FreezingMoon


 吐く息の白さは、自分がまだ生きてることをかろうじて思い出させてくれる。

 衣服を染み透る夜気の冷たさに震えが止まらなくて、襟元に毛織のショールをかき合わせた。


 これが人生ではじめての外出だなんて。

 溜め息を吐くと体温が逃げちゃうかもしれない。こんなに寒いなんて予想外、知っていたならもっと厚く織られたコートを探したのに。


 今歩いている場所がどこか、わたしは全然わかってなかった。部屋にあった地図に載ってたいちばん遠い場所を指定し辻馬車を走らせて、止まって降りた場所がここ。

 行けるなら、どこでも良かった。

 寒さのせいかツキツキ痛む胸を押さえ、わたしは空を見上げる。

 真っ暗闇の空に銀砂を撒いたような星の海。ナイフの先みたいに鋭利な弓月が、そのまんなかで冷たい輝きを放っていた。


 生まれて初めて外に出て、固くて冷たい石の道路に立って、凍った夜風に巻かれて見上げる冬の夜空。

 ふぅわりと、鼻先をかすめて白いモノが舞い降りる。


「あ」


 どうしよう、雪が降ってきちゃった。

 限界まで冷え切った身体が本当に動かなくなる前に、どこかへ行かないと。

 でも、どこへ行ったらいいんだろう。


 尋ねかけて答えをくれる相手なんかいないから、わたしはさっきより強くショールをつかんで歩き出す。凍りかけのみちにヒールが滑って歩きにくいけど、裸足よりはマシだろう。

 こんな寒い夜だもの、通りを歩く人は少なくて、わずかにすれ違う人も自分の足元に精一杯だ。遅い時間だからきっと馬車はおしまいだし、どこの家でも固く閉まった扉の向こうで夕飯の支度がはじまってるに違いなくって。


 人生はじめての外出が家出だったりすると、こんな時どこに行けばいいか解らない。

 だんだんカタマリが大きくなり勢いを増す雪から逃げるため、とにかく屋根のある場所を探してみる。少し先の大きな建物の下ならなんとか雪をしのげそうだった。

 もうほとんど感覚のない足を無理やり動かして屋根の下に逃げ込む。見上げれば、螺旋を描きながら降りしきる雪で星も月も見えなくなってて、ひどく寂しかった。

 建物の壁に背中をつけてうずくまり、両手に息を吐きかけて温めてみる。背中越しに聞えるざわめきからして、この建物は酒場か食堂なんだろう。


 お金は持ってるけど入っていいのか解んない。こういう場所を使ったことがないから、どうすべきかがよく解らない。

 わたしは白く渦を巻く空を見上げる。

 螺旋に吹雪く白がひどく幻想的で、不気味にうつくしくって。なんだか目が離せなかった。


 この店に入って夕食と宿を頼むか、あきらめて家に帰るか、このまま凍えて死ぬか。

 最後の選択肢には心惹かれるけど、ここの人たちに迷惑をかけちゃう。でも、立ち上がろうにも足は凍えて、いうことを聞いてくれなかった。

 肩に巻きつけたショールを口元を覆うように引き上げる。

 誰かの助けなしでは何もできない自分が、どうしようもなく哀しかった。




 きし、きしと雪を踏む足音に、なんとなく視線を上げる。そして、びっくりして息をのんだ。

 見上げるほど大きなヒトがすぐ前に立ってわたしを見下ろしてる。

 わたしが小柄だから大きく見えるんじゃなく、頭の位置が軒天より上にあるんだから本当に大きい。

 その人は驚きに固まってるわたしを見ると、身をかがめてしゃがみ込んだ。


「こんな所で何をしてるんだ?」


 低くおさえられた声と壮年といっていい顔つきの、男のひとだ。紺青こんじょうの髪には雪のカケラが降り積もり、髪の間から突き出す羽耳にも積もってる。でも、正面から見る限り大きな翼が見えなかった。

