E.ロッシェ=メルヴェ=レジオーラ


氷月ひづき



 早朝の訪問者が、顔を見るなりそう言った。思考が停止したまま、ロッシェは眼前に立つ男を見つめて立ち尽くす。

 自分ほどではないが高い身長、自分よりはるかにがっしりとした体躯たいく。短い黒髪と、濃い紫水晶アメジストの双眸。

 威圧されそうな存在感の出所は、強くまっすぐ自分を見据える両の瞳だ。


「ラスリード」


 あらゆる意味で予測外な訪問者に全身が萎縮しているらしい。思うほど声が出せず、名を確かめるのが精一杯だった。

 彼はにこりともせずに眉を上げ、口を開く。


「せっかく帰って来たというのに、顔も出さず旅立つとはどういうことだ? 氷月」

「ロッシェ=メルヴェ=レジオーラだ」


 今もって昔の通り名を呼ばれては敵わない。思わず訂正したら、彼はようやく口の端を引き上げて、笑みの表情になった。


「ああ、そうだったな。失礼。ロッシェ、私はおまえに会うのを楽しみにしていたんだぞ」


 遠い昔に、この男と殺し合ったことがある。関わりはただその一度きり、五年前に偶然再会しただけの彼が何故そんなことを言うのか理解できず、ロッシェは眉を寄せる。

 上司でも同僚でも友人でもなく、あえて言うなら敵対位置。けれど彼は別に、威張るつもりで高圧的に話しているのではないのも解っていた。

 昔から、そういう男なのだ。元国王という出自もあるのだろうがそれだけではなく、とにかく直情で豪胆で恐れ知らずの前向き思考。銀竜の末姫と話した時に記憶を掠ったのは彼のことだったが、まさか本人が訪ねてくるとは思いもしなかった。


「別に、顔を出さねばならない理由はないだろう」


 楽しみにされる意味が本気で解らず唸るように応じたら、彼は不意に身体をずらして、隣にいた誰かをぐいとロッシェの眼前に押し出した。


「わ、っ」


 外套で全身を隠したいかにもアヤシイ身なりの人物は、焦ったような声でフードの下からロッシェを見上げた。その薄い桜色の双眸には見覚えがありすぎて、思わずロッシェは半歩ほど後退ずさる。


「フェトゥース!?」

「待てっ、ロッシェ!」


 ここ数日ですっかり癖になった敵前逃亡は、伸ばされた両手に阻まれた。腕と襟元を掴まれてしまえば、もう振り切る気にもなれない。

 観念した気分で、ロッシェは改めて眼前の若者に向き直った。


「会いたかったんだ。お帰り、ロッシェ」


 震える声で彼は言い、ぎこちなく笑う。それだけで堪らない気分になり、ロッシェは思わず彼の背に腕を回して抱きしめた。らしくない、そんな思いが思考の隅を過ぎる。


「ごめん、悪かった。フェトゥース、泣かないでくれ」


 責められなじられる方がよほど楽だった。でも彼は絶対に怒ったり糾弾したりしないと、解っていた。だから、会えないと思っていた。

 震える肩を支え衣服を濡らす熱を受け止めながら、どうしていいか解らなくてひたすら謝罪を繰り返す。おそらく彼はそんなもの欲していないだろうけど、与えるべき言葉を自分は持っていなかった。


「本当は騎士長ジェスレイも会いたがっていたんだ。だけど奴は固いから、おまえが来るまで待つという。言っても押しても駄目だから、国王フェトゥースだけ変装させて連れて来たんだぞ」


