第4話 楽
七瀬が入院してから二週間が経った。今どんな状態にあるのかは分からない。入院したと聞いた時はすぐにお見舞いに行こうとしたが、家族以外は面会謝絶になっているらしく断念した。
もう七瀬が寿命だと言っていた一ヶ月になる。そう思うと気が気ではなかった。今になって、もっと色んな場所へ連れて行ってあげたらよかったと後悔する。
「賢太」
母さんが食事中にふと箸を止めた。
「あんた、今日もう一度なっちゃんに会いに行きなさい。私からもお願いするから」
「……ありがとう」
僕の心情を察したのか、母さんは気を利かせてくれた。ありがたいことだ。
朝ごはんを食べ終え、食器を片付けているとインターフォンが鳴った。母さんが玄関の方へ向かった。
「あら、七瀬さん」
その母さんの声を聞いて、僕は急いで訪問者を確認しに行く。だがそこに立っていたのは、七瀬のお母さんだった。顔色が悪く、最後に会った時よりもかなり痩せてしまっている。
「どうしたの?」
「娘が……朱里がいないの!ここに来てない!?」
「お、落ち着いて!何があったの?」
七瀬のお母さんは混乱気味に事情を話し出した。どうやら七瀬は最期の時を家で過ごすことに決めたらしく、昨日退院していた。でも、今日の朝に七瀬を起こしに行くと部屋はものけの空になっていたという。
「朱里にもしものことがあったら……私、どうすれば……!」
今にも泣き崩れそうな七瀬のお母さんを見て、いてもたってもいられなくなった。
「僕が絶対見つけ出します」
「ちょっと、賢太!」
お母さんの制止する声を聞く頃には、もう家を飛び出していた。
*
病気の進行具合から見て、それほど遠くに行けるほどの体力は残っていないはず。昔の記憶を辿りながら、七瀬のいそうな場所を手当たり次第探して行く。
二人だけでかくれんぼした神社、探検家ごっこをした公園、お小遣いを握りしめて何を買うか相談し合った駄菓子屋.......楽しかったあの頃の思い出が巡り、余計に息が苦しくなった。
「どこに行ったんだよ」
こうしている間にも七瀬がどこかで倒れていたら…焦りのせいか冷静な判断ができない。
自転車を精一杯漕ぎ続ける。汗が頬を伝って、垂れ落ちる。七瀬が家を飛び出してまで行きたい場所なんて───
『最後にあそこだけ行きたかったかな』
僕はブレーキを掛けて止まった。そうだ、あの時。思い出せ。七瀬はあの時なんて言っていた?
『もうそろそろ時期だろうし』
そろそろ……時期……
8月の下旬。目が眩むような強い日差し。遠くない場所。七瀬が最後に行きたいところ……
「……あ」
僕は勢いよく自転車を反対方向に向け、引き返した。もしかしたら、あの場所にいるかもしれない。
坂道を立ち漕ぎで登っていく。普段全く運動していないせいか、足が吊りそうになる。それでも七瀬がいることを信じて一心不乱にその場所へ向かった。
*
あれは十年前、真夏の太陽が照りつける暑い日だった。
僕達が通っていた幼稚園は山の中腹にあり、周りは木々や田原に囲まれていた。
週に一度ある散歩の日は、年長の子が年少の子と手を繋いで二列に歩くようになっていた。
いつもの散歩コースを歩いていると、家も何も無い
近くの木陰で休憩をしていると、七瀬と一緒にいた年少の男の子が急に帰りたいと言ってぐずり出した。七瀬は何を思ったのか、先生が男の子をなだめている隙をついて、向日葵畑の方へ駆け出した。列の最後尾だったせいか、誰も気づいていないみたいだった。僕はかろうじてその瞬間を見ていた。
「せんせー、なっちゃんが…」
先生は僕に目もくれず、わあわあと泣いて止まない男の子に付きっきりだった。こうしている間にも七瀬はどんどん遠ざかっていった。
気づくと僕は向日葵畑の中に駆け込んでいた。
「なっちゃん!かってにいったらダメだよ!」
自分の身長の倍以上はある大きな向日葵が行く手を阻むように咲き乱れている。
「なっちゃん!どこにいるの!」
