に誓ってそのつもりはないが、一応自覚くらいはある。
「フェルラ、ジンジャーエールとレモンティーを一つずつ、オーダーに入れてくれるかい」
「はい、かしこまりました!」
ちょうど傍に来たウェイトレス嬢に声を掛けて飲み物を頼む。明るいソプラノが耳を通り抜け、軽い足音がカウンターへと向かっていった。
マスターと彼女の会話を意識の片隅で拾いつつ、僕は視線を再び無音へと向ける。
「さて、先に報告聞いてしまおうかな」
途端に彼女の表情が、厳しさを帯びた大人の顔になった。
そう、僕はデートのために彼女を喫茶店まで呼び出した訳ではなく、依頼した仕事の首尾を確かめるためここで待ち合わせたのだったりする。
僕の肩書きは一応、世界的闇組織『
一枚岩ではない『闇竜』という組織を事実上乗っ取ってしまった僕には、有象無象の敵がいる。そういった輩に万が一にでも僕が殺されることを危惧して、ルウィーニが、僕は断ったはずの彼女らの雇い入れを勝手に纏めてしまったのだ。
だから必然、関わる仕事は裏絡みの類が多くなる。
相手が闇竜の反分子であれ
とはいえ、自分が雇い主であれば、それぞ上司命令を駆使して彼女らを危険から遠ざけることもできる。
そう読んだからこそ、僕はルウィーニの話を受諾したのだが。
無音がテーブルに報告書を広げ、小声で僕にそれを説明する。
喫茶店で何を不用心な、と思われそうだが、ここのマスターは裏の出で、過去に相当の修羅場を潜っているからそういう局面では頼りになる。
多少歪んだ性格が玉に
それなりに付き合いも長くなれば、信用に足る相手かそうでないかくらい判断できる自信はある。
マスター、つまりルークウィルは大丈夫だろうというのが僕の下した結論で、ここ最近のミーティング場所に彼の喫茶店を借りる理由でもあった。
その証拠に、ウェイトレス嬢の
「お待たせいたしました」
幼さの残る笑顔でそう言って、彼女がトレイからテーブルに飲み物を移す。
無音の前にレモンティー、僕の前にはジンジャーエール。手つきに迷いがない所を見ると、無音の好みは覚えてくれたようだ。
「ありがとう」
「はい、ごゆっくりどうぞ!」
笑顔を残して彼女がカウンターに戻っていったので、僕は再び視線を無音に戻す。
彼女はじっとカップに満たされた紅茶を見つめていたが、僕の視線に気づいて焦ったように顔を跳ね上げた。
「
「遠慮なくいただいてくれたまえ」
一杯数十クラウンのレモンティー相手に、まるで宝石を扱うかの如き緊張の仕方だ。緊張しすぎて
かといって余計な口出しをすれば尚さら危険が増しそうだから、僕はとりあえず自分のジンジャーエールを味わいつつ、黙って眺めているに留めておく。
彼女が遠慮がちに吹きかけた息に、香りのよい湯気がふわりと散らされた。
白いティーカップを両手で持って琥珀の紅茶を口に含む無音の顔に、幸せそうな笑顔が浮かぶ。
「美味しいかい?」
「はい!」
「それはよかったよ」
本当に嬉しそうに彼女が笑うものだから、僕もつられて頬が緩んでしまった。
カウンターの方から視線を感じるから、またルークウィルに付け入る隙を握られてしまいそうだ。
こんな姿だけを見ていれば、無音は普通の少女と何も変わらない。
でも、この歳で彼女が手練れの忍であるという事実が何を意味しているか、僕は僕自身の経験からはっきりと思い知っている。
好きなレモンティー一杯で買える幸せなど、たかが知れているだろう。
彼女も、彼女の仲間たちも、自分らが置かれた境遇を悲観する訳でもなく、他人の生き様を羨むのでもなく、心底僕を慕って仕えてくれている。
そんな彼女らに一過の幸せ以上を返すことが、僕にできるだろうか。
向けられるまっすぐな憧憬に能うだけの上司になることができるのだろうか。
ぼんやりと思考を巡らせながら、何気なく浮かんだ思いつきを口にする。
「今度、博物館にでも連れて行ってあげようかな。
「博物館……ですか? 私は、
きょとんと僕を見返す灰色がかった緑の双眸。
レモンティーだけではなく、その瞳に世界のありとあらゆる面白いものを映して識って、生きる事は愉しいと感じて欲しい。
口に出すのは
僕は父の笑顔を憶えていない。
憎くて大嫌いで、いつか殺してやろうと思っていた。
それを実行に移した時にも、その後今に至るまでも、後悔や申し訳なさを感じたことなど一度もない。
ただ、彼の年齢に近づくにつれ、解ってきたこともある。
決めている事があった。
僕は、子や孫に囲まれ平穏の内に迎える
いつか
親殺しの罪人にはそういう末路こそ
いつからだろう。
それが父の辿った
そして同時に、僕が父を殺すことそれ自体が父の掌中にあった未来だったのではないかと、漠然と思うようにもなっていた。
父上、僕は貴方を手に掛けておきながら、今尚こうやってのうのうと生き延びている。
それが赦されざることだと、解ってもいる。
なのに、どうした事だろう。
その罪を忘れてしまいそうな程に、僕は最近、毎日が愉しくて仕方ないんだ。
fin.
+++
視点主、語り手はロッシェです。
彼の抜けきらない破滅願望はとっくの昔にルウィーニやルベルには見抜かれていて、それと気づかぬうちに外堀を埋められている感じがあります。この辺の話は書こうと思えばいくらでも書けそうですが……特に前後もなく、これはこれきりで。
お読みくださり、ありがとうございました!
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