 この格好が変装であってたまるか。ただ布をかぶせただけじゃないか。こんないい加減なことをして、大事があったらどうしてくれるつもりだこの野郎。

 ――と喉元まで出かかったロッシェは、少しだけ頭が冷えてラスリードを睨み返す。


「貴様は本気で馬鹿だな」

「何を言うか。おまえだって会いたかった癖に」


 さらりと切り返され、言葉に詰まる。何のてらいもなく核心を突いてくる所が、今も昔も腹立たしくて敵わない。さすが、食えない人物代表格なルウィーニの弟だ。


「ロッシェ、すまない。おまえが王宮に来づらいのは解るし、僕に戻れと言う資格はないのかもしれない。でも、僕はどうしてもおまえに会って、謝りたくて」


 フェトゥースが涙に濁った目を上げ、言った。不意打ち的なその発言に、ロッシェは困惑しつつも視線を彼に引き戻す。


「フェトゥースが謝ることは何もないよ」

「あるさ。僕は無知で臆病で逃げ腰だった自分を、おまえに謝らなければいけない」


 しんと落ちる沈黙を、風が乱して通り抜けた。青年王の言葉を咀嚼そしゃくして飲み込み、漠然と理解して、ロッシェはわずかに表情を歪める。


「そんなこと」


 おそらく彼は知ったのだ。隠し続けていた自分の出自も、父王の死の真相も。――自分が行ったこと、行おうとしたことを何もかも。

 自分が全部を投げ捨て逃げていた五年の間に、彼はひとしきり知って傷ついて乗り越えて、それでもこうやって会いに来てくれた。それを思った途端、まなじりが熱くなって視界が揺らいだ。


「僕は、おまえが好きなんだ」


 ちゃんと笑えていればいい。泣きそうな顔をフェトゥースに心配されるのも、ラスリードに見られるのも勘弁だ。そう思うのに、ここ数日でどうしてか自分は笑顔の作り方を忘れてる。

 残酷な真実なんて、ぜんぶ隠し通して消えてしまいたかった。ルベルと同じくフェトゥースにも、利益になるものだけを残してやりたかった。

 そのやり方が間違っていたと言うのなら、今さら彼のために何ができるというのだろう。


「好きなら、戻ってきたらいいじゃないか」

「出来ないよ。僕は、罪人だ」


 本当の理由はそれではないのだけれど。

 素知らぬ顔で復帰できるはずがないことくらい、彼も自分も元同僚たちも解っているに違いないから、ロッシェは会話を終わらせるためそう口にする。思った通りフェトゥースは言葉に詰まったが、返答はなぜか予想外の所から返って来た。


「この時世、おまえが罪人ならライヴァンすべてが同罪だ。人殺しは善いことではないが、それより悪いのはその罪を誰か独りにかぶせることだ。負うなら全員で負って、皆で断罪されるべきだろう?」


 右手首から先が欠損しているくせに腕組みをして、いかにも傲然ごうぜんとラスリードは言い、ロッシェは数刻固まって彼を見返してから眉間にしわを刻んで言い返す。


詭弁きべんはいい」

「でもロッシェ、僕もそう思う。おまえを、ずっと身代わりにして来た僕だって、同罪だ」


 真剣な瞳を向けられ、多少の混乱を覚えつつもロッシェはフェトゥースに向き直る。そんなことを言わせたいわけではなかった。


「僕もジェスレイも他の皆も、おまえには戻って欲しいよ。だけど、今まで何一つ自分のために生きられなかったおまえの、自由を縛るのはもう嫌だから、せめて、お帰りとありがとうを言いたくて」


 ロッシェは黙って年下の主君を見つめる。

 自分ほど弁が立つわけでもなく、無能だ凡庸だと陰口を叩かれ、国を滅ぼす王と囁かれて繰り返し命を狙われた。でも自分は、彼こそが稀代の名君になると信じて疑わなかったし、その確信は今も揺らいでいない。

 す、と姿勢を屈めて片膝をつき、ロッシェはフェトゥースを見上げる。彼が戸惑うように瞳を揺らし、衣服を掴んでいた指を離すのを確認してから、おもむろに頭を垂れて口を開いた。


「私の主は陛下、貴方のみです。貴方の剣となり楯となり、この身一生涯の忠誠を、ただ貴方のみに。……改めて、フェトゥース国王」

「――解った。ロッシェ、今すぐにではなくとも必ず、ライヴァンに帰還するように」


 震える声でフェトゥースが応じた。ロッシェは黙って、視線を地に向けたまま口元を緩める。


「了解、陛下」


 自由を、と。そう彼は自分に言った。

 それならば、断罪を望むのは主君への不忠実と相違ない。詭弁でも、彼が理由をくれたのなら、自分はそれに従おうと思った。

 選ぶならただ一人。

 永劫変わらない、ひるがえすつもりのない誓いを、彼以外の誰にも捧げたりはしない。


「良かったじゃないか」


 唐突に空気を読めない男が発言した。脊髄反射で立つのは負けた気がして悔しいから、ロッシェはひざまずいた姿勢のまま顔を上げてラスリードを睨みつける。彼は視線に気づき、軽く眉を上げた。


