11-3 再会


 なだらかな坂を登って丘の中腹から遠くまで見渡してみるが、ムルゲアに連れられて来た磯は小さな入り江に続いているだけだった。

 かなり高さのある岩塊が関所のように連なっている。船は入れそうになく、下を潜り抜けるのでなければ、あの崖端をよじ登るしかないのだろう。

 どうせ船は沈んでしまったし、他三人を捜すにしても外海に出る必要はないから無関係なのだが、やはり『番人の門』を通らず航路の門まで行く道はないのだと、改めて思い知る。


 アルエスは溜め息をついて、反対側に目を向けた。そこには巨大な魔獣が微動だにせず、石造りの門を守っている。


 黒く長い毛に覆われた長い首と細長い頭。半開きの口からは長く鋭い牙と、ヘビのように先が二股になった赤い舌が覗いていた。長く垂れた耳の上には、鋭く長い角が三本。

 灰混じりの白い毛が胴と尾を覆い、背には黒いコウモリの翼が生えている。地面に届かない小さな前足には長く鋭い鉤爪が二本。長い尾の先には毛に埋もれて蠍に似た曲がり針が一本。そして時折り動くルビーのような瞳。


 リンドは門を通ろうとしない限り襲ってこないと言っていたが、それでも出来れば近づきたくない、恐ろしげな様相の獣だった。


「ねぇ、シィ。虎のお兄ちゃんの気配とか、ルベルちゃんやセロアさんの気配とか、解んない?」

『近くには感じないシィ。まだ、門の向こうにいると思うシィ』


 自信なさげに水精は答える。魔力感知に長けた精霊が中位精霊ほど存在力の強い相手を見失うことなど有り得ないのだが、いくら感覚を研ぎ澄ましても大きな炎の気配を拾うことができないらしい。

 下位精霊のオーシャードでは、それが何を意味しているかまで解らなくても仕方なかった。


「そっかぁ。ボクたちは通行券持ってないから、あの門は通れないんだよね。シィなら海を通って反対側に回れる?」

『やってみないと解んないシィ。結界に邪魔されるかも……』


 やっぱり自信なさそうな答えが返る。

 四方海に囲まれた場所で、海の精霊である彼が弱気なのは珍しい。それだけこの島には、不安を掻き立てる何かが満ちているのだろうか。


「行ってくれる?」


 とうとう、返事がなくなった。

 アルエスは黙って、肩に乗ったまま目を合わせないように反対方向を見ているシィを、横目で見る。つまり、離れたくないらしい。


「あ! 【風便りウィンドメール】で手紙送れば届くかな?」

『それは名案だシィ!』


 今度は即座に声が返った。怖いならそう言えばいいのにと思ったが、口にすると拗ねられそうだったので、アルエスはそこは胸のうちに収めておくことにした。

 手紙を書くといっても、荷物は船と一緒に海の藻屑だし、身に着けていた物も海水に濡れて紙もペンも使い物にならないだろう。何か代用できる物を探すにしても、岩と海草じゃどうにもならない。

