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LastWill


 ――たとえば。

 明日、世界が終わるのだとしたら。



 白い革張りのキャンバスに、黒炭こくたんの線がいくつも重ねられる。

 もともと細い両目を細め、彼はただ一心にそれを描いていた。


 閉めきった窓の隙間から射し込む陽光――室内の光源はただそれだけだったが、常人ならば物の形も見分けられぬ薄暗い空間で、長い指はたがうことなく、ひとつの絵を描きだしてゆく。




 †




「世界なんか終わってしまえばいいって、ずっと思ってた」


 細く白い手で首を抱き、耳もとにささやく優しげなアルトヴォイス。

 燃え落ちる館の中で放心したように座り込む彼を、抱きしめて。


「二十年生きられないって、うんと小さいころお医者さまに言われたの。だから、お父さまもお母さまも、いつもわたしには優しかったわ。どんなワガママで困らせても、最後には聞き入れてくれた。本当ならわたし……こんなに生きてキミに逢うなんてありえなかったの」


 長い腕が不器用に回され、彼女の身体を抱いた。

 彼は無言のままだったが、……そのてのひらの力は、爪先が肌に食い込むほどに強い。


「ずっとずっと、生きた証を遺したかった。恋をして、白いドレスと花束で結婚を祝福されて、子どもを産んで、穏やかに歳をとって……」


 ありふれた平凡な人生を歌うように語りながら、彼女はくすりと笑う。


「恋の相手なんて、本当は誰でも良かったの。いつかは別れなくちゃいけないのに、本気になったらお互い哀しいじゃない? ――そう、思ってたのに」


 ぱたり、と、石のタイルを敷きつめた床に雫が落ちた。


「わたしは、キミが大好きになっちゃってた。キミの気持ちがわたしに向いてないなんてずっと知ってたけど、大好きなの。だから、子どもを授かったときは本当に嬉しかったの」


 名を呼ばれ、彼の細い両目に光が揺らぐ。ふふ、と彼女は笑った。


「でも、産めば身体がもたなくて死ぬ、って言われた。わたしはそれでも良かったわ。二十年生きられなかったはずのわたしが、キミと逢って恋をして、子どもまで授かるなんて……奇跡だと思ったから」

「……ごめん」


 彼がようやく言葉を発した。怯えたように震えた声。彼女は笑んだまま、否定の意に首を振る。


「残りわずかだったわたしの時間。どうせなら、大好きなひとと過ごしたいじゃない? ニセモノだったキミとわたしの関係が、今やっと本物になったんだもの。わたしとキミと、そしてこの子、――わたしたち、本物の家族なのよ」