負けじと出来る限りの大声を出すにも、耳に張り付くような蝉の鳴き声が、僕の声をかき消していく。それを振り切るようにひたすら走った。一瞬だけ七瀬の服の端が動くのが見えて、その方向に走る。
「みんなのところにかえろーよー!」
皆のいた場所から遠ざかれば遠ざかるほど、元の道が分からなくなる。段々心細くなって、速度が落ちていく。走ったせいで息が切れる。
「待ってよ……」
足が止まった。どうしたら見つけられるのか、幼い頭で必死に考えた。でも、何も浮かばなかった。早く、早く七瀬を……友達を見つけないと。息を整えて、深呼吸する。
「なっちゃああん!!」
僕の声はこだまして、一帯に響き渡った。
「……ケンちゃん?」
七瀬が向日葵畑の狭い小道の間から、ひょこっと顔を出した。
「なっちゃん……」
泣きそうなのを堪えながら、できるだけ笑って手を差し伸べた。
「一緒にかえろ」
僕がそう言った時の七瀬は、どんな顔をしていたっけ。
*
坂を登りきり、開けた場所に出た。
辺り一帯、鮮やかな黄色で埋め尽くされている。ここに来たのはいつぶりだろう。小学生の頃にも何度か来たことがあった気がするが、その頃の記憶は朧げなままだ。
相変わらず七瀬の姿は見えないが、ここにいるとなぜか確信していた。
道脇に自転車をとめて、向日葵畑に近寄る。
時折、透き通ったような涼しい風が吹き、体にこもった熱を冷ましていく。辺りを見回しながら畑道を歩き出した。花の独特な甘い匂いが立ち込めている。
いくら幼い頃より身長が伸びたとはいえ、2m近くある向日葵は僕を萎縮させた。七瀬がいることを懇願するように、一歩一歩を踏み出す。
強く風が吹いた一瞬、向こう側の向日葵の奥で人影が動く気配がした。
「七瀬.......?」
慌てて人影を追いかけるが、その場に行った頃にはどこにも見当たらなかった。気のせいじゃない。まだこの辺りにいるはず。
「どこにいるんだ」
走る。そういえば前もこんな風に七瀬を探したんだ。
あの日の幼い少女が目の前を駆けていく幻想が見える。
「はぐれるよ」
手を伸ばそうにも届くような距離じゃない。少女が遠くに行く。
「見えなくなる」
向日葵に紛れて、どこにいるのか余計に分からなくなる。
「待ってよ」
少女の笑い声が頭の中で響く。声が掠れる。
「いかないで」
笑顔が、仕草が、走馬灯のように蘇る。視界が滲む。
「なっちゃん」
懐かしい名前を口にする。
夏に攫われそうな彼女を取り戻したかった。
「なっちゃああん!!!」
あの頃よりずっと力強く、野太くなった声で、七瀬を呼んだ。鼓動は早く、息が切れて膝に手をつき俯く。
「ケン、ちゃん……」
顔をあげると、七瀬が少し先に立っていた。安堵で一気に全身が脱力して、その場でへたり込みそうになった。
「本当に七瀬…だよな?」
「うん」
色んな記憶が交錯したせいで、目の前にいる七瀬さえ幻なのではないかと疑ってしまう。
「覚えてたんだね。ここ」
「忘れてたよ。でも思い出したんだ」
「懐かしいな。昔もこうやってケンちゃんが探しに来てくれたっけ」
「七瀬の母さんが心配してる。早く帰るよ」
「あー……その前にさ」
七瀬は頬をかきながら、申し訳なさそうに微笑んだ。
「少しだけ二人で歩きたい」
*
「本当は迷惑かけたかったわけじゃないの」
「うん」
「だけど何もしないまま死を待つのが嫌で、この景色をもう一度だけどうしても見たかったんだ」
「だからって勝手に抜け出すのはダメだろ」
「そうだね、ごめんなさい」
人が目を離した隙にどこかへ行ってしまうのは昔から変わっていないが、今日の行動はきっと七瀬なりに覚悟したものだったのだろう。今までよりも濃く反省の色が滲み出ている。
「私ね、死ぬって聞いた時はそりゃすごく嫌だったけど、思い残したことはないって思ってたの。でもね、一つだけどうしても叶えたいことがあった。ケンちゃんとまた昔みたいに仲良くなりたいって」
「そっか」
思えば七瀬が疎遠になっていた僕に声をかけ、「デートに行こう」と誘ったのは不器用ながらも僕と向き合おうとしてくれていたのかもしれない。