 アルエスはぐるり辺りを見回すると、丘を登りだした。シィが慌てたように頬をつつく。


『アル、一人で遠くは危ないシィ!』

「ほら見てシィ、あの辺の葉っぱなら使えそうじゃない?」

『……聞いてないシィ』


 辺りに人の気配はなかったが、それでもアルエスは用心深く岩の間に身を隠して、そこに生えていた平たい草の葉を一枚むしると凹凸の少なめな所に広げた。

 近くに落ちていた細長の小石で、葉を破らないよう慎重に傷を付けていく。

 シィは不安そうに彼女の傍に浮かんでいたが、一応見張ってくれてるらしかった。

 数分ほど掛けて作業を終え、くるりと丸めると小声で魔法語ルーンを唱える。

 魔力は違いなく発動し、葉っぱの手紙は一瞬で小鳥に変化して、空へと羽ばたいていった。


「なんか、探せば薬草とかもありそうだねー」


 岩の裏側を覗き込むアルエスの隣で、シィは不安そうに辺りを見回している。


『駄目だシィ、戻った方が……シィーッ!』


 不意に何かに気づいたのか、警戒音じみた声を上げてアルエスの後頭に突撃した。

 弾みで岩の隙間に頭から突っ込んでしまい、アルエスは涙目で彼を見上げる。


「痛いっ」

『シィィ、ヒトが来るシィ!』

「シィこそ静かにしてよっ」


 焦ったように動き回る水精を両手で捕まえ岩の陰からそっと窺い見ると、確かに数人の人影が丘を磯の方へと下って行くところだった。

 アルエスは唇を噛んでシィを押し込める。


「シィは隠れてて。ウサギお兄さんとリンちゃん、大丈夫かな」


 ぱしゃんと水の散る音がして、水精の気配が消えた。アルエスの術具の中に隠れたのだろう。

 人影は岩場をうろつきながら何かを捜している雰囲気だ。もしかしたら二人は、水中に隠れたのかもしれない。


人狼ワーウルフ魔族ジェマがいる」


 焦燥がせり上がってきて、無意識にアルエスはてのひらを握り締めた。

 獣人族ナーウェアほどではないにしろ嗅覚に優れた彼らは、大抵の痕跡を見分けてしまう。それに、高熱のフリックをこれ以上海中に沈めていては、本当に命に関わる。

 残った魔力はあとどれくらいか。こんな場合に有効なのは何か、使える魔法を一通り頭の中で巡らせて、アルエスは意を決した。


 周囲の精霊たちの気配は穏やかだ。つまり、強い干渉力は働いていない。ということは、向こうに高位の魔法使いルーンマスターはいない。

 小声で魔法語ルーンを唱え、自分の気配を周囲に同化させる。嗅覚や聴覚に優れた獣相手では効果が薄いけれど、人族相手ならよほど近づかれない限り気づかれないはずだ。

 互いに近い位置で、目視できるのは三人。全員まとめてターゲットに出来そうだけれど、効果を届かせるにはまだ距離が遠い。


 不用意な音を立ててしまわぬよう姿勢を屈めて慎重に岩陰を伝って近づくと、アルエスは再び魔法語ルーンを唱えた。

 今度は、闇に属する【眠りの雲スリープ・クラウド】を生じる魔法。向こうが気づいていない今なら、完全に不意打ちを仕掛けられるはずだ。


 二人、三人。倒れるように眠り込んだのを確認し、安堵したのも束の間。

 異変に気づいてか磯の方からもう一人が登ってきたのを見て、アルエスは慌てて岩陰に隠れる。見えたのは一瞬だけれど、たぶん間違いなく魔族ジェマだ。

 姿隠しの魔法は今ので解けてしまったから、向こうも自分を見ただろうか、解らない。


『アル、ヤバイこっち来るシィ!!』


 唐突に頭の中で声が鳴り響いた。咄嗟にアルエスは【暗闇ダークネス】の魔法を唱え、彼の周囲を真っ暗にすると崖に向かって駆け出した。

 たぶん相手はあの程度、すぐに解除してしまうだろう。それでも幾らかでも足止めになれば、その間に海に逃げ込める。


 息を切らせて岩場から草地に出、そのまま崖の方に抜けようとして思わず。

 前触れもなく眼前に現れた魔族ジェマの男に、アルエスは一瞬思考が麻痺して立ち竦む。転移魔法テレポートによるものだと認識が追いつく前に、彼は剣を抜いてアルエスの方へと踏み出した。


「この島に鱗族シェルクなんて珍しいじゃねぇか。しかも若い娘なんて何十年ぶりかね」


 笑み混じりの掠れ声がざわざわと鼓膜を擦る。瞳に宿る狂気の光に戦慄して声が出なかった。無意識に後退するアルエスを追い詰めるように、魔族ジェマの男もじわじわと歩を進める。


(シィ、あいつの属性判る?)