 翼を失った翼族ザナリール

 歴史の本で読んだ、魔族ジェマの離反と他種族との争いを思い出す。歴史の中で翼族ザナリールは、とてもつらい運命をたどってきたのだって聞いた。

 この人ももしかしてそれに巻き込まれ、翼を失ってしまったのかもしれない。


「寒くないのか? 動けないなら、医者に連れて行ってやるが」


 答えないわたしを心配してくれた。一瞬、うなずこうとして、やめる。帰らなきゃって思いが頭を通り過ぎたけれど、まだ帰りたくなかった。


「大丈夫。人を、待ってるの」

「……それならいいが」


 わたしの嘘に彼は困ったふうに眉を寄せ、不意に自分の着ていた外套を外した。そして、うずくまるわたしにくるりと巻きつける。


「早く来るといいな」

 小さく笑った表情がなんだかすごく優しくて。


「うん」

 わたしは泣きそうになって答える。


 彼は立ち上がり、軽く頭を下げて歩き出した。

 遠ざかる大きな背中にやっぱり翼はなかった。




 風の民である彼らでも、翼ナシで飛ぶことはできないと聞いた。

 翼族ザナリール所以ゆえんたる両翼を失った彼は、どんな思いで生きてきたんだろう。

 低い声と穏やかな瞳を思い出して、心が震えた。


 わたしの心臓は欠陥品で、二十歳まで命を維持できないって小さい頃から言われてる。そのタイムリミットはもうすぐそばまで迫ってきてるけど。

 わたしはあんなふうに揺るがない足取りで、歩いていけるのかな。

 雪が降ったくらいで動けなくなっちゃってるわたしが、どこかへ行くなんて無理かもしれない。





 悲しい気分でショールに顔を埋めていたら、通りに突然、賑やかな歓声が響いた。眠りかけていた意識がはっと覚醒し、顔を上げたら、ちびっこが向こうから全力疾走してきてる。


 この雪道は走るのに向いてないのに。そう思った矢先にやっぱり勢いよく転んじゃって、ちびっこはわんわん大泣き。声をかけるも助け起こすもわたしからはちょっと遠い。焦る気持ちで見ていたら、そこへぽてりとした奥さんが走ってきた。

 灰茶の髪に隠れたちいさくて可愛い獣耳と、ふんわりとがった短いしっぽ。

 獣人族ナーウェア……アナグマさんかな、と頭をよぎる。丸眼鏡が鼻の上に乗っかってて、走る拍子にぴょこぴょこ跳ねてる。


 この世の終わりみたいな悲愴さで転んだまま泣き叫んでるちびちゃんの所に、お母さんはあっという間に到着して助け起こした。

 スゴイ、わたしだったら絶対転んじゃう。

 雪まみれで立って泣き続けるちびちゃんの身体から雪を払い落としながら、お母さんは何か言い聞かせてる。雪の日は危ないから走り回っちゃダメよって教えてるのかな。そう思ったら、ほほえましくて頬がゆるんだ。