「帰還は不本意で再会も余計な世話だったろうが、結果、思い切る後押しになったのだから、良かっただろう?」


 そんな簡単にまとめてしまって、この男は。

 本当に、こういう所はどうしようもなく敵わない。そう思ったら自然と笑みが口元に上った。終わり良ければすべて良しなんて御伽噺おとぎばなしみたいな戯言ざれごとも、この男が口にすれば妙に真実味を持って迫ってくる。

 なぜか悪い気分ではなかった。


「ああ、感謝してるさ。貴様の兄が、結局のところ黒幕だろうしね」

「ルゥイが? ああ、確かに考えそうだな」


 二人のやり取りにフェトゥースがくすくすと笑い出し、つられるようにラスリードも表情を緩ませる。それを見て、今さらながらに実感した。

 きっと自分はルウィーニとラスリードというこの対照的な兄弟を、案外嫌いじゃないのだろう、と。





 人殺しに携わるようになって、まだ間もない頃。裏庭で、翼が折れ傷ついた若い鷹を拾ったことがあった。

 当時は、怪我を処置する方法も鷹が何を食べるのかも知らず、聞ける相手もおらず、弱まっていく命を膝に乗せ、ただただ茫然とするだけで。

 胸を満たしたうずきが、哀しさだったか悔しさだったかも解らなくて。


「そのこ、死んじゃうの?」


 不意に掛けられた幼い声。優しげな薄紅色の両眼と視線がかち合い、向けどころのない罪悪感に胸が震えた。


「ごめんなさい。助けられなかった」


 当時は言葉が巧く使えず、それだけ言うのが精一杯だった。拾ったのが自分でなければこの鷹は再び空へ戻れたのかもしれない。自分が知る技術は命を救うことではなく、狩り獲る術だから。

 幼い少年は何を思い、自分の言葉をどう理解したのだろうか。

 小さな手を伸ばし、膝の上の鷹にてのひらを重ね、自分を見上げて言ってくれたことばを、一生涯忘れはしないだろう。


「ぼくもいっしょに、見てる。ぼくにも助けられないから、おんなじだよ。ごめんなさい」


 小さなぬくもりが鼓動を止め、魂が飛び去り、やがては冷え切って、日が沈んで城が闇に沈むまで、幼い少年は自分と一緒に座っていた。互いに何も語らず、慰めあうこともしなかったけれど。

 おんなじだよ、と。

 ありふれた一言がなぜあんなに響いたのか解らない。


 失いたくないと、祈りのように思った。

 あっけなく命を失った羽毛を仲立ちに、膝に伝わるてのひらのあたたかさ。この小さな身体を殺すのが、どれだけ簡単か識っている。


 それから数年の時を経て、彼が世継ぎの王子だと知った。淡い月色の髪と薄い桜色の双眸を、忘れるはずがなかった。

 祈りが誓いに換わったのはその時からだ。

 王にあだなす者を殺すことが王子の居場所の安定につながるのなら、積み重ねてゆくだけの自分の罪も、幾らかゆるされるような気がして――……、



 いずれ彼が王位を継承すれば、すべて良くなると。

 甘い幻想のような希望にすがりついて、罪を重ね、気づけばその反動が彼を追い詰めて、あの優しい色の双眸から熱を奪ってしまっていたのだ。

 そんな愚かさを繰り返さぬようもう二度と傍には寄らないと決めたのに。あんな風に言い寄られて、あっさり決意が砕けるなんて。自分はずいぶんと甘え癖がついてしまったらしい。


 それほどまでに好きなのだ、と思い知る。他の誰が、なんと言おうと。

 はたから見ればなんてバランスの悪い忠誠だろう。

 それでもいい。




 施政の天才という名はルウィーニにくれてやる。彼の補佐があれば内政と外交はまず心配ないから、少しだけ諸国を廻って糧を得て。萎えた力を再び蓄えて。

 自分が御すべきはもっと奥深い闇の向こう。ぎらつく瞳で利をうかがう地下の竜だ。


 さて。

 始めようか。



 ひっそり囁かれた宣戦布告がカタチを為すのは、あともう少しだけ未来の物語。






 fin.

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