 くすんだ灰色の髪に、暗い蒼の双眸。予測は出来るが確証を持てない。


『風ッぽぃシィ』


 不安そうなシィの答えは思った通りだった。風属性は水の魔法に弱い、その理に則って、アルエスは気力を振り絞って【氷の息フリーズ・ブレス】を唱える。

 男の周囲で急激に冷気が生じ、纏いつくように男を襲った。苛立つように彼がそれを振り払っているうちに、アルエスは身を翻して坂を駆け下る。

 ――が、幾らも進まない内に背中に鈍い衝撃が走り、その勢いのまま押し倒された。視界の端、翼竜の翼が人の腕に戻ってゆくのが見え、彼がワームの部族だったと知る。


「てこずらせやがって」


 無遠慮に髪を掴まれ、痛さに悲鳴が喉から漏れた。髪なんていっそ切り捨ててしまおうかと、腰のスティレットに手を伸ばした瞬間――視界がぐるりと回転した。

 叩きつけられるように地面に投げ出され、激しくむせて咳き込む。内側から圧力が逆流するような息苦しさに、涙が滲んで視界が歪んだ。

 吸って吐くだけの呼吸すらままならず、痺れた頭の芯が辛うじて、視界の変化を知覚している。


 強制的に、彼の転移に巻き込まれたのだ。

 空間を捻じ曲げ場所を移動する魔法は、本来なら身体に大きな負担が掛かる。まして、強制なら尚更だ。

 頭の中でシィが必死に呼び掛けているが、それすらも煩わしかった。


「久々の獲物を奴らと分け合うなんてやだね。悪いが俺だけで、ゆっくり味わわせてもらうぜ」


 同伴していた仲間に対する言い訳でもしているのだろうか。

 痛みを堪えつつ身体を捩って逃げ出そうとするも、あっさり押さえつけられ、仰向けに組み伏せられる。


「おっと、魔法は勘弁してくれよ」


 最後の足掻きも叶わず大きな手で口をふさがれ、呼吸すら出来ない。全身の痛みと、恐怖と、息苦しさで、眦から涙が零れ、真珠に変わって地面に落ちた。

 男が、獣みたいな形相でにやぁりと笑って振り上げた、錆びた剣の切先が、逆光を弾いてちかりと光った。


 ――殺される。


 直感みたいに思って、固く目を瞑る。――が。

 次の衝撃は襲って来ず、かわりにいきなり男の身体が覆い被さって来た。嫌悪と恐怖で思わず暴れたら、ひどくあっさり顔からてのひらが外れる。


「……え?」


 アルエスの上で、男は昏倒していた。

 何が起きたか分からず、彼女は恐る恐る上を見る。


「大丈夫かい?」


 逆光を遮る長身。一つに束ねた長い髪。

 ひたすら茫然と固まる彼女を見て、低く穏やかな声が不思議そうに尋ねかけた。


「アルエス?」

「えっ……」


 出会い別れを繰り返した旅の中、すぐには思い出せず、彼女は凍りついたまま声の主を見上げる。

 長身の影は身軽くしゃがみ込み、アルエスに覆い被さっていた魔族ジェマの首根っこを掴んで、無造作に引き剥がした。そしてやっぱり無造作に地面に放り出した。


「ヤマネコだったら遠慮なく殺したけどね。魔獣の監獄とはいえ、アレも一応ヒトらしいし。……殺しちゃいないよ」


 笑顔に近く細められた紺碧の双眸。

 それを見た途端、アルエスの中で記憶が繋がった。


「あーッ! 森で逢った人間フェルヴァーのお兄さんっ!?」


 十年も前の記憶、一度きりの邂逅。

 名も知らず別れて去った、幼い娘がいると話した、あの時の。


「なっ、なんでお兄さんがここにっ!?」


 驚きのあまり裏返った声で叫んだら、彼は口の端をつり上げ揶揄するように言った。


「その台詞、そのまんま自分に向けたまえよ」


 それは確かにごもっともで。

 あは、と、なんだか中途半端にごまかし笑いながら視線を逸らしたら、彼はくすりと笑った。


「……さて」

 立ち上がり、細くて鋭い視線を向け、尋ね掛ける。


「まさか観光じゃないだろう。連れがいるなら早く合流すべきだし、――それとももしや、流刑かい? ……まぁ、言いたくないなら聞かないけど」

「えっええと……ってこのヒトこのままでいいんですかっ?」


 まだ頭の中がパニックしているようだ。脈絡のない問いにも、長身の彼はにこりと笑って右手を上げて見せる。


「手刀を打ち込んであげたから、暫く目は覚めないさ。放っておけばいいよ。僕はもう行くけど、君はどうするんだい?」


 アルエスは慌てて立ち上がる。

 いつ起きるかも知れない男の傍に、一人残されるのは嫌だった。


「ど、どうしようっ!? どうしたらいいか解んないんですけどっ」


 彼は緩く首を傾げ、そして愉しそうに笑い出した。


「手違いか何かは知らないけど、そんなの僕に訊かれても困るなぁ。……ま、いいよ。解んないなら着いてくるがいいさ。何も面白いものはないけどね」


 手違いで来たわけではなく、目的がある。だが無理やり転移させられたせいで、どうすれば元の場所に戻れるのか見当がつかないのだ。

 それをどう説明すればいいのかも解らなかったが、とにかく今は彼に着いて行こうとアルエスは決める。

 彼がどんな人間フェルヴァーなのかは知らないが、少なくとも自分を助けてくれた。それも二度。

 四方危険だらけのこの島で、とにかく今は縋れるものが欲しかった。


「あ、あのっ! お兄さんの名前教えてくださいっ」