 やっと泣き止んだちびちゃんは真っ赤な顔だけど、お母さんは頭をポンポンなでて、今度はしっかり手をつないで、来た道を戻ってく。

 きっとあのてのひらは、勢いよく降りしきる雪なんて気にならないくらいあったかいに違いない。そう思ったら自然に笑いがこみ上げて、ちょっとだけ涙が出た。




 パパもママも、あんなふうにわたしと向き合ってくれたことはない。叱られたことも言い諭されたことも、憶えてる限り一度もない。

 こんな身体に産まれついたのはパパやママのせいじゃないって、ちゃんと解ってるのに。

 そんな簡単なことがどうしてか二人には解らないらしく。叱って欲しくて、たくさんワガママ言って。……いつからかな、それがあきらめに取って代わったのは。


 わたしの命の期限がどうにもならないように、二人の気持ちがわたしとかみ合うことはない。悲しいけどそれは仕方ないことなんだろう。

 わたしがママになったらそうはしない。ちゃんと目を見て、愛して、叱ってあげるの。さっき見たアナグマお母さんみたいに。




 ……本当は、そんな夢叶わないと解ってる。

 わたしの弱った心臓は出産の負担に耐えられない、わたしだけじゃなく赤ちゃんにも危険が及ぶだろうって。

 何度、主治医に尋ねても、返ってくるのは決まった答えだった。

 届かないと解っていてなおいっそう、望んでしまうのはなぜなんだろう。





 親子の姿が闇にまぎれて見えなくなると同時くらい、反対方向から背の高い影と小さな影がふたつ、やってきた。妖精族セイエスの女性と人間フェルヴァーの子供たち、珍しい取り合わせじゃないかな。


 茶髪の男のコは十に満たないくらいなのに勇ましく木刀を下げてた。あちこち破けた服に顔の絆創膏、キラキラ輝く青い目から、やんちゃ具合が良く解る。

 女のコの方は少し年上で、金髪をリボンで二つ括りにしてた。茶色の目はやっぱりキラキラ輝いてて、女性を見上げておしゃべりに夢中。

 静かそうな雰囲気の妖精族セイエスさんは、右手を男のコ、左手を女のコとつないで、はにかむように微笑んでた。家族か友だちか判らないけど、子供たちを見る青緑の双眸はとても優しげで。

 なんとなく、木刀を振り回して森を駆け回る男のコとそれを追っかける女のコが目に浮かんで、胸があったかくなる。男のコはどんなに言って聞かせても無茶をやめそうにないし、生傷絶えなさそう。でも、妖精族セイエスの彼女は魔法も医術も得意だろうから、困り顔で微笑みつつ優しく手当てしてくれるんだと思う。


 こんな遅い時間にどこ行くのかな。

 森に向かってるのか、街に家があるのか、余所者のわたしじゃ方向からは判断できなかった。




 閉鎖的って思われがちだけど、妖精族セイエスのひとたちが実は優しく気さくだって、わたしは知ってる。わたしの主治医もそうだから。

 医者の代名詞にされるくらい医術に長けた彼らも、生まれつきの欠損は治せない。それができるのは世界中捜しても五本指で足りるくらい少ないんだって。


 無力でごめんね、って先生は謝るけど、わたしは間違いなく先生の優しさに救われてる。

 部屋にいないのを知ったら、先生は心配して自分を責めちゃうかもしれない。

 通り過ぎてった彼女のはにかみ笑顔は、先生がわたしに向ける表情とどこか似ていた。




 誰のせいでもないの。

 パパのことも、ママのことも、先生のことも、大好きよ。

 だから泣かないで、自分を責めないで。

 わたしは、あなたたちから逃げたいんじゃない。





 強い眠気のせいで夢と現の境目をさまよいながら、心の中でうわごとみたいないいわけを繰り返すわたしの、耳に。風に混じった笑い声が聴こえてきた。重いまぶたを持ち上げ、そちらを見る。


 かすんだ視界に真っ先に見えたのは、鮮やかなピンク髪の男のコ。先のとがった耳は魔族ジェマで、ひょろりと背が高く肌が浅黒い。両手を頭の後ろに組んで、懐っこい笑顔で隣の少女に話しかけてる。

 一緒に歩く小柄な女のコは、ロングストレートの白髪はくはつに灰色の獣耳、背中に大きな白翼。着てるのは白い薄地のワンピースでしかも裸足、なのに全然寒そうじゃない。もしかしたら精霊さんなのかも。