「私のこと見つけてくれてありがとうね」
「見つけないと、あのままもう会えなくなる気がしたから」
海辺で二人抱き合って泣きじゃくった日。あれから、七瀬とは会えないまま時間が流れた。
「あのさ、七瀬。言いたいことがあるんだ」
「なに?」
口に出すのが怖い。軽蔑されるだろうか。悲しませてしまうだろうか。色んな思考が巡っていくうちに手が震え始めた。
自分を落ち着かせるように息を小さく吸う。
「ずっと……避けててごめん。お前が誰かに悪く言われるのを見ているのが、どうしても耐えられなかった。自分が傷つくのが嫌で逃げてた。本当に、ごめん」
「……ううん、謝らないで。あのときのケンちゃんがそうしたいと思ってたんだから仕方ないよ。私もこのまえは八つ当たりしてごめんね」
覚悟していたよりずっとあっさりした言葉に拍子抜けした。七瀬は顔を近づけて「それにさ」と言葉を続ける。
「ケンちゃんはやっぱり私のために走ってきてくれたでしょ?」
「やっぱり?」
そう聞き返すと七瀬はムッとして「なんでもなーい」とスタスタ歩き始めた。
「教えてよ」
「自分で考えてくださーい」
七瀬は悪戯っぽく舌を出した。そうして他愛のないやりとりをしばらく続けていると七瀬が「あっ」と小さく声を上げた。
彼女の目線の先を見やると、3mはあるような向日葵が咲いていた。
「すごいね!この向日葵おっきーい」
大きさもそうだが、それだけが他と異質で一段と輝いているように見えた。僕は向日葵を眺めながらぼんやりとあることを考えていた。
「ケンちゃんどうしたの?」
「なんだか七瀬って向日葵みたいだな」
「私が、向日葵?」
突拍子もない言葉を向けられ、七瀬は目をぱちくりさせる。
「時にはしなだれることもあるけど、陽が刺した日は眩しいほどに咲く。そんなところが」
彼女に感化されたせいか少し詩的な表現を使った自分が恥ずかしくなってくる。
「あ、ごめん、やっぱ忘れて」
「決めた!来世は向日葵になる!」
「え?」
予想外の反応だった。「来世は自分で決められるものじゃない」と言おうとしたが、正論で返すのは今更なので乗ることにした。
「でも、向日葵は夏が過ぎたら枯れちゃうよ」
「それでもいい。短い一生でもこんな風に精一杯生きられるなら」
一種の決意を感じる口調に、何も言い返せなかった。
「普通にはなれなくても、私のそばにはこうやって私のこと見ててくれる人がいたから。私の人生はそれだけでも満足だよ」
「……そっか」
清々しいその表情は今まで見た中で一番綺麗だった。そんなことを言ったら揶揄われるから言わないけれど。
「ねえ、向日葵の花言葉って知ってる?」
「え、なに?」
「ふふふふ。なーいーしょっ!」
「なんだよ」
駆け出した七瀬は両手を太陽に向け、くるくるとその場を回った。笑って、跳ねて、駆けて、また回る。
「そんなに動くと危ないぞ」
七瀬は僕の忠告を聞くことなく、自分の世界に入り込んでいた。蝉のやかましさを跳ね返すような笑い声が響く。いつになく楽しそうで、見ているこっちも心が弾むような気がした。
パッと僕を振り返り、麦わら帽子のつばを掴みながら、七瀬は大きく息を吸い込む。
「ケンちゃん!だーいすき!」
一瞬驚いて、返答に困った。僕はこの言葉に今までとは少し違う感情を抱いてるのに気づく。
そうだ、僕は────
「僕も好きだよ」
意味はきっと違うだろうけど。
僕の声は七瀬のはしゃぐ笑い声にかき消されて、彼女に届くことは無かった。
僕はこの夏をいつまで覚えていられるだろう。大人になれば忘れてしまうだろうか。いや、きっとまた思い出して感傷に浸ってしまうだろう。だけど、過去に囚われないように、縛られないように、そっと胸にしまっておこう。
向日葵が枯れるまで、幸も不幸も抱えて生きてやる。
その三日後、七瀬は家族に見守られながら安らかに息を引き取った。
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