 びくりと身を震わせ、彼は目を伏せる。血を吐くような告白が、崩れる壁の音に混じって落ちた。


「僕にそんな資格はない、リィン……僕は死神だ。君から全てを奪い、君自身の命さえ奪おうとしている、死神なんだ」

「キミは人間ひとよ、ロッシェ」


 彼女は笑い、そして彼にくちづけた。

 触れるだけのキスが、柔らかく彼の涙をぬぐう。


「ずっとずっと、世界が壊れてしまえばいいって思ってたわ。いつか来る自分の終わりの前に、世界が終わってしまえば――……さみしくないって。でも、今はそうは思わない」


 ふわりと微笑み、彼女は続ける。


「わたしたち一家を消すために遣わされた暗殺者アサシンが、キミでよかったわ。わたしの最期の時に隣にいてくれたのが、キミでよかった」


 細い手が、彼のかたわらで無造作に横たわる血塗れの三日月刀シミターを拾いあげた。

 凍りついたように見つめる彼の前で、彼女は微笑んだまま胸に手を当て、刀をかかげ持つ。


「キミには負わせない。だからキミは、わたしの分も引き受けてこの子を愛して」


 炎のカケラが降りしきる中、銀の刃が閃き、鮮血が散った。



「キミが大好きよ、ロッシェ。わたしの途切れた未来の続きは、キミにぜんぶ任せたわ」




 †




 軽く扉を叩く音がして、彼は描く手を止め視線を傾けた。

 入って来たのはほっそりとした背の高い女性。腕に赤ん坊を抱いている。


「ろくに食事もとらないで、ほぼ徹夜でもう三日。……しまいには倒れてしまうわよ?」


 彼は、双眸そうぼうを細めてにこりと笑んだ。


「大丈夫だよ、母さん。慣れてるんだ。それよりルベルは大丈夫?」

「ええ、熱は下がったようだけど……私に任せっぱなしにしていないで、降りて来ててあげなさいな」


 もう早速キャンバスに向かってしまった息子に呆れたように母は言うが、彼は手を止めようとせずに答えた。


「これだけ描いてしまったら、そのあとはずっと一緒にいてあげると誓うよ」


 彼女はため息をついて、白い大きなキャンバスを見る。

 描かれた四人の人物――背の高い男性、小柄な女性、その腕の中の幼い少女、そして初老の婦人……。

 時と空間を同じくして、この四人が一堂に会したことなど一度もない。

 それでも息子にとってこの家族が、記憶だけで描きだせるほどに現実のものなのだと知る。


「……暗くないの?」


 なんとなく尋ねたら、彼はささやくように答えた。


「周りが良く見えない方が、鮮明におもいだせるのさ」





 世界が終わる、だなんてのは、ただの幻想だと気づいていた。

 ひとが生まれてひとが死に、それでも世界は変わらぬ事象を繰り返す。

 そんな理不尽でしたたかな世界が終わるなんて、ありえないと気づいていた。


 眠る幼い娘の額に軽いキスを落とし、立ちあがって部屋を出る。

 静かにざわめくこずえの音と、遠くで鳴きかわす獣の遠吠え。夜の空気はただただ静かに透きとおっている。



「でもね、リィン。あの日確かに一度、世界は壊れたのさ」


 目を伏せ、小さく笑ってつぶやいた。

 炎によって燃え崩れていく中、失われた命と託された命。

 降りしきる灰と火の粉の中、空が崩れて降ってきたような錯覚を覚え立ち尽くした。

 がらがらと音を立ててカタチを失っていく館とともに、彼をとらえていた世界もまた、壊れて終わったのだ。



 教えられ、命じられるままにひとの命を奪い、生きる。

 そんな閉ざされた世界から、外に出る方法なんて知らなかった。


 けれど。




「僕は、叶えたいと思ったんだ」


 未来をつなぐという、彼女の最期さいごの望み。

 つぐなうとか、あがなうとかではなく。ただ強くそう思ったのだ。

 愛とか恋とか……名づけに意味はない。そのために生きたいとはじめて自分を突き動かした、本気の想い。


 それはまぎれもなく、ひとつの世界の崩壊だった。




 扉を開け部屋に入り、閉めきったカーテンを、勢いよく開ける。

 窓から明るい月光が射しこみ、部屋の中央の大きなキャンバスに色を与えて浮かびあがらせた。


「僕と、リィン。ルベルと、母さん」


 指でひとりひとりを確かめ、ささやく。

 過去には一度も叶うことなく、未来にも永久に叶うことない、ニセモノの記憶だけれど。


「生きた証はここに在るよリィン。君が得るはずだった、――僕が奪ってしまった未来を、確実にルベルに返すために僕は生きるから」



 たとえもう二度と、触れることができないとしても。

 永久に、言葉をかわせなくても。



「君は僕のただひとりの妻だ」




 †




 残酷な未来を回避できないのなら、世界なんて滅びてしまえと――いくど願っただろう。

 過去を変えることができないのなら、誰かが自分を断罪し、殺してくれればと。

 何度も、夢想した。


 ――それでも。


 石のカケラを拾い、ガリガリと岩の表面を削って、絵を描く。

 幼い少女の笑う顔。

 どんなに遠くにいてもこんなに鮮やかに眼裏に浮かぶ、大切な大切な一人娘。


「愛しているよ。リィン、ルベル」


 館に大きく飾られた幸せそうな家族の絵。自分がそばに在れば、いつかはその記憶がニセモノだという真実に導いてしまうだろう。


「おまえは、愛された記憶、幸せな想い出だけを抱えて大きくなって――、僕のことは忘れてしまいなさい」


 残酷な真実には、永久に気づかぬために。

 口もとだけで薄く笑ってまぶたを伏せたら、ぱたりと雫が落ち、乾いた地面に吸われて消えた。




 ――カタチあるものは、いつかは壊れて消えてしまう。


 ならば、

 僕が消えてしまえば、ニセモノの記憶は絶対に壊れないだろう。


 そんな逆説的な確信に根拠などなかったけれど。




 †




「パパは、すごく背が高くて、優しく笑ってルベルの頭をなでてくれるんです。でも五年前にお仕事で出たっきり帰ってこれなくて、手紙とかも届かない場所だって聞いたから。だから、ルベルから会いに行こうって決めたんです」


 いまだ子どもの域を抜けない少女は、かたわらの連れに一枚のラフスケッチを見せながら、嬉しそうにそう話す。

 描かれているのは若い男性の似顔絵だ。

 恐らく、父親の絵なのだろう。

 強引に押しかけられ、道連れに指名されてしまった連れの賢者は、ひとのよさそうな困り顔で微笑みながらそれを聞いていた。


 この子はきっと、叶えるまであきらめないだろう。

 不意に浮かんだその考えは、あるいは予感だったのかもしれない。




 †




 ――たとえば。

 明日、世界が終わるとしたら?


 声が、届かなくても。

 手を握るには、遠くても。

 大好きなひとだから……後悔なんてしたくない。



「その前に、ルベルは、パパに逢いに行きます」






 fin.

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