 あれから十年。彼の年齢はもう、お兄さんというほど若くはないのだろうけど。

 歩幅の違いに遅れないよう早足で息を切らしつつ、アルエスは彼に尋ねる。彼はそれを振り返り見て、おもむろに彼女の右手を掴んだ。


氷月ひづきっていうんだ」

「……ヒヅキさん?」


 じわりと感じる右手の温度。温もりが不思議に懐かしくて、鼓動が早くなる。


「通り名だけどね。僕は暗殺者アサシンだから。……一応、不便はないだろ?」

 そう言って彼はくすりと、人懐っこく笑った。




 手を引かれて連れて行かれたのは、岩山の洞窟だった。空気が乾いて冷えていて、寒さは案外平気なアルエスでも、なぜか身震いが止まらない。

 彼は入り掛け、自分の上着を脱いでアルエスの肩の上に被せて言った。


「この辺には精霊が少ないんだ。少し余計に服を着た方がいいかもね」

「ありがとうです」


 なるほど、この寒気はそういう理由なのだろう。なぜだかシィまで、気配を潜めてしまっている。

 彼に促されるままに袖を通したら、手先がすっぽり隠れてしまった。

 丈の高さは膝より少し上くらい。ぶかぶかのハーフコートを着ているみたいで、収まりが悪い。


「ちょっと大きかったかい?」


 訊くまでもなく見て解ることを笑いながら言って、身を屈めて袖を折り返してくれる。その動作は自然で、手早かった。


「……ヒヅキさん、あの、娘さんは?」


 もしかして、聞いてはいけないことだったかもしれない。でも彼の所作は、遠い昔の懐かしい想い出を呼び起こすものだった。

 幼かったアルエスの手を引き、膝に乗せてくれた、人間フェルヴァーの父を思い出させるような。

 だから、思わず聞いていた。

 彼は、細い両眼をさらに細める。


「訳あって、今は離れて暮らしてるんだ。たぶん元気でやってるんじゃないかな。ここは手紙の届かない場所だから、連絡取り合ったりはしてないけどね」

「そうだったんですか……」


 口が勝手に答えた。

 けれどアルエスは頭の中で、全然違うことを思い巡らす。

 十年前に生まれたばかりだったなら、娘は今十歳くらいということになる。


 ――パパは、遠い所に行ってて、手紙も届かないんです。

 瞳の大きな少女の笑顔が、不意に脳裏に浮かんだ。ルベルが以前見せてくれた似顔絵が、目の前の彼に重なる。


「――ッ!?」


 思わずアルエスは、目を見開いて彼を見つめた。どくん、どくんと跳ねる鼓動が、外まで聞こえるんじゃないかと思えるくらい、煩い。

 ロッシェさん、と口をついて出そうになるのを、辛うじて呑み込む。彼が怪訝そうに首を傾げた。


「どうしたんだい?」

「ぁ、いえッ。ヒヅキさんは、娘さんに逢いたくなったりしますか?」


 手馴れたこの仕草は、父親のする所作だ。

 歩幅の違いで置いてってしまわぬように手をつなぎ、寒くないよう上着を着せて乱れを正す。これは、彼がルベルにしてあげていたことだ。

 抑えきれず震えた声を、彼は気づいただろうか。


「娘ねぇ……。ずっと小さい頃に別れちゃったしねー、たぶん僕のことは忘れてるんじゃないかな」


 すとんと彼が呟く。その答えになんだか愕然として、アルエスは顔を跳ね上げた。


「なんでそんなふうに思うんですかっ!?」

「だって、そんなものだよね?」


 緩く笑って返される答え。強がりなどではない、本気でそう思っていると判る、淡白な口調。

 ――それに、ひどく悲しくなったのは。


「そんなコトないよッ!」


 不意に、泣き出しそうに叫んだアルエスを、彼はきょとんと見た。涙があふれてきて、みるみる視界が霞んだが、止められない。


「ボクのお母さんはッ、十五年くらい前に死んじゃったし……、お父さんは人間フェルヴァーだったからもう何十年も前に死んじゃったケド……っ、ボクは忘れないし忘れたくないっ! 撫でてくれた優しい手も、抱き締めてくれたニオイも、絶対にッ……!」

「……あぁ、御免ね」


 彼が困り笑いの表情で自分を見ている。借りた服に涙が落ち、真珠に変わって岩場にかすかな音を響かせた。


「ボクじゃなく……っ、娘さんに謝ってくださいよぅッ……!」

「うん、解った。――ごめん」


 長い腕が優しく肩に回され、抱きしめられ、あやすように背中を叩かれる。細いようで強い力の指先と、ふんわりあたたかい体温。

 ――本当なら、このすべてはルベルの側にあって、ルベルを抱きしめてあげるべきものなのに。


「ヒヅキさんの……バカッ……!」


 困り顔は見なくたって想像ついた。

 彼は本当に、解ってないのだ。自分だって五年も経つのに、身体が全然忘れてやしないと――そのことすらも。


 自らの意志で娘の元を離れ、今まだ逢おうとすら思っていない彼。今、ルベルが来ていることを知らせれば、心の準備が出来ていない彼は――……。

 今はまだ、話せない。かといって、どんな風になれば話してもよいのか、アルエスには判断がつかなかった。


 回された腕はあたたかく優しかったけど、そのすべてがただひたすら悲しくて、アルエスは彼の腕の中でずっと、泣き続けた。







 to next.

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