 一生懸命しゃべってるのは男のコの方で、精霊の彼女はほんのり笑いながら聴いてるだけ。それでも仲良さそうで楽しそうで、羨ましいな、と思った。

 と急に、離れたわたしにも解るくらいはっきりと彼女の獣耳が張った。一瞬振り返り、男のコの腕を取って走り出す。魔族ジェマくんも振り返り、目をみはって駆け出した。


 賑やかな足音を引き連れ誰かが追いかけてくる。わたしの目の前を通り抜けざま店の明かりで見えたのは、制服姿の警備兵たち。

 人気の少ない往来に彼らの蹴立てた雪が白く舞い上り、風に吹かれて散ってった。

 わたしはただ茫然とそれを見送って、それから雪の勢いがずいぶん弱まったのに気がつく。油断すると襲ってくる睡魔のせいで、時間の感覚が曖昧あいまいになっていた。




 犯罪者なのか、もっと複雑なワケアリかは解らないけど。振り返って走り出した二人のたのしげな表情がなんだか忘れられなかった。

 きっと彼らは自由に生きて、自分たちの意志で逃げてるに違いなくて。


 わたしはどうしたいんだろう。

 足元にぱっくり口を開け待ちうける逃れようのない終焉しゅうえんにあらがっても、苦痛が増すだけなのは解ってる。なにひとつ夢を叶えられないこんな生はあきらめて、来世を望む方がきっと、楽だろうって。

 だけどこの記憶が……わたしという存在が、この時代のこの国に確かに生きてた事実が、誰の中にも残らないなんて悲しすぎる。


 逃げきれなくても、いい。

 閉じた世界で終わりに怯えながら命をながらえるより、わたしは。

 死ぬまで、逃げてみたかったの。





 いつの間にか雪はまばらになっていて、雲の切れた闇空にあの弓月が輝いてた。ひどい眠気に意識を奪われそうになりながら、わたしは夜空を見上げる。


 切り殺されそうに冷たい夜気のせいか、銀月が氷の刃のよう。

 寂しそうで、痛そうで、涙がにじんで両眼が熱い。

 このまま誰にも見つけてもらえず凍った空の下で命を終えるのも、わたしらしくて似合ってる。そう思った。


 トロトロとまた遠のきかけた意識に、カラン、とドアチャイムの音が響いて、わたしはぼぅっと目を上げる。店の扉が開いていて、出てきた人と視線がかち合った。

 明るい店内から漏れた光を背負い、長く伸びた影。その主はすごく背の高い男のひとだった。怪訝けげんそうに細められた双眸には、たぶん今、わたしが映ってる。


「なにをしてるの?」


 独り言じみた単調な抑揚よくように迷いながらも、この場にいるのは彼とわたしの二人きりだったから、わたしは彼を見上げ返答する。


「ひとを、待ってたの」

「……へぇ。誰を?」


 皮肉げに口の端をつり上げた笑顔で彼は聞き返してはくれたけど、目がぜんぜん笑ってない。関わり合いになりたくない、……そんな拒絶が雰囲気に表れてる。


 震えの止まらない身体と、うずく胸。

 もう、うまく言葉を話せない。

 彼がわたしを通り過ぎてしまったら、もうここで死んでもいい。

 言葉を交わすのも、顔を合わせるのさえも、初めてのひとだけど。


 もしもあなたの目にわたしが、今にも消えかけの哀れな命と映ったのなら。

 どうかお願い。


「あなたを、待ってたのよ」


 震える息で吐き出した最後の言葉は、確かに届いて、彼が困惑したように眉を寄せるのは見た。――それだけは憶えてる。

 遠のく意識にくらりとした浮遊感。夢か現か解らないけど、凍りきった身体にじわりとしみこむ穏やかな熱。

 このまま死ぬのか、どこかに連れて行かれるのか。

 彼が誰でどんな人間ひとかも解らないけど、怖くはなかった。


 重く視界をふさぐまぶたの裏に、凍った弓月。

 あと幾つかの夜を越えたら闇に食われて消えちゃうなんて、わたしとおんなじじゃない。


 細くて強い腕の中、そんなことを考えながら。

 わたしの意識は、闇に溶けていった。






 fin.

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